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目ざめよ! 1974
目74 7/8 3–7ページ

カトリック教会における新しい事態

昨年11月,アメリカのカトリック教徒の多くは,教会出席者数に関する最新の調査結果を聞いて驚きました。さまざまな調査がなされており,その結果は必ずしも一様ではありませんが,この度の調査は,教会への出席をほとんどやめた人の数が一年間に倍近くになったことを示していました。特に驚くべき点は,年配層の人々が,今度初めて,この全体的な低落現象の中心をなしたという報告です。1973年中に,50歳以上の人たちの約三割がミサへの定期的な出席をやめたのです。カトリック問題の研究者たちは,こうした事態が「少なからぬ恐れと驚き」となっていることを述べています。ナショナル・カトリック・リポーター誌はこう伝えます。

「過去数年にわたる教会出席者数の急激な低下は,ほとんど破局的な比率に達した。教会出席の低下は,今度初めて年配層の間に起きている。……昨年一年間の変化は,キリスト教の歴史全体から見て,宗教的な情愛における最も劇的な崩壊現象とも言えよう」。[下線は本誌編者] ― 1973年11月16日号。

教会出席者数問題のこの新しい局面が,同教会にとってこれほど憂慮の種となっているのはなぜですか。1972年当時,バチカンの神学教授であるバティスタ・モンディンは,第二バチカン公会議以後の動揺期について述べたさい,「依然忠実を保つ沈黙の多数者」がいると語りました。これは,年配層の,より安定した信徒たちのことをさしていました。彼はさらに,この「沈黙の多数者が米国におけるカトリック教会の存続と救いを保証するであろう」とも予言しました。

しかしどうでしょうか。それから二年後の今,「沈黙の多数者」は何を行なっているでしょうか。その人々は教会を救っていますか。

「沈黙の多数者」は急速に「消えゆく少数者」と化しつつある

最近の証拠は,米国のカトリック教徒の大多数が同教会の教会法によって求められている宗教上の慣行をもはや支持していないことを示しています。例えば,1973年の半ばまでに,ミサに定期的に出席しない人の数が半数を超えるようになっていました。提出された数字によると,月に一度出席する人が12%,年に一度しか出席しない人が26%,ほとんど一度も出席しない人が14%でした。しかし,教会法は毎週出席することを要求しています。

カトリック教徒の多数が異議を唱えている同教会の他の問題点についてはどうでしょうか。多くの調査結果は,カトリック教徒の大多数が,1973年中に,(1)産児調節を行なったこと,(2)多くの状況下で堕胎を是認したこと,(3)ある,もしくはすべての状況下で婚前性交を是認したこと,(4)他のアメリカ人と同じ率で離婚したこと,(5)告解に定期的に行かなかったことを示しています。

同教会はこれらの点に関する教会の定めを繰り返し確認してきました。それでも,その信徒の大多数は,実際のところその定めとは逆のことを信じ,また行なっています。それで,同教会はいわゆる“沈黙の多数者”にどんな“救い”の希望をかけることができるでしょうか。同教会になんらかの希望が残されているとすれば,今や“消えゆく少数者”となった人々にかかっているとしか言えないでしょう。

こうした点を憂慮するカトリック教徒は,同教会から離れる人が急に増加していることの背後にどんな理由があるかを知ろうとしているに違いありません。こうした事態が,特に年配層の間にも起きているのはなぜでしょうか。実際の証拠は少なくとも次の二つの理由を指摘しています。(1)指導層に対する確信の喪失,(2)崇拝における“神秘性”の喪失。

指導層に見られる危機

教会の出席者数に関するカトリック教会の調査結果によると,アメリカのカトリック教徒の場合,「指導者層に対する確信の欠如と,教会に行かないこととの間には強力な関係」があります。特に昨年には,意見の分裂によって同教会の指導力が弱まりました。最強の攻撃はもはや同教会外ではなく,むしろ教会内の牧師自身からもたらされています。こうした衝突が,教会の権威に常に信頼を置いてきた平信徒の心に今や達しています。権威を行使する人々自身の間に公然たる不一致があるのであれば,どうしてその権威を引き続き受け入れることができるでしょうか。

教会史の教授であり,カトリックの高位聖職者であるジョン・T・エリスは,アメリカのカトリック社会が「現在経験している消沈状態と混乱は過去に類例のないもの」であると述べています。しかし教皇パウロ六世は,こうした問題が米国だけに限られていないことを示しています。昨年6月,枢機卿の会合で話をした教皇は,同教会における「教理上の混乱と無規律ぶり」を嘆き,司祭職が世界的な規模で「方向を失った」ような「時期を経過」していることを認めました。

