障害を挑戦とみなしなさい
古いことわざに,「字のへたな者は,自分のへたを筆のせいにする」というのがあります。このことわざには少なからぬ真理が含まれています。自分自身が期待していたこと,あるいは他人から期待されていたことが達成できなかった場合,人はたいていどうするでしょうか。その期待に添えなくさせた障害,いわば筆のせいにしないでしょうか。
実際に,障害も失敗にある程度関係があったかもしれません。しかし,それだけが原因でしょうか。
人間はどれほど大きな障害を克服することができるでしょうか。例をあげてみましょう。1969年のこと,ニューヨーク・メトロポリタン・オペラは,「アイーダ」の上演をもって公演を開始しました。それは「すばらしい」という評判で,「専門家気質の何なるかを示した」ものであった,と言われました。しかし,どこが特別にすぐれていたのでしょうか。それは指揮者でした。公演の二日前,その指揮者は氷の上に倒れて右手を折りました。それにもめげずに彼は,右手にギプスをはめ,左手だけで最後までオペラの指揮をしました。彼は障害を克服したでしょうか。確かに克服しました。
盲目であることが大きな障害であることに疑問の余地はありませんが,それでもある盲人はこの困難さえも克服します。もし盲人が,法学部を中退したり,いちばんビリで卒業したとしても,人は,生まれつき盲目の学生のために弁護してやることができます。ところがある学生はそうではありませんでした。970名の学生がいるなかで,彼は首席で卒業しました。
また,アメリカ,ノース・カロライナ州に住むある農夫はどうですか。その人の視力は非常に弱くて,昼と夜の違いさえわからないほどです。この人は夜中過ぎに農作業をします。というのはその時間は静かだからです。100ヘクタールほどの農地を耕作しているその人は,「音と指先が私の目です。…私のただひとつの問題は,私のほうがうまくできることがわかっているときに,私を手伝ってくれる人たちが私から仕事を取り上げようとすることです」と言っています。彼は,45頭の牛を,ひとつの牧場から他の牧場へ追って行くことができ,またそれらの牛に飼料を与えたり,皮下注射をしたり,雄牛を去勢したりすることさえできます。「牛が私をよく知っているので,私はほかの人よりも速く,そして容易に,牛に荷を負わせることができる」と彼は言います。
人びとはこのほかに,正式な教育の不足,貧困,人種的偏見などの障害に直面します。ある人びとはこれらの障害のために失望します。他の人びとはこれを自分への挑戦とみなしてその挑戦を受けて立ち,みごとに克服します。
こうした障害や挑戦に会ったことのない人でも,現在のような世界の状態のもとでは,必ずほかのむずかしい問題に遭遇するにちがいありません。たとえば,最善をつくしてあることをしようと思っても,誤解や,性格の相違による衝突がそれをはばむかもしれません。これは,同じ家族の間でも,また雇用者と従業員の間,あるいは仲間のクリスチャンとの間でもあることでしょう。そういうときはどうすべきですか。すねたり,自分をあわれむ気持ちや憤りに負けたりして,最善をつくす努力を怠りますか。それを挑戦とみなすのはどうでしょうか。適当な機会を選んで問題を持ち出し,相手と和解することがたいせつです。しかし,もし問題を解決することができないなら,それを気にかけないようにします。いわば鈍感になるのです。
あるいはあなたは,自分がすることに対してほかの者が感謝を示さないので悩んでいまますか。配偶者,両親,または子どもたちが,自分のすることに対して感謝を示さないかもしれません。感謝の表現はほんとうに,最善をつくしてしようという気持ちを鼓舞し,誘発するものですが,しかし,それが示されなくても,最善はつくせるものです。エレミヤとかエゼキエルなど,昔の預言者の多くは,同時代の人びとから賞賛のことばを受けることはまずありませんでしたが,それでも彼らは,神の傑出したしもべでした。使徒パウロの手紙を読むと,彼も,ある人びとに感謝の念が欠けていたために時々苦しんだことがわかりますが,それでも,クリスチャンとしての奉仕において,なんとりっぱな熱心の模範を残したのでしょう。(コリント後 10:10-12; 11:5,6)あなたの仕事において,自尊心と誇りをもってください。また,昔の忠実な神のしもべたちの場合と同じように,今日でも神はあなたの努力を見ておられ,その努力を正しく評価しておられるということを,常に自分に言い聞かせてください。
とくに,真のキリスト教を奉ずるということは,種々の障害の挑戦に対して立つということです。アフリカでは,一夫多妻の習慣,部族への熱烈な忠誠,呪物崇拝などの障害があります。そうした習慣をすてることは,大多数のアフリカ人にとっては越えがたい障害のように思えるでしょう。しかし,文字通り何十万人ものアフリカ人が,そうした事柄を単に挑戦とみなし,それを乗り越えて,エホバのクリスチャン証人になりました。彼らは,それを成し遂げたことをたいへん喜んでいます。
ほかの国々では,アルコール中毒,麻薬中毒,ギャンブル,いろいろな形の性の不道徳が,イエス・キリストの弟子になろうとする人びとに挑戦を投げかけます。その場合も多数の人びとがそれらの障害を克服して,エホバ神のクリスチャン証人になりました。―コリント前 6:9-11。
真のキリスト教を奉じるようになってからも,人は,挑戦とみなさねばならない障害に依然直面します。そのひとつは,宣教のさいにあう反対と無関心です。そのような反対は宣教をむずかしくします。しかしそれは手をゆるめたり,やめたりする正当な口実になるでしょうか。そうした障害にもかかわらず神への奉仕をやめなかった,多くのりっぱな模範が聖書中にあることを考えるなら,それは言いわけにはなりません。―ヘブル 12:2,3。
あるクリスチャンが,あすの朝は野外奉仕に行こう,あるいは,晩は会衆の集会に出席しよう,と『心に決める』とします。ところが急に天候が悪くなるとか,からだのぐあいが少し悪くなるかします。どちらも,決意を実行しないもっともらしい口実にはなりそうです。しかし,抵抗の最も少ない道を歩むことは祝福を取りにがすことです。もし,払う努力が大きければそれだけ物事を成し遂げたときの満足も大きいということ以外に理由がないとしても,予期しなかった障害を乗り越えることによって,まちがいなく多くの祝福を得ることができます。
障害というものは確かに,屈すべきものではなく,受け止めて克服すべきものです。