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目ざめよ! 1970
目70 12/8 3–7ページ

恋愛 ― 幸福な結婚に通ずるとびらですか

結婚は,十分に満足のゆく数々の報いと,深い喜びをもたらします。普通,若い独身者,あるいは,さほど若くはなくても独身の人は,結婚生活の幸福にあこがれます。アメリカの建国の父のひとりは,かつてこう言いました。「家庭の暖炉のそばで味わう幸福は,天の恵みの第一のものである」。天からの恵みの第一のものではないにしても,それは確かに,天の恵みのひとつであり,わたしたちは,そうした幸福を味わえるようにしてくださった創造者に,感謝しないわけにはいきません。

しかし,そうした幸福をもたらさない結婚がなんと多いのでしょう。十代の人たちの結婚がとくにそうです。アメリカでは十代の結婚の半数が離婚に終わっています。しかも,統計は不幸な実情すべてを物語ってはいないのです。そうした結婚の半数が正式の離婚に終わっているとすれば,別居したり,あるいは,別居はいっそう不利な事態を招くだけなので,別居せずにがまんしたりしているという例は,ほかにどれほどあることでしょう。十代の花嫁の約半数が挙式に際して,すでに妊娠しているという事実を考えると,そうした夫婦の多くが幸福を見いだすのは,たいへん困難であることが,よくわかります。

あのすばらしい感情

それにしても,多くの結婚生活が幸福をもたらしていないのはなぜですか。それは確かに,多くの場合,結婚したふたりが恋愛を重視しすぎたためと言えるでしょう。いいかえれば,ふたりがいっしょになるのに,性的な誘引力がおもな役割を果たしたのです。恋をする,あるいは,恋し合うことが,深い喜びをもたらすものであることは確かです。

しかし恋愛とは,「実際のものごととはほとんど関係のない感情で,むしろ,こうあってほしいとする理想の姿を想像したり,文学や美術あるいは夢その他によって形づくられるものを考えたりして,生ずる感情である」と述べる辞書もあります。

異性を互いに引きつける魅力に根ざす恋愛感情は,性ホルモンによる一種の化学反応ということができるかもしれません。しかし,純粋の幸福は,一種の化学反応以上の,はるかに多くのものごとと関係しています。

創造者は,男女双方に,互いに相手を求める強力な欲求を付与し,人類がふえつづけ,その数が多くなるように取りはからわれました。同時に,創造者は,人間がその欲求に関し,自制を働かさねばならないことをさとしておられます。恋愛は,それを本来の位置に保ってはじめて,幸福な結婚に通ずるとびらとなりうるのです。―創世 1:28。

失意を招くことがある

恋愛がもたらすおそれのある問題の一つは,それが失望を招きうるということです。それはどうしてですか。なぜなら,恋愛は,恋人の願いや欲求のすべてを満たす感情的なパラダイスなどといった非現実的な事がらを若い人びとに期待させるからです。そして,不十分な判断,自制の欠如その他の理由で生じた,自分たちの問題はすべて,幸福な結婚をすれば解決できる,という考えをいだかせる場合がしばしばあります。ところが,往々にして,結婚は,そうした問題をふやすことにさえなるのです。

恋愛は若い人びとに,あまり多くを期待させすぎる場合があります。それで,自分たちの理想を実現できないと,とかく,自分たちの結婚は失敗ではなかったか,と考えます。しかしながら,完全な人格の持ち主はひとりもいないのです。完全な判断を下すことのできない人間が,どうして完全な結婚を期待できるでしょうか。

恋愛は,たいへん望ましいもののようにみなされているため,若い人びとを誘惑して,不正直をさせ,そのうえ,失意に陥れる場合があります。若い女性は,本心ではなく,相手に喜んでもらえることを口にするなど,さまざまな手練手管をろうするかもしれず,実際,髪を染めたりメーキャップをしたりなどしてもあき足らず,余分にパッドなどを入れたりして,魅力的な容姿をつくろうと腐心するかもしれません。一方,若い男子は負債をかかえていながら実情を恋人には話さなかったり,実際に得ている以上の高額の収入があるかのように偽ったりするかもしれません。

