ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目88 11/8 16–17ページ
  • ポルトガル ― その26年後

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • ポルトガル ― その26年後
  • 目ざめよ! 1988
  • 関連する記事
  • 極貧から最高の豊かさへ
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1999
  • 神はいつも過分のご親切を示してくださいました
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2017
  • 『エホバを待ち望む者はみな幸いである』
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1991
  • エホバの招きに応じて報いを受ける
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 2001
もっと見る
目ざめよ! 1988
目88 11/8 16–17ページ

ポルトガル ― その26年後

「今後30日以内に国外に退去せよ」。この最後通告を受けた私たち夫婦は,宣教者としての任命地であるポルトガルから1962年に出国を余儀なくされました。

私たちは他の四人の宣教者と共に,エホバの証人であり,戦争と政治の問題に関して中立であるという理由から,国外退去させられました。私が聖書研究を司会していた19歳のジョアンウ・ゴンサルベス・マテウスは,確固とした中立の立場を取った,ポルトガル人で最初のエホバの証人でした。秘密警察の署長はジョアンウの名を挙げて,このような良心的不服従はポルトガルでは認められないぜいたくである,と私に告げました。私たちがポルトガルを去った時,ジョアンウの消息は途絶えました。

当時,ポルトガルは,アフリカにあるポルトガル植民地の反乱と戦う,カトリック-ファシストの独裁国でした。人々の精神は虐げられ,抑えつけられていました。金で雇われた情報提供者の組織のため至る所に不信感が広がっており,そうした密告者から,ポルトガル語でPIDE(国際警察国防庁)と呼ばれた悪名高い秘密警察に告発される恐れがありました。

そのため,私たちは追放され,エホバの証人の宗教は禁令下に置かれました。しかし,ついに1974年,軍隊の支援を受けた革命軍がファシスト政権を打ち倒し,民主主義と信教の自由が導入されました。同年の12月,エホバの証人の宗教は法律上正当とみなされ,その後ほどなくして証人たちは,リスボンから海岸に沿って数キロ離れた所にあるエストリルに支部事務所を組織しました。ところが,業の急速な拡大のため,そこは手狭になり,1983年にものみの塔の新しい支部,つまり“ベテル”(ヘブライ語で“神の家”の意)の建物群を建てるための土地が購入されました。美しくて新しい建物が,証人たちの手でアルカビデセという小さな町に建てられました。

ベテルは丘の上にあるので,そこからはリスボンの全景や,タホ川にかかる有名なつり橋を眺めることができます。そのつり橋は,堂々としたクリスト・レイ(王なるキリスト)の像に通じています。別の方向に目をやると,エストリルや海岸線を見ることができます。

私たちは,他の多くの元宣教者たちと共に,1988年4月の献堂式のプログラムに出席するよう招待されました。妻と共にリスボン空港に着いて警察の検査を受けた時,私たちは疑われるのではないかと思わざるを得ませんでした。警察が,26年前に再入国を阻んだ古いブラックリストを調べることはないでしょうか。しかし,問題はありませんでした。PIDEは消滅し,ポルトガルは新しくなっていたのです。人々は以前よりも開放的で,ほほえみを浮かべ,話し好きになっていました。また,私たちが出国した1962年当時,エホバの証人は1,000人ほどでしたが,今では3万3,000人以上のエホバの証人がいます。エホバの証人は297人に一人の割合となっていますが,これはヨーロッパでも有数の数字です。

私たちは,ポルトガル語の通訳者マリオ・ピント・オリベイラを介して,エホバの証人の統治体の成員であるミルトン・ヘンシェルが行なう午後の講演を聞くため,レステロ(ベレム)・サッカー競技場に行きました。妻は26年余り前,マリオの英語の教師をしていたので,大変喜びました。競技場に通じる丘を上ると,驚くべき光景が見られました。4万6,000人を上回るポルトガル人のエホバの証人とその友人たちがプログラムを聞くために集まっていたのです。

プログラムが終わった時,体格のよい40代のポルトガル人のエホバの証人に会いました。その人は私に話しかけたそうにしていました。「イルマンウ・エリコ(エリック兄弟),私がだれだか分かりますか」と,その人は尋ねました。私は,分からないと正直に告げました。しかし,もっとよく見て,数キロの体重と26年という歳月を差し引いてみました。それはジョアンウ・ゴンサルベス・マテウスでした。何年も離れ離れになっていた友との何と喜ばしい再会だったのでしょう。ジョアンウは夫人と3人の娘たちを紹介してくれました。すばらしい家族で,皆エホバの証人でした。

私たちは旧交を温めながら,ポルトガルで四日間楽しく過ごしました。迫害にもかかわらず何年間も忍耐してきた忠実な男女に会って,大いに励まされました。その中の一人にジョゼ・ランサがいます。彼は,エホバの証人が迫害されていた時のジャーナリストで,今では旅行する監督として諸会衆を訪問しています。もう一人は,ポルトガルの最初の開拓奉仕者であるアントーニオ・コルデイロです。彼らの喜びに満ちた顔には,神の王国の良いたよりを幾十年も忠実に宣べ伝えてきた結果もたらされた,ポルトガルの新しい霊的な繁栄が映し出されていました。

私たちは,秘密の王国会館のアパートがあった通りを訪れました。王国会館は,カルサダ・デ・アロイオス66番地のアパートの2階にありました。そこはアパートのままでしたが,今ではポルトガル全体にエホバの証人の会衆が440以上あり,合法的な王国会館で集まりを開いています。26年間離れている間に,ポルトガルが確かに変わったことが分かりました。エホバの証人にとって,事態ははるかに良くなっていたのです。―寄稿。

[16ページの図版]

ポルトガルのアルカビデセにある,ものみの塔協会の支部事務所と工場の景観

[17ページの図版]

リスボンのレステロ・サッカー競技場の特別プログラムに,4万6,000人が出席した

1961年にリスボンの近くの森の中で開かれた秘密の聖書集会

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする