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目ざめよ! 1973
目73 3/22 12–15ページ

ジプシーとしての私の人生

カナダの「目ざめよ!」通信員に語られた経験

「神さまが絵をお描きになっているときには静かにしていらっしゃい。目ではよく見ても,おまえのそのばかな舌は動かさないでいなさい」。私がまだ幼かった時,リラおばさんは,とりわけ美しい日の出をふたりで立って,畏怖の念をいだいて見ていた時に,こう言って私を戒めました。これは,ジプシーたちが持っていた,神とそのすばらしい創造のわざに対する典型的な見方でした。

わたしたちは,単純で子どもっぽい方法ではありましたが神を信じ,心から神を敬っていました。日々の必要物が手にはいるかどうかは,創造者である神に常に依存している,というのが私たちの人生観でした。ですから私たちは,森や小川や湖や海に住む愛らしい生物をいじめることなど考えてもみませんでした。それらは神の創造物でした。そして私たちはその事実を認めることに喜びをもっていました。

私たちの人生観や生き方についてさらに言うならば,それは,「あしたはあしたの風が吹く」という古いことわざに要約されます。そのために,私たちの生活はのんきで,だいたいにおいて平和でした。私たちは目先の必要を満たすことだけに努力しました。そしてそれが満たされると,くつろいだ気分になり,家族や,親密な関係の同族の人びとと生活を楽しみました。私たちは生計をたてるためには世を用いましたが,それ以上は世とかかわりを持ちませんでした。この世の政治的紛争などには全く無関心でした。

ジプシーの少年としての生活

私は自分の生まれた英国のイースト・アングリア地方から,ひとつのジプシーの群れに混じって,おばとともに,英国諸島をくまなく漂浪しました。私は年長者を敬うことを教え込まれ,年上の男性は「おじさん」,年上の女性は「おばさん」と呼びました。年長者を名前で呼ぶことは許されないことでした。私がおばの権威を軽視したふるまいをすると,おばはそのつど私を正しましたが,大きくなってからはおばがそうしてくれるのを感謝しました。

ジプシーの子どもたちは勝手に飛び回ることを許されません。私もそうでした。おばは私をかわいがってくれ,またよく働かせました。クレソン,キノコ,イチゴなどの採集には私を連れて行きました。翌日はそれを家から家に売り歩くか,または近くの市場に持って行きます。

生活の資をかせぐ別の手段として,おばと私は農家に行って,幾山かの肥料を買い込みました。そしてそれを1ブッシェルずつ袋につめ,小さな花壇や菜園のある家々を尋ねて売りさばきました。

私が早くからそうした訓練を受けていたとき,おばも,キャンプの中の他の人たちも,ちょっとした盗みをよく働いていました。ですから私も,ぼろもうけする手口を含め,不正直な行ないを習いました。まだ少年だったある時のこと,私はひとりの男の子と友だちになりました。その子の両親はジプシーではありませんでした。母親のほうは結核で死にかけていました。その家族はひどく貧しくて,食物もろくにありませんでした。私は,元気のつく栄養のあるものを何かその母親に食べさせてあげたいと思って,その友だちを近くの鶏舎に連れて行き,そこで肉付きのよいニワトリを一羽失敬しました。そしてそれを友だちに与えて家に持ち帰らせましたが,盗んだものであることを知った父親は,その羽根の生えた略奪物をむすこに持たせて私のところへ返しによこしました。

子どもの時の宗教教育と宗教に対する見方

神に対するおばの単純な信仰は,いつも私の思いに強い印象を与えました。他人の所有地からウサギやキノコやクレソン,イチゴなどを盗んできた日でも,おばは一日が終わると,自分のかたわらに私をひざまずかせ,日々のかてを与えてくださる方として,神に感謝をささげました。

私がよく知っていたジプシーのほとんどは,メソジスト教会,英国教会,カトリック教会などの教派に属していましたが,おばは組織された宗教はどれもこれもみなきらいでした。種々の教派の牧師に対するおばの態度は,彼らの偽善にはき気をもよおす,というほどのものでした。これに影響されて私も長い間そう考えていました。おばにとっては,ある牧師たちは偽善者の「なんとかさんたち」でした。お金に執着する牧師をおばは「ガチョウのふんのように汚い」と見,牧師に向かって遠慮なくそう言いました。

おばはまた,暴力に対する強い嫌悪の情を,幼い私の心に植え付けました。ある日おばからひどく叱られたことを,私は忘れることができません。私たちから品物を買っていたある婦人が私に,大きくなったらなにになるの,と尋ねました。軍隊生活をしていた人たちの軍服に魅せられていた私は,軍人になりたい,と答えました。するとおばは,そんなことばは二度と聞きたくない,と言い,もしおまえが軍服姿で私の家の戸口にでも現われたなら,とっとと行ってもらうからね,と言いました。おばは私の心に,人間が始める戦争で人の血を流す権利はだれにもないということを,強く印象づけました。