若い人びとは,恋愛は必ずしも真の愛情ではないことを,ともすれば見落とします。事実,自分自身ではそれと気づかないかもしれませんが,恋愛は,往々にして,無私の愛というよりも,むしろ利己的なものなのです。というのは,人間の「〔心臓〕はすべてのものよりも偽るもの」だからです。(エレミヤ 17:9,〔新〕)恋愛は幸福な結婚をもたらさない場合がしばしばありますが,一方,恋愛をしなくても,幸福な結婚をすることは全く可能です。恋愛は食後のデザートにたとえることもできるでしょう。甘いものが好きだからといって,どんなデザートが出るかだけを考えて,食事を注文したり,あるいは,デザートだけを食べてやってゆこうとしたりするのは愚かです。からだの健康には,もっと実質的な食べ物が必要です。結婚生活における感情面の福祉も同じで,恋愛以上のものが必要です。

夢中になることの危険性

恋愛が必ずしも幸福な結婚に通ずるとびらではないと言える別の理由は,実際には単に夢中になっているだけなのに,ややもすれば,それが誠実な愛情とみなされる,という点にあります。どこが違うのですか。夢中になるとは,「とくに,愛着をいだくにふさわしくない何ものかに,道理をわきまえない強力な愛着」をもつこと,と定義されています。

夢中になるのは,概して,身体的な強い魅力に起因することで,他の肝要な要素は無視されてしまいます。たとえば,ダビデ王はバテシバに夢中になった,といえるでしょう。なぜなら,「その婦観るにはなはだ美し」としるされているからです。それにしても,ダビデは,夢中になったのです。彼は,彼女がウリヤの妻として別の男のものであること,また,みずから彼女に姦淫をさせようとしていたことを考えに入れなかったからです。ウリヤはダビデ王の最も有能な戦士のひとりでした。ダビデはまた,そうした行為に伴う悪い結果を考慮に入れることもしませんでした。実際,この事件でダビデは,そうした結果のため,深い悲しみと悔恨の情に苦しめられました。―サムエル後 11:1–12:23。

恋愛には,人を夢中にさせる危険性があることは,実際に起きた次の経験からもわかるでしょう。その若い女性は美しくて,人気がありました。彼女は,故郷から遠く離れた,あまり開けていない土地で献身したクリスチャンとして奉仕していました。仲間の信者で,前途有望かつ有能なある青年が,彼女に深い思いを寄せていましたが,彼女はその青年のことばに耳をかそうとはしませんでした。なぜですか。なぜなら,その青年には男性的な魅力が欠けているように思えたからです。彼女に言わせれば,「自分をあっと言わせるような」男性が現われるのを待っていたのです。

ある日,彼女は,土地の男の人で,思わず息をのむような,一見魅力的な男性に出会いました。その男性は,彼女の宗教に関心を持っているとは言いましたが,クリスチャンの原則に従う人ではありませんでした。一度の無分別が次々に他の無分別な行為につながり,やがて気がついたときには,彼女は,自分と結婚する意志のない男のために妊娠していました。彼女は,その恥ずべき行為のために,自分の属するクリスチャンの社会から排斥される羽目にあいました。その後,悔い改めた彼女は,やがて良い立場を回復し,今では,円熟したクリスチャンと結婚して,数人の子どもたちの母となっています。それにしても,恋愛には人を夢中にさせる危険性があること,また,恋愛そのものは,幸福な結婚にまちがいなく通ずるとびらではないことを学ぶのに,それはなんと苦しい経験だったのでしょう。

そうです,恋に夢中になっている人は,現在あるいは,直前の将来の喜びしか考えません。それは極端に近視眼的な見方です。そのような人はよく,“あわてて結婚”しますが,その種の感情はせいぜい一時的なものにすぎません。真の愛情は近視眼的なものではなく,広い視野に立って物事を見,目前の小さな事がらを進んで慎しみ,将来のもっと大きな,そして,より良いものをとらえるようにします。

