死と向かい合って
若者は悲しみに打ちひしがれていました。その足の下2㍍足らずのところには,葬られたばかりの兄の遺体が横たわっていました。
「兄さん,どうして死んでしまったんだ」と,つぶやいた若者は,むせび泣きながら肩を震わせました。それから,「どうして人は死ななければいけないんだ。どこへ行ってしまったんだ。兄さん……ジョール兄さん,一体どこにいるの」と,声を詰まらせてうめきました。
28回目の誕生日を目前に控えていたジョールは八人兄弟の長子でした。両親は猫の額ほどの土地を耕して生計を立てるつましい地方人でした。両親は多大の犠牲を払ってジョールの教育費を捻出しました。しかし,息子が卒業して医師になったときには誇らしい気持ちになりました。両親はこのようにも考えました。「これでジョールはほかの子供たちを育てる上で力になってくれる。わたしたちも少しは楽ができるというものだ」。
ところが,大学付属病院でインターン生活を終えてから五か月後に,ジョールは死んでしまったのです。
前述の若者はこうした事柄すべてに思いをはせただけでなく,さらに多くのことを考えました。ジョールはこの若者にとって兄以上の存在でした。良き助言者,また同労者であり,友人だったのです。ところがそのジョールはもういません。しかもそれは突然の出来事でした。うだるように暑いある日曜日のこと,ジョールは病院の友人たちに,昼食後,川で“一泳ぎ”するつもりだと告げ,一緒に来るよう誘いました。でも,友人たちが行く気にならなかったので,独りで出掛けました。
ジョールは不帰の客となりました。その日の後刻,遺体が家へ運び込まれたとき,親族や友人たちは深い悲しみにつつまれました。
若者は頭の中で,そのすべての事実を把握しようと必死に努力しました。“キリスト教式”で行なわれた葬式の際に,ジョールは「より高い奉仕に召されたのだ」と,牧師が言いました。村人たちは,ジョールは先祖たちと一緒に暮らすために,そのもとへ戻ってゆくところだ,という意見でした。村人たちはジョールの霊を先祖たちの住む霊界へ旅立たせるため,“再埋葬”をする準備までしていました。
「でも,兄さんは今,本当に生きているのだろうか。ぼくの悲しみを分かってくれているのだろうか。幸せなのだろうか。一体どこにいるんだろう。死でそのすべてが終わるのだろうか」と,若者は考えました。
愛する者の死を悲しんでいるときには,大抵の人が同じような事を考えるものです。悲惨な事故や戦争や突然の病気で愛する人を失った人のことを考えてみてください。我が子を亡くした母親や親を失った家族のことを考えてみるとよいでしょう。また,いわゆる自然死と呼ばれる死に方をする人々すべてについても考えてみてください。
なぜ,またどのようにして,死が“自然”の成り行きとして受け入れられるようになったのか不思議に思われませんか。すべてが死で終わってしまうのかどうか,不思議に思われませんか。死を克服することができますか。