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目ざめよ! 1971
目71 7/8 28–29ページ

「あなたのみことばは真理です」

ローマへのパウロの航海

海港カイザリヤで囚人として2年間拘禁されたクリスチャン使徒パウロは,次に,みずからの要請に基づき,カイザルの前に立つべくローマに連行されることになりました。パウロと他の囚人たちはユリアスという名の将校に託され,この航海の記述を残したルカがパウロに同伴しました。a

乗船した一行は,海岸沿いに北上し,翌日,シドンに上陸しました。次いで再び出帆した船は,クプロ(キプロス)島東北端を経て,さらに少アジヤのキリキヤおよびパンフリヤの海岸沿いに進みました。このあたりでは船足は比較的おそいものでしたが,しかしついに,忙しい海港ミラに着きました。ミラでユリアスは一行を別の船に乗せて航海を続けるよう取りはからえました。その船は,当時エジプトのアレキサンドリヤとローマ間を定期的に航行していた穀物運搬船団に属する船だったと考えられています。

ミラを出港したその大型の船は向かい風を受けながら,小アジヤの海岸線沿いをゆっくり進み,こうして,ミラからロドス島北方の海岸都市クニドに着くのに,「多くの日」を要しました。クニドから西進し,ギリシヤ南端を通過してローマに向う航路を選ぶとすれば,船は公海を進まねばなりませんが,おりからの烈風のために,その航路を避けたのでしょう。その代わりに船はクレテ島に向かって南下しました。

クレテ島東端サルモネ沖に達した船は,同島の海岸沿いに進み,“良き港”にたどり着きました。風に妨げられて船がおくれたので,「断食の期節〔贖罪の日,新〕も既に過ぎ」ていました。つまり,時はおそらく10月でした。一年のこの時期にそれ以上航海を続けるのは危険でしたが,それでも,冬を過ごすのに「良き港」は不便だったので,同島海岸沿いにさらに60キロ余下ったところにあるピニクスという別の港に移ることになりました。

あらしと難船

穏かな南風が吹きはじめたので,その決定に気をよくした乗組員たちは船を出しました。ところがその後,突然,激しい東北東の風が吹きすさび,船は烈風にもてあそばれ,流されてしまったのです。クラウダという小島の近くで強風をほんのちょっとのあいだ避け,その間に,ともにつないで引いていた小舟を手ばやく船に上げ,備えつけのロープやつなを用いて,船体がさけないよう,船の下のほうを縛りました。

乗組員たちを恐怖に陥れたのは,船がアフリカ北端のリビヤ海岸スルテスの流砂に向かって流されているということでした。乗組員たちはなんとかして船の流れる向きを変えさせて難船を食いとめようと必死に努力し,同時に積み荷を船外に投げ捨てて船を軽くしました。航海者エドウィン・スミスはこの航海の危機的な部分に関し,1947年3月号「ザ・ラダー(かじ)」誌でこう評しています。

「この場合,船を右げん開きで,つまり右側の帆を風に向けて進ませたであろう。こうすれば,船は北方に向かって進む,つまりアフリカ海岸およびスルテスから遠のくことになったであろう。そして,船をとめておくあいだに,船が多少でも進むとすれば,その進路はイタリアに向かうものとなったであろう。一方,げんの動き(風落)は概して西方に傾いたと思われる。

「その翌日,強風はいっこうにおさまらないので,彼らは船を軽くした。それまでに講じられたあらゆる処置は,彼らの航海術の巧みさを物語るものであるが,この点でも同じことが言えよう。というのは,航海術のあらゆる点から考えて,船を軽くするのは,なすべき事柄の一つとして勧められていることだからである」。乗組員の講じた処置が幸いして船の進路は西向きに変わり,危険なアフリカ海岸での難船を回避できました。

日も星も見えぬまま船は西に流されてゆき,生き残る希望はほとんどなくなってしまいました。ところが,クレテ島を出て14日目の真夜中,船が陸地に近づいているらしいことに何人かの乗組員が気づきはじめました。水深を測った結果,そのとおりであることが確認され,四つのいかりが投じられて,船はおもむろにとまりました。

ついに夜があけ,乗組員はいかりのつなを断ち切るや,操縦用のオールを縛っていたつなをほどき,前檣帆を上げて,海岸めざして船を進めました。しかし,船は浅瀬に乗り上げ,ごうごうと打ち砕ける波にもまれて,解体しはじめました。そこで,ユリアスの命令一下,全員海に飛び込み,ある者は泳ぎ,他の者は船の破片か何かにすがったりなどして無事岸にたどりつきました。

その島はマルタ島でした。同島で冬を越した一行は,航海に安全な春を迎えて,アレキサンドリヤの別の船に乗り込み,再び航海を始めました。やがて,船はシシリア島東南端を経てシラクサ港に着き,3日とどまったのち,イタリヤの“つま先”にあるレギオンにおもむき,そこからようやくポテオリに着きました。ここで船をおりた一行は,陸路ローマへと最後の行程をたどったのです。

信頼できる記述

聖書のこの記述は,1世紀当時の船舶に課されていた種々の制約,つまり安全な港をさがしたり,自然の地勢を利用して海岸線沿いに航行したり,一年のうちのある時期には公海の航行を避けたりするなどの必要があったことを明示しています。帆・いかり・操縦用のオール・ともにつないで引いた小舟などすべては,当時の船の描写と合致します。船の下のほうを縛ったり,船を軽くしたりするのは,確かにこうした状況に対処する手段でした。

アレキサンデリヤからの穀物運搬船のことがでてくるのも,当時のローマ世界の事情と合致します。当時,ローマ帝国にはそうした仕事をする船団がありましたし,聖書の記述によれば,将校がその種の船の艦長になったことがわかります。

聖書の記述は,船が風上に向かって進むことのむずかしさや,世界のその地域で一年のある時期にどんな方向の風がおもに吹いているかを生き生きと描写しています。西風が強いときには,カイザリヤからシドンまでの11キロほどの航海におよそ1日かかりましたが,都合の良い南風が吹くと,320キロ余あるレギオンとポテオリ間をわずか1日で航海できました。

また,たまたまクレテ島の山々から吹きおろす強風に流されて,船がスルテスの砂州に向かって流されたとするコースの記述にかんする正確さも注目に値します。こうした風向きのもとで,進路を変ええたとすれば,船は確かにマルタ島めざして進むことになったでしょう。

深い感銘を受けた航海者エドウィン・スミスは,この航海にかんする注解をこう結んでいます。「こうして検討してみると,『良き港』を出た時からマルタ島の浜に乗り上げるまでの,聖ルカのしるしたこの船の航行にかんする陳述の真実性はすべて,最も厳密かつ満足すべき種類の客観的かつ独自の証拠により実証されているということがわかる。……このすべては,記録されたその航海にルカが実際に参加したことを示すだけでなく,さらに,ルカは,その観察力と陳述の点で最高度の信頼と信用をもって受け入れるに足る人物であるということを示していると言えよう」。

聖書の記述は詳しく調べれば調べるほど,それが信頼および信用できるものであるとの認識はいっそう深められるばかりです。が,パウロのローマへの航海にかんする記述は,聖書の正確さを示すいま一つの事例にすぎないのです。

[脚注]

a パウロのこの航海の記述は聖書の使徒行伝 27,28章にあります。

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