成長するにつれ,私は自分自身で牧師の偽善を見るようになりました。第二次世界大戦は近づいていました。そして彼らがどのようにして,戦争のために若者たちを募ることにあずかっているかが非常にはっきりしてきました。おばのところにもひとりの牧師が来て,私を応募させないか,と言いました。おばはその牧師をはっきりしたことばで叱りとばしました。

いわゆる信心深い人びととの交わりがふえるにつれ,世の宗教の偽善をいよいよ痛感するようになりました。若者たちは土曜日の夜,酒に酔ってばか騒ぎに打ち興じ,日曜日の朝にはミサに行きます。彼らはそれで罪が許されたと考えるのか,また次の日曜日のミサまで同じ不道徳な行ないをくりかえすので,私はまったくいやになってしまいました。

異なった宗教

1942年までには私は結婚していました。ある日私が帰宅すると妻が,きょうふたりの女の人が来て,聖書と聖書が約束するよりよい将来について話していった,と言いました。私は宗教と名のつくものはなんでも嘲笑する傾向があったので,そのことについて話したいとは思いませんでした。その後,北部スコットランドにいたとき,私のるすにある男の人が私たちのキャンプに来て,妻にレコードをかけて聞かせました。世の宗教がわなであり,にせものであることを暴露するレコードをかけて聞かせたその男の人の勇敢さに,妻はほんとうに心を動かされていました。妻はその人に食事を出し,それから行ってもらいました。

後日,また英国のニューカッスルの近くに来たとき,妻は,あの人たちは真実を語っていたような気がするので,あの人たちをさがしてみましょう,と言いました。しかし,それからまもなく私たちはカナダに移住しました。カナダなら少しはましな生活ができるかもしれないと考えたからです。

子どもの養育

その間ずっと私は子どもを育てていました。私はむすこを連れて商売をしていました。その時はくず金の売買をしていました。十分の量のくず金が集まると商人に売るのですが,むすこにもひと山与えて自分で取り引きするようにさせました。しかし,ごまかされないように私が監督しました。このようにしてむすこが自活してゆけるように訓練しました。

妻は,料理,洗たく,つくろい,赤ん坊の世話などを娘に教えて,娘がいつかはジプシーの夫のよい妻になれるように,典型的なジプシー流の訓練を与えました。妻はまたリンネル製品の行商を娘に教えました。仕入れの時には,その取り引きの仕方を見せるために,問屋に連れてゆきました。それに加えて,おじが娘に木で花をじょうずに作る方法を教えました。それで娘は戸別に回ってあきないをする母親について歩き,リンネル製品が売れない時には“花”をすすめて,自分でわずかのお金をもうけました。

北アメリカでの生活

北アメリカに住んでいた間,私は他のジプシーたちといっしょに,カナダ,アメリカ,メキシコなどの各地を漂流しました。私たちはらくをして金をもうける方法を考え出しました。私たちがしたことは,一般のジプシーの間で普通に行なわれていたことではありません。ジプシーたちは普通,そのようなあくどい詐欺的なやり方はしないからです。

私たちは,東洋から「密輸入」したじゅうたんを売っていると言いました。ひとつの町にはいると,私たちはその町の牧師のところへ直行しました。現金をたくさん持っている人といえば牧師であることをわたしたちは知っていたからです。そして私は,もしじゅうたんを買ってくださるようなお友だちを紹介していただければ,先生の分はずっとお安くさせていただきます,というふうに話をもちかけました。牧師はたいてい,その町の医師とか葬儀屋を教えてくれました。私たちがじゅうたんを売り込みに行った牧師で,私たちの「密輸入した」じゅうたんを買うのを断わった牧師はひとりもいませんでした。「盗んだ」品物だと話した時でさえそうでした。それで私はますます,キリスト教なんかとかかわりを持つことなどまっぴらごめんだ,という気持ちを強くしました。

新しい生活の道が開かれる

それから数年か過ぎ,私たちはある日,オンタリオ州のサルニアの近くにキャンプを張りました。ひとりの若い婦人が私たちのテントに来たとき,私は家にいました。その婦人の誠意のこもった話し方と,またその話の内容に私は興味をおぼえました。人びとが平和と一致を保ちながら正しい原則に従ってともに住む新しい事物の体制が来るなんて,およそ信じられないことでした。婦人は帰りぎわに,この次の話し合いには二人の男の人をよこすと約束しました。それで私は妻に,その人たちが来た時に私がるすだったら,待ってもらってくれ,と言っておきました。若い婦人は約束を守りました。男の人たちが来た時私は家にいました。私たちの討論は5時間つづきました。彼らが帰って行った時,妻と私は,とうとう「真理」を見いだしたという確信をいだいていました。

最初のその長い討論のあと,私たちは聖書の原則に従って生活する必要のあることを悟りました。私は妻に向って言いました。「テントの床下に埋めてある物をどうしよう」。「川に投げ込んだほうがいいかもしれないわね」と妻は言いました。私の考えでは,盗品は正当な持ち主に返すべきでした。それは容易なわざではありません。2㌧の鉛の鋳塊を返すのですから,大きな危険と困難が伴うでしょう。しかし,その仕事をついに成し終えたのは,エホバの助けがあったからにちがいないと私は考えています。

