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目ざめよ! 1971
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人間はどこに導きを求めるべきか

人間には導きが必要であろうか。言うまでもなく必要である。今日地球を取り巻いている混乱・紛争・暴動を見れば,それはきわめて明りょうなことである。科学に携わっている人々の中のある者たちは,多年,動物の研究を通して,人間がいかに生きるべきかに関しての必要な導きを捜し求めてきた。そして,自分たちの学んだ事柄から,人間をよりよく理解できるようになったと彼らは言う。

たとえば,動物の行動に関する著名な権威者K・ローレンズは,一群のガチョウの習性について行なった非常に興味深い観察結果を発表した。それによると,ガチョウが群居する際に示す習性は,人間の特性と似ているらしい。彼によれば,生物の間には一種の主権争いが存在しており,「それが5人の少年[であろうが],5匹の若い雄鶏[であろうが],5羽のカナリヤ[であろうが],5匹の熱帯魚[であろうが],それらをいっしょにする際には必ず同じことが言える」。自然科学を通して習得できる洞察力にたよるなら,人間は戦いをいどむ性向を克服できるし,さらに,「行動や動機付けといった問題」は,こうした学習によってのみ解決されうると彼は説く。

それはほんとうだろうか。そこからわたしたちの求めている導きが得られるのであろうか。動物を研究することによって人間を理解し,人間に対する導きを得ようとするそうした努力に関して,有名なアメリカの著述家A・ケストラーは次のように評している。「どう控え目に言っても,動物との行動上の相似点をもっぱらその基礎として,人間の特徴を判断しようとする試みに,価値があるとは断定しがたい。……生物の特質からいって,相似関係を突き進めていくことには限界がある。たとえば言語といったような,人間にしかない特性については意味をなさず,必然的に相似関係の問題となる。しかも,そうした特性は人類の行動を決定するうえで明らかに重要な意味を持っているのである」― 1969年10月19日号,ニューヨーク「タイムズ・マガジン」誌。

著者ケストラーの論点には十分納得がゆく。そして興味深いことに,彼の結論は聖書の述べるところと類似している。もっとも聖書は,動物の観察を通して確かに学びうる点があることを明らかにはしている。アリがどのように冬に備えて食物をたくわえるか,アリを見てその知恵に注意を払うよう告げている。他方,動物は本能に動かされるもので,理解も理性も持っていないという事実を聖書は強調している。たとえば,詩篇作者は次のような助言を与えている。「汝等〔理解〕なき馬のごとく驢馬のごとくなるなかれ かれらはくつわたづなのごとき具をもてひきとめずば近づきたることなし」。そのとおりである。馬やラバに,ああしなければならない,こうしなければならないという理由を説明しても意味がない。別の方法を用いなければならないのである。―詩 32:9〔新〕。箴言 6:6-8。ペテロ後 2:12。

人間の問題には動物よりも高等で複雑な機能が関係している以上,人間の行動に関する諸問題を解決するのに動物を研究したところで何が学べるであろうか。地球の生物の中では,人間だけが理性の力と想像力とを持っている。人間にのみ,概念的に物事を考える力,抽象的な思考力が備わっている。特異なことに,人間には道徳観念があり,それによって善悪を意識する。しかも,より高い力を持つ何ものかを崇拝するという本能は,人間以外のものにはない。人類学者のL・アイズリーが,かつてきわめて的確に評したように,進化者論は人間と獣類とのからだの点での類似点を捜し出すことに熱中するあまり,人間と動物の脳の間に存在している膨大な,しかもより重要な相違を無視してしまっている。

また,わたしたちは,単なる人間にたよることもできない。不完全な人間の知恵は矛盾している。なんと多くの,いろいろな哲学者がいることであろう。使徒時代のギリシアの賢人たちは,根本的に対立する二つの学派,つまり,ストア学派かエピクロス派におおむね属していた。しかしその両派とも,自分たちが賢者であると主張したのである。哲学者たちは今日に至るまで互いに,両極端の異論をかわし続けてきた。

政治上の理念についても同じことが言える。だれに導きを求めたらよいのか。合衆国には共和党,民主党,社会党,共産党,保守党,それに種々の戦闘派グループがある。他の人がそれに同意するのか否かは別として,人民にとってどの政党あるいはどのグループが最善であると,いったいだれが言いうるのか。さらに,程度においても数においても,それよりはるかに大がかりな宗教上の相違についてはどうであろう。

なぜこれほどまでに混乱が見られるのか。聖書は答えを与えている。「知恵ある者は辱しめられ……彼等エホバの言を棄たり彼ら何の知恵あらん」。確かに,「歩行む人は自らその歩履を定むること能はざるなり」,と書かれているとおりである。人間は最初の違背のゆえに不完全で,弱く,利己的である。事実,その性向は「幼少時よりして悪(い)」ものである。この理由で人間の創造者であるエホバ神は,ご自分のみことばを人間の歩む道の光またともしびとして与え,すべてのよきわざのために人間に完全な備えをされた。―エレミヤ 8:9; 10:23。創世 8:21。詩 119:105,新。テモテ後 3:16,17。

これは,賢明で愛に恵まれる創造者から,わたしたちが当然期待しうることであり,創造者の実存はわたしたちの周囲を取り巻く創造物から明らかである。創造者はわたしたちの物質上の必要を満たすために,豊かな備えをしてはおられないであろうか。そうであれば,創造者が必要な導きを与えてくださると期待できるのではないだろうか。その御ことばを広い思いと正直な心臓とをもって研究し,創造者に導きを求める人々は,その報いとして,豊かに啓発されるのであろう。世界じゅうの140万人以上の人々は,これが真実であることを見いだしている。その結果,彼らは互いどうし平和に生活し,満足感と平安な思いを味わっている。神のことばにしるされている規則や原則の価値を十分に認識しているのである。―ロマ 1:20。ピリピ 4:19。

わたしたちの全心臓,思い,魂そして力をもってエホバ神を愛し,また,隣人を自分自身のように愛することをわたしたちに教えてくれるのは聖書にほかならない。そこには,『わたしがあなたがたを愛したと同じように,互いに愛し合いなさい』との,イエスの命令もしるされている。地上のすべての人々がそうした命令に従い,その結果,『水の海をおほへるごとくエホバをしるの知識が地にみつる』時,この世界はなんと大きく変化することであろう。―イザヤ 11:9。マルコ 12:29-31。ヨハネ 13:34,35,新。

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