『恋は盲目』とは,よくいわれますが,原則に導かれる愛は,盲目ではありません。それは,他の人にはわからない特質や可能性を見いだす目をもっているのです。欠点に対してさえ盲目ではありません。さもなければ,『愛は多くの罪をおおう』と,聖書は述べなかったでしょう。(ペテロ前 4:8)愛が罪をおおうには,そうした罪に気づかねばなりません。盲目なのは,夢中になっている人です。そのような人には,自分が見たいと願うものしか見えません。ですから,美徳の欠けている人に美徳があると思い込み,利己的な人に無私の気持ちがあると考えるのです。

恋に夢中になっている人の別のしるしは,ともすれば,他の人の助言や意向を無視することです。真の愛情をいだいている人は,他の人の意見に喜んで耳を傾け,他の人の判断や助言の益にあずかろうとします。ですから,統計が示すとおり,親の賛成を得て結婚するほうが,親の反対を押し切ってする場合よりも,幸福な結婚をする可能性ははるかに大きいのです。親しい友人についても同じことが言えます。

頭だけでなく,心臓もたいせつ

配偶者を選ぶのに恋愛がおもな役割を果たしている,アメリカその他の国々では,結婚4に対し,離婚は1の割合となっています。心理学者J・ブラザーズ博士は,恋愛についてかつてこう述べました。「恋愛は一種の欺瞞である。……それは一時的なものであるゆえに欺瞞である。恋,つまり,彼のそばにいると胸がときめくのを感じたり,彼がいないと,気持ちが沈んだり,不安になったりする恋愛感情のうちに,いつまでもとどまっている人はいない。……必要不可欠な唯一のものは,基本的な常識である」。

また,社会学教授ハイネス博士は,自著,「それで,あなたは結婚を考えている」の中で,同様の意味のことを次のように書いています。「配偶者をさがす問題についていえば,若い人びとがロマンチックな考えを,できるだけ最少限度に評価するのはたいせつである。世の中のどこかに完全な配偶者がいるだろうと考えるのは,まったく無意味である。普通の人ならだれでも,適当にさがしさえすれば,互いに協調し合って,満ち足りた幸福な結婚生活を営める人を多数見いだせるものである。親あるいは,仲人が結婚を取り決める習慣が幾千年も続いてきたことを,若い人々は考えねばならない」。

この点に関し,日本人の生活について述べた,マッコール誌,1966年11月号のことばを考えてみましょう。「恋愛をさほど重視しない日本人は,愛情は結婚したのちにはぐくまれるとし,必ずしも結婚前に愛情がなければならないとは考えない。また,夫婦のきずなは子どもによって強められると考えている。日本の女性は幸福な生活をしているであろうか,多くの女性は満足している。彼らが享受している感情および教養面の満足の度合いは相当なものだからである。……日本人の結婚は,どちらかといえば冷静で,興奮の少ないものであるが,やむをえないにせよ,好んでそうするにせよ,こうした結婚のほうがおそらくより永続するものと言えよう」。

別の報告はドイツの事情に関し,同様な見解をこう述べています。「この国では,ロマンチックな考え方は,収入,性格上の適合性,誠実さ,信頼性,相手に対する責任感などの基本的な問題ほどに一般に広く取り上げられてはいない」。この国では,260社ほどの結婚相談所が営業しており,結婚10に対して1の割合で,こうした相談所で結婚があっせんされています。同時に,多数の定期刊行物は配偶者の求人広告を載せています。そうした広告の典型的な例を次に掲げましょう。「当方,25歳,身長1メートル73センチ,職業はファッションモデル。まじめな生き方を信条としており,女たらしは大きらい。私の願いは,おもちゃにされることではなく,だれかの優しい妻になること。……そうしたものを人生に求めるかたは,ご連絡ください」― 1965年3月29日号,ニューズウィーク誌。

