子供は祝福ですか,それとも悩みの種ですか
「家にたどり着いた時には,全身から力が抜けたようになっていました」。一人の父親は自分のバンで男の子をはねてしまった直後のことを回想してこう述べています。子供は突然道へ飛び出して来て,はね飛ばされたのです。自分の子供たちと一緒にやっとの思いで家にたどり着いたこの父親の頭の中では,鋭いブレーキの音,気分を悪くさせるような衝突音,救急車のサイレンなどが一緒になってうずを巻いていました。
「子供たちは私が惨たんたる状態にあることを見て取りました」とその父親は語っています。そして,子供たちが自分を居間の床の上に横にならせ,背中をさすってくれたことについて述べています。「お父さん,できるだけのことはしたじゃない。お父さんはできるだけのことをしたんだよ」と,思いやりのある子供たちは言いました。父親の背中をさするこの子供たちの手から流れ出る愛ある気遣いは緊張をほぐしただけでなく,父親がそうした悲劇に付き物の感情的な苦悩の多くから逃れるのに役立ちました。
この父親は子供たちの存在をどんなにかうれしく思ったことでしょう。そのような子供がいたら,その子をかわいがるのではありませんか。確かに,子供たちは喜びの源となり得ます。
一方,別の家では全く異なった光景が見られました。父親はやはり床の上に横たわっており,息子と娘が父親の上を行ったり来たりしていました。ただこの父親は死んでいました。警察の話では,その父親の実の息子と娘が雇った殺し屋に殺害されたということです。欲望にうごめく二人の若者の手は死んだ父親の所持金300㌦(約7万2,000円)とクレジット・カード数枚を奪い,すぐにそれを使い果たしてしまいました。「おやじはおれたちのしたいことを何一つさせなかった。マリファナもだ」とこの若者は自分を正当化しました。
自分の親を実際に死に至らせる子供はめったにいませんが,様々な仕方で反抗する子供は無数にいます。自分の子供の言動を大いに憂慮する親の数は増加しています。かわいい幼子が成長して若者になると,親や社会を痛烈に批判する,という事態が余りに多く見られます。無数の親の脳裏から離れないのは,「子供たちはどうしてあんなことをするのだろうか」という質問です。
その答えはいろいろありますが,決して単純なものではありません。同じ両親から生まれた子供でも,全く異なった行動を取ることは珍しくありません。親から申し分のない世話を受けた子供でも,非行に走ることがあります。その逆も真です。一人の男の人はため息まじりにこう話しました。「私が私生児であったため,母は自分の姉の所に私を里子に出しました。おばはひとかけらの愛情も示さず,たびたび殴り,私を家事をさせる“道具”としか見ていませんでした。14歳の時には賭博狂になり,おじから『おまえのようなやつはろくな人間にならない』とののしられました」。ところが,この人は今では10人の子供を立派に育てています。
後で述べるように,この人の経験は成人してからの行動の仕方に著しい相違をもたらす一つの要素を明らかにしています。
親の場合 ― 子供がある種の行動を取る様々な理由について深い理解を得ているかどうかで,親として成功するか否かが決まることもあります。そうした知識は,子供をしつけるための努力を一層効果的なものにするのに役立ちます。
子供の場合 ― ある種の行動を取らせる原因となる強力な力が数々存在しています。それらが何であるか,またどうすればそれに首尾よく対処できるかを知っていれば,自らの幸福を増し加えることになります。
では,子供たちがある種の行動を取るのはなぜか,その理由の幾つかを考えてみましょう。