香港からの報告
1954年度のヱホバの証者の年鑑より
伝道者 1951 30 1952 48 1953 66
香港で東と西が出会います。香港は,長年のあいだのニュー・ヨーク市とは違い,融合の地ではありません。しかし,ここには二つの違つた生活様式が見られます。エルサレムのイエスの時代には,ローマ人とユダヤ人の二つの制度がありましたが,この香港でも英国人と中国人の二つの制度があります。この両方の級の人々は,御国の証言を必要としています。協会の大きなよろこびは,多くの宣教者を香港に派遣することでした。宣教者は香港で非常に良い仕事をしており,もつと多くの宣教者は派遣されております。兄弟たちは,休日の使い方にとても良い模範を示しましたので,野外で奉仕する伝道者の最高数を得ています。この点について,支部の僕の語る言葉は興味深いものです。
ふりかえつて見る時に,ヱホバの証者の最大の奉仕努力は,東洋の休日でも西洋の休日でも,すべての休日を全く神のよろこびの奉仕に献げることによつてきたということが分ります,つまり,新しい最高数が得られたということなのです。
共産中国がぐるりと取りかこんでいるために,私たちの活動する地域は制限されていますが,その地勢は絵のように美しく,変化に富んだものです。それで,田舎の安らかな気分の漂う明るい緑の背景で私たちは仕事をすることができます。休日には,町から短い距離のあいだバスに乗つてでかけ,獅子岩といわれる険しい大山の下陰の路を歩き,小さな畠の中を巡つてあばら屋をみな訪れ,御国について語りました。ある時には,渡し舟に乗つて近くの島にある漁村を訪問しました。その村の通りといつても,それはほんの通路に過ぎず,汗臭い苦力の運搬人や,遊んでいる子供たち,眠つている犬,ぶらぶらジグザグに歩き廻つている豚などと共にその通路を分け合つて,使う始末でした。
最近に,4人の宣教者と36人の中国の兄弟はバスに乗つてでかけましたが,それは歌うたう戦士のバスになりました。そうです,歌うたう戦士でした。新世社会の大会から戻つてきた代表者たちは,多くの新しい歌を持つて来ませんでしたか? 港湾の丘を大速力で上り,証言しようと計画した近くの村に行つた時,私たちはこれらの歌を練習して興じました。正午までに村の下の部分を済ませ,それから丘を上つて仏教学校の壁の外にある竹藪に行きました。この日陰の場所で昼食を食べ,もつと多くの歌を歌いました。それで,好奇心に駆られた多くの人々が集まつて来ました。それから,厳粛な洗礼の問題が討議され,7人の新しい兄弟は立ち上り,献身についての聖書の質問の肯定の答えをいたしました。私たちのいたところの後ろには井戸があつて,ちようど聖書時代と同じように,水を汲みに来た人の幾人かは,すぐ立ち去らず,その話しを聞きました。洗礼をうける者たちが丘を下りて海辺に行つた後,残りの私たちは上にのぼり山の高いところにある家を伝道しました。
1年の中で最大の祝い,中国の新年は,2月に来ます。花火を仕掛けることについて,政府は禁止していましたが,その禁止が撤廃されてからは,昼も夜もボンボンと花火がうちあげられています。昔からの伝統によると,1年の初めに人は何をしなければならないかが命ぜられており,すべての人々はそれに従います。しかし,今年には増加した中国の証者は,この伝統を破り,この休日をも家から家への宣教に用いました。多くの兄弟は,この休日にも証言することができると知つたばかりではなく,また,人々は他の時よりもよく聞いて,文書をよろこんでうけ取るというのを知つて,驚きながらもよろこんでいました。