ふたりの証人の定期的な訪問によって,神の真理にかんする私たちの知識は進みました。そしてまもなく,神のことばの真理を知るだけでよいのではなく,それ以上のことが関係ていることがわかってきました。私たちは自分の生活をさらに大きく変えなければならないのです。そのひとつは,神の王国の良いたよりを宣べ伝えることでした。ここまできて私は,自分がそうすることなど考えられませんでした。そこで,それまで学んできた事柄になんくせをつけはじめ,道理にはずれた質問をしては証人たちを悩ませました。しかし,彼らは聖書にもとづいて親切に説明してくれたので,逃げ道がありませんでした。変わらねばならなかったのは,聖書の真理ではなくて私のほうでした。

子どもたちも私たちの討論を聞いていました。それは最初から家族の聖書研究で,私たちはともに前進し,妻と私は1954年にバプテスマを受けてエホバへの献身を象徴しました。子どもたちは,その若き日に創造者に仕えることを自分で決定したのち,1960年にバプテスマを受けました。

その後むすこは,最初アルゼンチンで聖書の真理を学んだ,メキシコから来たポリナというジプシーの娘と結婚しました。(1963年1月8日号「目ざめよ!」誌の25頁をごらんください)。ポリナは,折々夫に加わって,神の王国の良いたよりを宣べ伝えることに全時間をささげています。私たちの実の娘はすでに5年ほど,神の王国を宣べ伝える全時間奉仕者として働いており,現在は,南フロリダにある,キューバ人のエホバの証人の会衆といっしょに奉仕しています。

試みの時

何年か前,私たち家族には試みの時がありました。あることから,クリスチャンの兄弟たちにひどく失望したのです。兄弟たちも自分と同じように弱点のある人なのだ,ということに気づくべきだったのですが,それをしないで,創造者を非難すべき理由は何もないにもかかわらず,創造者への奉仕から身を引いてしまいました。その結果,私たちは4年ほど神の真理から離れていました。

しかしそれでも私たちは,聖書から学んだ事柄をしばしば思い起こし,よく語り合いました。真理は私たちの心に強い影響をおよぼしていたらしく,私たちは以前のような人間になることはもはやできませんでした。神の組織との交わりを断って,もう一度ジプシーの生活を楽しむ自由を得た,と自分に言い聞かせはしたものの,私たちの良心は,私たちに創造者エホバへの義務があること,そして真理を与えてくださったことに対してなんらかの方法で報いなければならないことを私たちに告げました。

神の真理に忠実でないことは,私たちの心のしこりになっていました。ついに私たちは次のことに気づきました。つまり,真の自由を得る道はひとつしかなく,そしてそれは,エホバの地上の目に見える組織の安全な境界内にしかないということです。ここでしか,私たちは私たちの必要とする,また私たちを必要とするクリスチャンの兄弟姉妹を得ることはできません。私たちが王国会館で兄弟たちと再び交わり始めたのは,サスカチェワン州,メルビルの小さな会衆においてでした。エホバへの貴重な奉仕を再開できるように助けてくださったその会衆のクリスチャン兄弟たちの愛ある親切を,私たちは忘れることはないでしょう。その時以来私たちは,エホバの恵みにより,うしろを振り向いたり進歩する努力をやめたりしたことはありません。

ジプシーの生活よりもすぐれている

私たちはジプシーの“自由”にもどることはできませんが,民族としては彼らを尊敬しています。いまだに多くの人が良い原則に従って生活していますが,西洋の物質主義的な考え方に染まっている人も少なくありません。そういう人たちは,質素な物では満足せず,ぴかぴかの車やトレーラーを欲しがり,それを手にいれるためにはごまかしや盗みさえ働きます。その結果,かつてののんきなジプシー気質はおおかたすたれました。それは彼らにとって益とはなっていません。

隣人の物を盗もうという気持ちはもう私たちにはありませんが,しかし『エホバの祝福は人を富す 人の労工はこれに加うるところなし』ということを隣人が知るよう助けることに,誠実な気持ちで努力しています。―箴 10:22。

私たちは,聖書を与えてくださったことに対し,偉大な真理の神に大きな恩があります。私たちは今この聖書を,「[キリスト教世界の牧師のように]人のことばとせず,神の言として受け」ています。―テサロニケ前 2:13。

そういうわけで,私たちの心からの願いは,今なおジプシーの生活をしている人たちが,彼らをほんとうに自由にする真理に心を向け,そうすることによってよりすぐれた生き方を楽しむことです。(ヨハネ 8:32)また,私個人の望みは,近い将来,神の正義の新秩序のもとに復活してくる愛するリラおばさんと再び会うことです。その中で,エホバの恵みに対する彼女の感謝と,エホバの創造の美を鑑賞する彼女の喜びは,終わりのない世にあって,日の出を迎えるたびに増し加わってゆくことを私は確信してます。

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