ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目75 7/8 13–15ページ
  • 神秘に包まれたにじ

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 神秘に包まれたにじ
  • 目ざめよ! 1975
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 最初のにじ
  • 理解するための試み
  • 現在行なわれている見方
  • なぞは残っている
  • 虹
    聖書に対する洞察,第2巻
  • 自分の虹を作りましょう
    目ざめよ! 1989
  • 初めてのにじ
    わたしの聖書物語の本
  • 空 ― わたしたちのすばらしい屋根
    目ざめよ! 1970
もっと見る
目ざめよ! 1975
目75 7/8 13–15ページ

神秘に包まれたにじ

にじは昔から人の心を魅了してきました。しかしまた多くのなぞを提出して人々をしばしばまごつかせてきました。

雨のあとでも,にじはなぜある時しか現われないのでしょうか。時によって色の数が多かったり少なかったりするのはなぜですか。にじの方向に向かって歩いてゆくと,にじが逃げてゆくように見えるのはなぜですか。あなたはご存じですか。

昔の人は,自分たちに理解できない事柄を恐れ,この美しいにじを,自分たちに敵対する力,つまり「凶兆」とみなしました。またある人々にとってはにじは,水を飲みほして雨をとどめる大蛇(または別の動物)でした。しかし,こうした見方と,にじに関する最初の記録とは非常に対照的です。

最初のにじ

世界最古の歴史書である聖書は,最初のにじに注意を引き,それ以後にじが引き続き現われる理由を述べています。それによると,神は世界的な大洪水の生存者,すなわちノアならびにその家族と契約を立てられました。つまり『すべて肉なる者は再び洪水に絶たるることあらじ』という約束をなさいました。この契約のしるしとして神はノアに言われました。『我わがにじを雲の中に起こさん これ我と世との間の契約の徴なるべし』。(創世 9:8-16)神の約束を人類に思い起こさせるなんとすばらしい方法でしょう。

一部の人々は,聖書はここで,にじが初めて現われたことを言っているのではなく,その時以降にじの存在に新たな意義が付されたことを述べているのだ,と言います。しかし聖書はにじを,その時に紹介されたものとして示しています。大洪水前の大気の状態は,にじのできるような状態ではなかったようです。今日でさえ,にじが生ずるためには,大気は特定の状態になければなりません。

聖書の説明は簡単であるとはいえ,にじの現われる理由を示しています。それで,信仰のある人々は今日まで,にじを見ては,神が依然として人類をみ心にかけてくださっているということを再確認してきました。

理解するための試み

人間はにじの現われ方,つまりにじの仕組みを考えはじめました。そして幾多の驚くべきう余曲折を経ながらなぞと取り組んできました。実際,「にじをとらえよう」とした人たちは,たいてい痛くなった足を引きずって帰るのが関の山でした。

昔の一人の“探偵”,ギリシャの哲学者アリストテレスは,光線が雲の小滴の高低のある表面に当たって反射する,あるいははね返るときににじは発生すると考え,さらに,にじには三つの色しかない,と論じました。この見方は幾世紀もの間,この問題に関する科学思潮を支配してきましたが,彼の説明では解決しない問題がまだたくさんありました。

二つの弧,つまり“二重のにじ”が現われたときに一つの難問が生じました。もしにじが単なる反射にすぎないのであれば,外側の弧の色の帯が,内側の弧の色の配列と全く逆であるのはどういうわけでしょうか。この点や他の面に関するさまざまな説が次々とすたれていくので,学者のロジャー・ベーコンは,「哲学者は確かに一人としてにじに関する知識を得ることができなかった」と言いました。

しかし,17世紀のフランスの科学者ルネ・デカルトは,『さにあらず』と答えました。彼は複雑な数学的計算を行なって,にじの発生に必要な角度を示す表を作りました。わたしの理論が理解できる人は,にじの発生する原因を「容易に理解することができる」と,彼は自慢していました。しかし,ブルックリン大学の数学の一教授は,「彼はにじに関連した問題をすべて本当に解明したわけではない」と述べました。たとえば,色が現われることや複合のにじについては,正しい説明をすることができませんでした。

それから67年後,アイザック・ニュートンが「光学」という本を著し,太陽光線は数種の色に分けられること,したがって色は雨滴によって分けられる,という正しい説を発表しました。その時以後,これを「決定的なことば」とする見方が一般的になりました。しかし,にじのなぞは解明しつくされたのでしょうか。多くの人はそう考えました。ところが,時折現われるにじは,人間が考えた法則通りには現われませんでした。

結局科学者たちは,光は音波に似た運動をする「波」で成っている,ということを信じるようになりました。この線に沿った説明が行なわれるようになったために,「大英百科事典」の1858年版は,「われわれはついに,この問題[にじの発生]を完全に理解したと信じるようになった」と結論しています。事実,非常に多くの人がそう確信していたので,当時行なわれていた光についての見解は一般に,「完全な理論」と呼ばれていました。しかしながら,新しい実験が数多く行なわれて,この「完全な理論」は,「最初の推測」と改称されました。