1973年の経過とともに事態は好転しましたか。いいえ。内部の抗争はむしろ大きくなりました。スイスの著名な神学者ハンス・クングとの,人々を当惑させる対決,アメリカの司教260人との公然とした衝突,異説を持つ司祭たちに関する無数の事件があり,また司祭の独身制に対する反論が強まりました。10月に,フランスの新聞ル・モンドの第一面の記事は次のように言明しました。「宗教上の慣行は崩れつつあり,司祭職は渇れつつある。いたるところに反抗が見られる。[教会の]権威は圧倒されている」。

ついで,11月10日になされた二つの談話の中で,教皇パウロ六世はこうした傷がいかに深いかを明らかにしました。教皇は話の草稿は持たず,聴き手である司祭たちに対してその感情のままに訴えました。

「わたしを受け入れていただきたい。わたしをさげすまないで欲しい。わたしがなんであるかを認めて受け入れて欲しい。わたしはキリストの代理者である。……これが聖職階級制のもとに確立された教会であることを理解している。……わたしが,全面的な忠実と注意の傾倒をあなたがたすべてに求めねばならない時が来た」― カトリック・スタンダード誌1973年11月15日号。

こうして権威の承認をあからさまに求める必要が生じたのはなぜですか。『全面的な忠実を求めねばならない時』が来たのはなぜですか。全体をつなぎ合わせる権威が失われてその宗教上の家が分解しかけているためですか。イエスはずっと以前にこう言われました。「国内で分れ争えば,その国は存在をつづけえ(ない)」― マルコ 3:24,25,カトリック・バルバロ訳。

同教会の統計資料はこの原則が当てはまっていることを示しています。一年間に七千人の修道女が修道院を離れました。1969年以来,司祭の数は2万5,000人減少し,その減少の速度は速まっています。学生のいない神学校が多くあります。事態が非常に危機的であるために,バチカンにおいてカトリック教育部門を統轄するガローン枢機卿は,さる11月,こうした危機について討議するため全世界から80人の司教を集めました。その司教たちに対して,同枢機卿は,司祭数の減少は危機的なものであり,神学校の生徒をなんとか増やすことこそ「教会の死活を制する問題である」と語りました。

こうした背信の潮をなんとかくい止めるために,教皇パウロ六世は,異議を唱える司祭たちに対して前以上に懐柔的な態度を取らざるをえなくなりました。11月28日,一般の聴衆を前にして話した教皇は,教会内に「疫病のごとく」広まっている意見の不一致について論じました。ついで,バチカンの公式の新聞オッセルバトーレ・ロマノは,その12月23日付紙上に,「自分の職責にとどまるため不可能なことをも行なう」ことを各司祭に嘆願する記事を掲載しました。「あなたが道徳上の誤りを犯すとしても ― そうしたことがあってはならないが,あなたも弱さを持つゆえにそうした事があるかもしれない ― あなたには多くの救済手段がある」。こうしたことが語られねばならないからには,問題はきわめて深刻であるに違いありません。

牧羊にあたる牧師層のこうした不一致こそ,忠節なカトリック信徒で幻滅感をいだく人々の増加している理由の一つです。しかし,カトリック教の核心に触れる別の理由があります。

“神秘的伝統”の喪失

大部分の崇拝者,とりわけ年配層の人々は,第二バチカン公会議以前のカトリック・ミサが自分たちにとって何か特別のものを擁していたと感じています。演劇的な華麗さを備えたラテン語のミサは「人々の間における神の臨在と神秘性を物語るのに役だった」と,司祭ウィリアム,J・ボーシュはUSカトリック誌の中に書いています。「神秘性が,受動的で,沈黙し,畏怖感に打たれた会衆を生み出した」が,人々はそれを求めて繰り返しやって来た,と彼は認めています。今,そうしたものは失われました。ミサに対する出席が低調なのは,教会が『自らの神秘的伝統を捨て去った』ためである,と彼は信じています。

カトリックの詩人ネッド・オゴルマンは,「われわれは今,単なる模擬的な式典でがまんしなければならない」と述べています。彼の見方からすると,「この新たな教会においてはすべての事がきわめて手早くなされ,また非常にたいくつ」です。神秘性,畏怖感,不可解性などが除かれると,人々はだしぬかれたように感じます。神の臨在を反映するものと考えていた神秘性がはぎ取られてみると,空虚な人間性の儀式だけしか残りませんでした。

カトリック教徒が敬神の助けとして永年用いてきた他の多くの宗教上の付属物についても同じことが言えます。じゅず,聖人,像,日数を定めた祈り,その他信仰上の付属物は,崇拝者の気持ちを神に近づけると言われていました。デトロイトの聖フランセス・カブリニ教会の高位聖職者ヒュバート・マイノはこう述べます。「聖化された象徴物や伝統的な慣行を通して感情が養われる。こうした象徴物が急に取り除かれ……信徒席に着く人々は男女ともに怒りや疎外感を感じている」。彼は,敬神の支えとしてこれらのものを前と同じように評価することを求めています。