アメリカはそれとはまさに対照的です。恋愛を第一にするこの国に関して,人類学者ラルフ・リントンは,かつてこう述べました。「異性間の愛着には,しばしば激情によるものがあることを,あらゆる人間社会が認めているが,そうした愛着の情を利用して,それを結婚の基礎にしようとしているのは,現代アメリカ文明だけである」。まちがっているのは必ずしも人間ではなく,その方法にあるといえるでしょう。このことは,結婚科学協会の得た結果からもわかります。同協会はこれまでに,およそ1万組の結婚をあっせんしてきましたが,その離婚率はわずか0.001%です。アメリカ人の多くは,「全力を集中して,過度の期待を慎しみ,自制を回復し,恋愛は人生経験の最も美しいものの一つではあっても,神の保証を得た生き方ではないことを認識するよう努力するほうが賢明で」あろうと,この国の著名な一歴史家が評したのも,もっともです。

聖書の立場

神のことば,聖書は,恋愛そのものを非とはしていません。事実,聖書には,たいへん美しい恋愛の実例がしるされています。それは,『美しくて顔よし』と述べられている,美しいおとめラケルと,77歳のヤコブの恋物語です。ヤコブはラケルに恋をしましたが,それは,ヤコブが彼女を得るために,その父ラバンに仕えた7年間を「数日のごとくみなせり」とあるほど熱烈な恋でした。―創世 29:11-20。

しかし同時に,神のことばは,偶像崇拝の危険のあることを警告しています。抑制されない恋愛は,人間を偶像視する事態を容易に引き起こしうるのです。そのうえ,若い人は恋愛感情や肉体的な魅力に動かされて,ともすれば,それよりもっと重要な精神的また霊的な資格を軽視するおそれがあります。人間の造り主であられるエホバ神に仕えることを真剣に考えている人は,自分の生涯の伴りょにしたいと考えている相手も,同様に,エホバ神に仕えることを真剣に考えている人かどうかを確かめるべきでしょう。とくにクリスチャンは,どんなにロマンチックで魅力的と思える相手であれ,不信者に感情的に夢中になることを,一瞬といえども考えるべきではありません。霊感を受けた使徒パウロは率直にこう命じています。「不信者と軛を同じうすな,釣合はぬなり」。『ただ主にある者とのみ』結婚しなさい。―コリント後 6:14。コリント前 7:39。

神のことばに耳を傾けるなら,恋愛がしばしば引き起こす幻滅や失望そして失意などに陥らないですむでしょう。また,恋愛は人間の味わう無上の喜びとみなすべきものでないことを理解できます。それとともに,結婚は種々の試練や問題を必ず伴うものであることもわかります。使徒パウロは,結婚する人は,「その身,苦難に遭はん」と述べましたが,この冷静なことばは,結婚の喜びに対する若い人たちの理想主義的な考えや熱狂的な感情をさまさせるものでしょう。(コリント前 7:28)人間の本性に対する鋭い観察を行なった,ある識者は,かつてこう言いました。「結婚を容易なことと見る,とてつもない考えは,だれかがこっそりと世の中にまぎれ込ませたものである」。

恋愛は美しいもの,そして,幸福な結婚に通ずるとびらとなりうるものです。しかし,分別や自制,またすぐれた判断力を伴わないかぎり,たいてい,不幸に通ずるとびらとなるでしょう。ですから,たとえ恋愛感情を伴わなくても,分別や自制,またすぐれた判断力などの特質のほうが,そうした肝要な徳性を伴わない恋愛以上に幸福をもたらすものと言えます。それで,恋愛を過大評価してはなりません。恋愛は,幸福な結婚に通ずるとびらとなりえない場合があるからです。まして,恋愛が結婚生活の幸福をもたらす唯一のとびらでないことは確かです。

[5ページの図版]

若い人は,恋愛感情に動かされると,ともすれば,肝要な精神的また霊的な資格を軽視するおそれがある

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