現在行なわれている見方

もちろん科学者たちは,何百年もの間「手がかり」を研究している間に,神秘的なにじの発生の仕組みについて幾つかの興味深い観察を行なってきました。基本的に言えば,太陽が人の背後にあり前方で雨が降っている場合に,にじが見られる,というのが現在行なわれている見方です。太陽の光が実際に数種の色をつくり出せることを念頭において,太陽光線が特定の角度で雨滴に当たる場合にどんなことが起きるかを考えてみましょう。

光線は,丸い雨滴の外側のふちに当たると,屈曲(屈折)して散乱する,つまり異なる色(波長の異なる光波)に分かれます。次いでそれらの分かれた光波は,雨滴の遠い側に当たってはね返り(反射),雨滴から出る際にさらに屈折します。

ではそのことがなぜにじのあのさまざまな色を作りだすのでしょうか。現在行なわれている理論によると,人が見るそれぞれの色は,特定の角度で目に入る光線によってつくり出され,その色の生ずる角度は変わりません。たとえば,一番上の帯は赤ですが,雨滴のその部分は,目から42度ほどの角度になるからです。目はこの角度で赤色の光波を捕えるのです。赤の下の他の六色(だいだい,黄,緑,青,あい,紫)は,42度よりもやや狭い角度のところに現われます。

では,にじが二つ現われる時,高いほうのにじの色の順序が逆になり,赤が内側,紫が外側となるのはなぜですか。それは,観察者の目から約51度の角度で入射する太陽の光が,水滴の底部に入り,内部で二回反射するからであると説明されています。言い換えれば,光が雨滴の中で二度はね返って出て来るわけです。二度目にはね返るとき,つまり二度目の反射で,高いほうのにじの色の順序は,低いほうのにじの色の順序のちょうど逆になるのです。

にじの色の数が,ある時は多く,ある時は少ない理由の一つとして,「サイエンス・ダイジェスト」の1972年2月号は,「にじの色の数とそれぞれの幅は,雨滴の大きさによって異なる」ことを指摘しています。しかし,もう一つの要素があります。それは観察者です。にじは,観察者が雨滴に対して特定の角度をなす位置にある場合にのみ見られるのですから,にじは実際に観察者のにじ,つまり観察者自身の「視覚経験」です。ですから,あなたに向かって赤い光を反射する角度にある雨滴が,あなたから横に数メートル離れたところにいる人に対しては,黄色か青の光を反射しているかもしれません。

もちろんこのことは,あなたが動けばにじも「動く」という意味です。つまり,にじの方向に向かって歩くなら,あなたが最初に見たにじをつくっていた雨滴の位置を通り過ぎることになります。しかし,頭上を見上げてもそこににじを見ることはできません。というのはあなたは違った角度のところにいるからです。それでもなお遠くににじを見るかもしれません。しかしそのにじは,あなたのいる新しい位置から適切な角度のところに新しくできたにじです。愚かな空想家のことを,「にじを追いかける」者という古いことわざは,まさに至言といわねばなりません。

以上のことから分かるように,人間はすばらしいにじの光について,徐々に多くのことを学んできました。しかしこれは,この探偵小説の最後の章が書き終えられたということですか。

なぞは残っている

「何百年も研究してきたのだから,未解決の問題などないだろう」というのが,今世紀の初期の人々の一般的な考えでした。多くの人は,「光と光学に関する理論は完成され完全なもののように思える」と言います。しかし,問題は依然として存在します。こんどはにじのまさに基礎となるもの,つまり光に関する問題です。光線は時々「波」のような運動ではなくて「粒子」(物質を構成するこまかな粒)のような運動を行なうことが実験によって分かりました。このことは光のさまざまな運動の説明に好適と思われた「波動」説をくつがえしました。

研究は進んでさらに別の説が登場しました。現在では,光は光子と呼ばれる粒子でできていると考えられていますが,運動においては,「波のような動きをすると同時に粒子のような」動きをすると考えられています。結局人間は,3,000年前神がヨブにお尋ねになった,『光明の発散る道……はいずこぞや』という質問に対していまだに完璧な答えをすることができないでいるのだということを,わたしたちは謙そんに認めなければなりません。―ヨブ 38:24。

しかし,にじの神秘の中でまだなぞとして残っているのは,光の本性だけではありません。「それに対する知覚作用についてもほとんど知られていない」と,「ザ・レインボー」と題する本は述べています。そうです,人間の目,特に色彩に対する視覚については,学べぶきことがまだたくさんあります。

確かににじはいまだに挑戦を投げかけています。ですからわたしたちは,『天のにじ』を平和のしるしとして見るときであろうと,その構造のなぞを研究する目的で見るときであろうと,にじの創造者に畏敬の念をいだいて立つべきでしょう。このとらえどころのないにじをとらえかけている人が一人もいないということは,いろいろな意味で確かに事実であると言えます。

[14ページの図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

太陽光線

太陽光線

42°

観察者

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする