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  • わたしは市長でした
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目ざめよ! 1976
目76 2/22 12–14ページ

わたしは市長でした

健全な道徳的信念を備えた家庭で育てられたのは,わたしにとって幸せなことでした。当然のこととして,正直さ,誠実さそして真実を語ることなどを教えられました。こうした特質は,後日わたしが迫られた重大な決定に大きな影響を及ぼすものとなりました。

わたしは,世の中の政治および社会的な発展に人は積極的に寄与すべきである,つまり,人は自分の生きている歴史的瞬間の欠くことのできない要素とならねばならないと考え,カトリック行動運動から政治活動に入りました。

こうして,わたしは1970年の地方選挙で市議会議員に選ばれ,さらに市議会によって市長の職務に就くよう選任されました。それはイタリアのカンパーニャ・モンフェラト(アレッサンドリア)市のことです。その新たな職務に就いたわたしは,自分が,特に納税者としての一般市民と官僚主義の対立する政治の場に,投げ込まれたことを知りました。

政治家が権力の座にとどまろうと自分の利益のために活動するので,腐敗が社会のあらゆる階層に及んでいることが,やがてわたしの目に明らかになりました。ですから,下される決定も極めて党派色の強いものでした。何か建設的な事柄が提案されるたびに,それは官僚主義によって間もなく妨害されてしまいます。それで,何事を成し遂げるにも最低六,七か月はかけねばなりませんでした。

こうした状況の下で,わたしは地域社会全体の利益を決して見失わないように努めながら,正直さと方正さを普及させようと苦心しました。改めることのできた事柄も幾らかありましたが,そのためにどれほど多くの敵を作ったことでしょう。

大多数の市民は,正義が行なわれるのを願ってはいるものの,自分でその努力を払おうとはしないことにわたしは気付きました。自分たちと利害関係のある問題になると,友人の支持を求めたり,妥協や抜け穴を捜したり,行政官を脅迫したり,暴力に訴えたりして,個人的な特典を得ようとするのです。

大きな変化のきっかけとなったある訪問

わたしがこうした難題すべてに取り囲まれて苦闘していた1972年のクリスマスの日に,一組の男女がわたしの家を訪れ,地上の変化が迫っていると言って,神と聖書について話し始めました。少なからず驚かされたわたしは,その人たちと少しのあいだ話すことに同意しました。二人は,「とこしえの命に導く真理」と題する本と数冊の雑誌を置いてゆき,それらの出版物に対する意見を聞くために再び訪問する,と約束して立ち去りました。

わたしは,「真理」の本を数ページ読んだだけで読むのをやめてしまいました。余りに途方もないことのように思えたからです。しかしわたしは,そのことについて妻に話しました。わたしたちは,こう自問しました。『各家庭を訪問してこのようなことを言うからには,何らかの理由,何らかの根拠があるに違いない。もし彼らの言うことが聖書に基づいているのなら,二千年近くの歴史を持つ我々のカトリック教会が理解していないことを,どうして理解できたのだろうか』。

敬虔なカトリック教徒であったわたしたちは,次の日曜日も,いつものようにミサに参列しました。教区司祭は,福音書を説明した後,“クリスチャン”あるいは“エホバの証人”と名乗る者たちに耳を貸さないよう聴衆に忠告しました。

次の日曜日,エホバの証人が再び町内の家々を訪問したことを知った司祭は腹を立て,エホバの証人はキリストを信じないプロテスタント教徒である上,自分たちの考えを押し付けがましい態度で人々に受け入れさせようとするので,彼らには耳を貸さないようにと,独善的な口調で述べました。その後も,司祭はエホバの証人を「貪欲なおおかみ」と呼んで度々ののしりました。

しかしわたしと妻は,好奇心からか,あるいはわたしたちを取り巻く環境に対する不満からか,教区司祭の忠告とはうらはらに,エホバの証人として知られるこれらのクリスチャンを家の中に招き入れました。驚いたことに,エホバの証人の意図する事柄は平和的であり,その態度は柔和そのものでした。

カトリック教徒であったわたしたちは,自分たちこそ真の宗教を奉じていると考えていましたから,エホバの証人が自分の間違いを理解するのを助ける目的でその話し合いに応じたのです。ところが,研究すればするほど,間違っているのは自分たちの方であることが分かってきました。わたしたちは,何度も教区司祭に助けを求めましたが,司祭は納得のゆく説明をすることができませんでした。

