「隣人愛」はどうなりましたか
親しみ深くて暖かく,親切で助けとなる隣人が周囲にいれば,生活はなんと楽しいものとなるのでしょう。それによって生きることの喜びは増し加えられ,生活上の種々の問題も小さなこととみなせるようになります。その場合,聖書の次のことばがまさに当てはまります。『親しき隣はうとき兄弟にまされり』― 箴 27:10。
しかしそのような隣人はどれほどいますか。残念ながら,今日,そうした親しい隣人関係は次第に薄れているようです。多くの土地の人々はそうした変化,つまり他の人に対する関心が薄れている点に気付いています。最近載せられた次のような新聞の見出しをあなたも読まれたでしょうか。
「傍観者,襲われた婦人を見殺し」,「男性刺殺さる,30人の群衆の目の前で」,「父親,娘の死の様を語る ― 通りがかりの車は知らぬふり」,「無視された叫び声,婦人泥の中で死ぬ」。大抵の場合,その見出しに続く記事には,なぜ助けなかったかについて言い訳をしている当事者の言葉が載せられていますが,それはおおむね,「かかわりになりたくなかった」というものです。
しかし,劇的で世間を騒がせるそうした事件の中に隣人愛の欠如が特に感じられているのではありません。それは人々の日常生活の中に感じられるのです。笑顔や親しみのこもったあいさつ,礼儀正しい振舞い,あるいは思いやりや親切さなどは,今日不足しているものの上位にあげられるでしょう。それぞれの立場で,冷淡な態度や無関心で失礼な態度が増大してゆくのを経験していると述べる人は少なくありません。その原因となっているものは何ですか。
その責任の大半を現代の工業社会に帰する人もいます。現代の社会では,スピードや量が重んじられ,人間を,それぞれの欲求や願望,また人格を持つ個人としてではなく,むしろ巨大な工場の『歯車の一片』とみなす場合が少なくありません。現代社会のもう一つの特色は,大都市です。そこに住む人々は幾百万という仲間の人間に囲まれているにもかかわらず,大抵の場合,寂しさを感じています。他の人々に関心を示すために時間を割く人はほとんどいません。さらにまた,かつては,都市においてさえ大抵の場合,かなりはっきりした隣近所の関係というものがありました。今では,あまりにも移動が激しいために昔ながらの隣近所の関係は姿を消してしまったということも少なくありません。テンプル大学の人間発達史の教授テロン・アレキサンダーはこう述べています。『われわれの社会構造の基礎体制のあるものが損傷を被っているようだ。都市の住民は,自分が明確な地域社会の中にいるという実感をますます薄くしている。幾百幾千万の人が,人間社会の中で自分の落ち着く場所を見いだせないでいるといった事態は,世界史上初めてのことであろう』。
しかし,都市,郊外,あるいは農村地帯のいずれにおいても,人が他の人に接する態度に強く影響を与えている要素の一つは,現代社会が助長した物質主義的傾向です。ニュージャージー州心理学センター理事ジェリー・H・シーゲル博士は,米国に見られる状態についてこう述べています。「確かに人々はいよいよその場かぎりの生き方をするようになっている。概して社会の有り様は大きく変化し,価値感の欠如は著しい。人々はますます自己本位になった。通貨が安定していないことはそうした利己主義にいよいよ拍車をかけている」。
確かに,人間よりも家,車,衣服,娯楽用品などに関心が集中しています。しかし,そうした物品は人の心を真に満足させるものではありません。それは,寛大さや“外向的”気質の逆であり,人を無神経にさせ,人を犠牲にしても自分の欲望を満足させようとして何とも思わないような傾向を人に持たせます。
今や経済上の諸問題やインフレが広がり,物質的なものに幸福と安全を求めることがいかに無益かが明らかにされています。しかしそうした現実に目覚めるかわりに,多くの人はますます自分たちの経済問題に心を奪われ,一層内向的になり,いよいよ他の人に関心を抱こうとしなくなり,他の人の幸福に寄与するため心を用いようとしなくなっています。
解決策がありますか
解決策はどこにありますか。その点を正しく認識するためには,まず,大都市や大工場あるいは同様の環境に主要な責任があるのではない,という点を理解しなければなりません。たとえ同じ環境に置かれても,人は同じようには行動しないからです。同じ都市の同じ町,もしかすると同じ通りにさえ住み,同じ工場で働いていても,隣人としての関心を示す人もそうしない人もいます。何がそうした相違をもたらしますか。
その答えは非常に大切です。それは命そのもの,まさに永遠の命の希望と関係しているからです。西暦一世紀当時,モーセの律法に通じたある人がナザレのイエスにこう尋ねました。「師よ,何をすれば,わたしは永遠の命を受け継げるでしょうか」。イエスはその答えとして,その人が律法からの次の言葉を引用するように仕向けました。「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,力をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』,そして,『あなたの隣人を自分自身のように愛さねばならない』」。イエスはこう付け加えました。「このことを行ないつづけなさい。そうすれば命を得ます」。イエスは続いて真の隣人愛を示したサマリア人に関するたとえ話をされました。―ルカ 10:25-37。
確かに,神への愛と隣人愛は,表裏一体のものであり,切り離すことはできません。イエスの使徒ヨハネは次のように書いています。「『わたしは神を愛する』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら,その者は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです」。(ヨハネ第一 4:20)そのことは,今日なぜこれほどまでに隣人愛が薄れているかを理解するのに役立ちます。どうしてそう言えますか。
隣人愛と同様,神への愛も薄れているからです。イエス・キリストは,この時代を現在の不義の体制の「終わりの日」として預言的に描写し,戦争や食糧不足,その他の深刻な問題が同時に人類を襲って人々を悩ますことを予告されました。また,「不法が増すために,大半の者の愛が冷える」とも言われました。(マタイ 24:3-12。テモテ第二 3:1-4)神について知り,そのみことば聖書を読んで,神の規準や目的が何かを学ぶことや神を愛することに対する関心は,確かに今日大半の者の間で『冷えて』います。隣人愛もその影響を被ることは必至です。
神について学び,この地と地上の人間社会を清く健全な義の状態に戻らせる神の目的を知ることにより,他の人々に対するわたしたちの見方や態度は大きく変化します。それはわたしたちの価値感を変化させ,今日の物質主義的な体制が提供するどんなものより壮大で,満足のゆく希望を与えます。確かにそれはわたしたちが愛を『広げ』,神のように,私心のない態度で人類全体に関心を持つように促します。エホバの証人は,希望されるかたが無料の家庭聖書研究を通して,神のお目的について一層よく知るよう援助することにより,隣人としての関心を喜んで示します。