しかし,それがほんとうの答えになりますか。

イエス・キリストは,敬神のために物質的な補助物に頼るようにとは教えませんでした。むしろこう語りました。「まことの礼拝者が,霊と真理とをもっておん父を拝む時がくる,いやもう来ている。おん父は,そういう礼拝者をのぞんでおられる。神は霊であるから,礼拝者も,霊と真理とをもって礼拝しなければならない」― ヨハネ 4:23,24,バルバロ訳。

展望

カトリック教会への出席をやめた人に対しては大切な点が問われます。そうした人々は自分の所属してきた教会に対して幻滅を感じただけですか。あるいは,神に対して心を冷たくしたのですか。

教会内で直面した混乱から身を引いたのが実際には義に対する愛のためであるならば,そのまま冷淡で物質主義的な生活に転ずることはないはずです。むしろ,どのような崇拝を神ご自身が求めておられるかを知りたいと思うはずです。そして,それは人の心を聖書に向けさせるはずです。神は聖書の中でわたしたちに対するご意志を啓示しておられます。聖書に頼る人はそれを自分の生活に当てはめ,同じことを行なっている他の人々を尋ね出して,そうした人々との交わりを求めます。

カトリック教会にとどまって,同教会がなんとかして現在の危機を乗り越えるようにと考えている人たちも,自分の考え方を調べてみることが必要です。そこにとどまっているのはどんな理由によりますか。同教会の教えが真理である神のことばにしっかり根ざしていると確信しているためですか。自分で聖書を読んでそれを確かめてみましたか。それとも,何があろうと概して無関心であり,同教会の行なうことにただついて行こうとしているだけですか。イエスは言われました,「正しい事がらに飢え渇く人は幸福である。その人々は満たされる」― マタイ 5:6,カトリック・エルサレム聖書。

自分の崇拝のしかたについて疑問をいだいていたある誠実なカトリック婦人は,神の求めておられることを知ろうとして聖書の勉強を始めました。その後彼女は,ローマにいて司祭の地位にある自分の相当年配のおじに手紙を書き,自分の学んでいる事がらを伝えました。それに対して,司祭であるそのおじは一部次のような返事を送りました。

「そうです,わが子よ,エホバこそ神の名前です。それはあまり用いられていませんが,その点でわたしたちは大いにまちがっています。それはずっと以前に理解されるべきことでしたが,わたしたちも完全ではなく,また,不十分な点のある自分たちの長上に従わねばなりませんでした。しかしそれは悲しいことです。

「この信仰に属するこれらの人々は非常に良い人々であり,真の意味での真理をあなたや他の人々に教えています。家から家に訪問するというのはなんとすばらしいことでしょう。確かにそれはほねのおれる仕事ですが,イエスもそれを行なったのではありませんか……

「それでわたしのめいよ,できるなら,そう,あなたの勉強している書物をほかにも幾つか送ることができるなら,わたしは感謝することでしょう。あなたが知識を,しかも正しい源から真の知識を得ているというのはわたしにとって非常にうれしいことです」。

そうです,多くの誠実なカトリック教徒は,エホバの証人が行なう家から家への宣教奉仕を活用しています。彼らはエホバの証人が差し伸べる無償の奉仕,つまり,自分の家庭でできる聖書研究を受け入れています。そして,どのような崇拝が神に喜ばれるかを自分自身で学び取っています。こうした人々にとって,カトリック教会に起きた事がらは実際には真の祝福となっています。それによって人間の考え出した崇拝組織から遠ざかりはしましたが,同時にそれが『神に近づく』助けともなったからです。―ヤコブ 4:8,バルバロ訳。

まもなく,宗教上の信仰を持つすべての人が裁きを受ける日が来ます。「その日」に是認を受けるのは「主よ,主よ」と叫ぶ者ではなく,「天にまします父のみ旨を果たした人だけ」である,とイエスは述べています。(マタイ 7:21,22,バルバロ訳)賢明に行動してください。神のみ旨を知り,それを果たす機会を今活用してください!

[3ページの図版]

教会出席者数の減少,“破局的”

1973年11月15日付,ニューヨーク・ブルックリンのザ・タブレット

ミサに行くカトリック教徒は25%のみ

1973年9月10日付 ウエスト・オーストラリアン

カトリックの教会出席者数依然低減

1973年11月12日付 ニューヨーク・タイムズ

これらは上記英文刊行物の記事を訳したものです

[5ページの図版]

司祭たちの離反に苦もんを表明する教皇

1973年11月12日付 ニューヨーク・タイムズ

教皇は意見の不一致を“疫病的”と呼ぶ

1973年11月29日付 クリーブランド・プレス

1万5,000人の司祭がやめる: バチカン紙の報道

1973年12月26日付 アリゾナ・リパブリック

教皇に異議を唱えることをやめよ: カトリック教徒に対する指示

1973年7月6日付 ピッツバーグ・プレス

これらは上記英文刊行物の記事を訳したものです

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