今や真理に対する渇望に動かされたわたしたちは,カトリック,プロテスタントを問わず,聖書によく通じていると考えられる人々と話し合いました。わたしたちは,多くの重要な論点について話し合いました。しかし,カトリックの神学者もプロテスタントの牧師も,自分の説を裏付ける聖書的な根拠を見いだせませんでした。ですからわたしたちは,真理は聖書の中にのみ見いだされ,それを宣べ伝えているのは,互いに愛し合うことによって自分たちが真の弟子であることを示しなさい,とのイエスの命令を守っている人たちだけである,と結論せずにはいられませんでした。

普通のカトリック教徒は,青年期に儀式や祈りを機械的に覚えるだけの宗教的訓練を受けます。それから後,人の霊的な必要は,日曜日のミサで満たされるものとされています。カトリック教徒は,自分の救いは秘跡を執り行なう司祭にかかっていると教えられています。また,その良心は焼き金で焼かれてかたくなる場合もあり,そうなると最後には大抵,無感覚で堕落した人間になってしまいます。

やがてわたしは,教理の面でカトリック教会の誤りが暴露されるのを見ました。特にわたしが印象づけられた点を幾つかここに挙げます。例えば,ヨハネ 14章28節に書かれている事柄を読むなら,三位一体の教理が正しいとどうして言えるでしょうか。また,創世記 2章7節,伝道の書 9章5節,ヨブ記 14章13節および34章14,15節などに照らしてみる時,霊魂不滅の教理をどうして支持できますか。また,キリスト教世界の諸教会の行為を調べると,歴史を通じて,特に近年の世界大戦の際に,彼らが暴力行為を犯していることが分かります。それをヨハネ 13章34節と比較すれば,そのような行為が真のキリスト教とは相入れないものであることは明らかです。

このすべてから,カトリック教会の教えが誤りである,と結論するのは難しいことではありませんでした。ですからわたしは,少しずつカトリック教会から離れ,妻と共に,エホバの証人の王国会館における集会に出席するようになりました。知識が増すに従って,わたしたちはエホバの証人が真の意味で神の民であることを悟るようになりました。

市長の新たな政治観

政治の世界は,これまで以上にわたしを悩ませるものとなりました。政治家の間に見られる不正や利己心は,霊的な識別力や神のみ言葉聖書に関する知識などの欠如による,ということを今や理解するようになったからです。

わたしは社会の闘争のただ中に生きていますが,その闘争を解決するために,自分が政界にとどまっても何もできないことは明白です。政界でわたしが努力するには,自分の道義観に反して妥協したり,汚職にかかわったりしなければならないからです。もしそうしないなら踏み倒され,押しのけられてしまうでしょう。わたしが思うには,単に幾人かの正直な人々が種々の社会活動に携わることによってではなく,人間が心を変えて初めて,社会を変化させることができるのです。

この点は,今の世界がこのような状態にあるのは,道徳的に方正な人が社会の状態を改善しようと努力しなかったからではなく,少数者の高潔な努力が多数の人の悪によって抑えられてきたからである,という事実によっても裏付けられます。

今やわたしは,政治および行政上の権力が,迫り来る社会問題を過去も現在もそして将来いつまでたっても解決できない理由,この国南部の広範にわたる地域に飲料水や電気が供給されない理由,国民保険制度が驚くべき赤字をかかえている理由,不十分な教育施設,野放しの公害,とどまるところのないインフレなどが見られる理由,青少年犯罪や暴力が増大している理由などを悟ることができました。

ところが,市長(わたしがまだカトリック教徒であった時に引き受けた仕事)であるわたしには,市民に対する責任がまだ残っていました。それと同時に,自分の立場がエホバに受け入れられるものでないことは,聖書に関するわたしの知識からも明らかでした。この点に関して妥協することなく,そしてクリスチャンの原則に従って行動することが必要でした。この問題をよく検討してから,わたしは知事のところに行き,市長を辞職する自分の意志を説明することに決めました。知事は非常に物分かりがよく,他の市議会議員については,選挙を繰り上げなくてもその任期を満了できるよう取り計らうと約束してくれました。それはわたしの望むところでした。つまりわたしは,選挙を繰り上げることが意味する多額の出費を市に負担させるようなことを避けたかったのです。

こうしてわたしは辞任することができました。今や,わたしと妻は,自分たちの行なった選択のゆえに心の平静と落ち着きを感じました。そして,エホバ神に自らをささげ,水の浸礼によってそれを公に表わしたいということが,わたしたちの次の願いになり,その願いはかなえられました。

ですから今,わたしと妻は,心の中のこの大きな喜びを得るよう他の人々をも助けたいとの誠実な願い,そして深い愛と感謝の念に動かされて,真の神への奉仕に自らをささげ,エホバの民の一員として数えられることを喜んでいます。―寄稿。

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