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  • パプア・ニューギニア独立の年 ― 1975年
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目ざめよ! 1976
目76 4/8 23–25ページ

パプア・ニューギニア独立の年 ― 1975年

パプア・ニューギニアの「目ざめよ!」通信員

戦い合う部族の国が百年を経ずして独立国家に! パプア・ニューギニアはこのようにして現代世界に登場した国です。1975年9月16日,国の首都ポートモレスビーにおいてオーストラリアの国旗に代わってパプア・ニューギニアの国旗が掲げられ,建国者たちの努力は頂点を迎えました。

オーストラリア,シンガポール,フィリピン,インドネシアおよび太平洋の他の島々からの国賓が何日も前からつめかけました。英王室の代表者はチャールズ王子でした。一方,オーストラリアの総督,首相,オーストラリア議会のメンバー多数が参列して,オーストラリアから新政府への最終的な権力の移管を見守りました。

初期の植民地支配

1880年代の半ばにドイツ帝国が大きな島の北部18万平方キロと600に上る小さな島々を占領してニューギニアと名づけて以来の植民地支配の時代は,こうして終わりを告げました。当初の四年間はニューギニア・カンパニーという名の企業に統治の権限と責任が与えられていましたが,1899年にはドイツ政府が再び統治し,最終的にニューギニアはジャーマン・ミクロネシアおよびマーシャル群島と合併して,ニューブリテン島のラバウルに政庁が置かれました。

英国はその植民地オーストラリアの北岸にきわめて近い所でとられたドイツのこの動きに警戒し,その結果,本島の南部は,沖合の島々をも含めて約23万4,000平方キロが英国の支配下に置かれることになりました。その首都が南岸のポートモレスビーです。1901年,オーストラリアに連邦政府が設立されると,英領ニューギニアと呼ばれるようになっていたパプアはオーストラリアに移管されました。

第一次世界大戦後にドイツが植民地を手離すことになったのに伴い島の北部ニューギニアも国際連盟の委任統治領としてオーストラリアに割り当てられました。1937年,火山の大爆発によってラバウルの町が事実上,壊滅した時,首都を本島の北岸にあるラーエに移すことになりましたが,この計画は第二次世界大戦の勃発と,それに続く日本軍の占領によって阻まれました。

独立を目ざす歩み

パプアとニューギニアの両方は1945年まで軍政府の支配下にありましたが,その後,ニューギニア委任統治領とオーストラリア領パプアをパプアおよびニューギニア・テリトリーとして併合し,ポートモレスビーに置かれた中央政庁と行政官の管理下に置くことが決定されました。その同じ年つまり1945年にオーストラリア労働党政府のパプア・ニューギニア担当閣僚ウォード氏は,「経済への住民参加の拡大,最終的には自治政府の樹立」という政府の方針を言明しています。

自治政府への歩みが実際に大きく進められたのは1960年代になってからです。1961年にはメンバーの大多数を選挙によって選ぶ新しい立法会議が設置され,その半数はパプア・ニューギニア人が占めました。

1964年に立法会議は議会になり,政党が発達し始めました。1965年から1967年にかけての国連総会の決議は,パプア・ニューギニアの自治と独立をいつまでに達成するかを定めるようにオーストラリアに求めています。ミカエル・ソマレ氏の組織した連立政府が1972年に政権を得,その後間もなくして憲法起草委員会が設置されました。その年の9月,自治達成の期日は1973年12月1日と定められ,一部の保守的な人々の反対があったにもかかわらずそれは達成されて,パプア・ニューギニア政府は国防と外交を除き,ほとんどすべての分野にわたって行政を行なうようになったのです。多くの論議を重ねて後,パプア・ニューギニア独立の日は最終的に1975年9月16日と定められました。

準備万端

独立以前すでにパプア・ニューギニアには自国の商業銀行と自国の航空会社エア・ニューギニーがあり,また多くのパプア・ニューギニア人が政府の各部門や私企業にあって有力な地位を占めるようになっていました。陸海空の国防革も組織されています。

1975年半ばからは諸般の準備も一段と進められて独立への歩みも急速な盛り上がりを見せました。反対の声も一部にあり,銅の豊富な産地であるブーガンビル島では一部の指導者が,パプア・ニューギニアの他の部分からのブーガンビル島の独立を一方的に宣言しました。パプアにも独自の分離派運動パプア・ベセナ(パプア民族)があり,そのメンバーはもっと以前にパプアの独立を一方的に宣言しています。

9月初旬にポートモレスビーでは大掛かりな清掃と最後の建設作業が行なわれました。行政の新しい中心地区となるワイガニのインデペンデンス・ドライブはまだ完成しておらず,他のいろいろな事業も仕上げを急がれました。

独立記念行事

自治記念日や他の祭日における経験を生かして,政府は独立記念行事の行なわれる期間,酒類の販売を禁止しました。この期間中,平穏が保たれたのは政府の賢明な措置のお陰です。

今やペースは増し加えられました。ビルやオフィス,それに街路燈まで明るい色の旗と極楽鳥のしるしで飾りつけられ,町にはお祭り気分がみなぎっています。パプア・ニューギニアの芸術品や工芸品が町中に展示されました。これらはこの土地の生活様式がどんなものかを訪問客に知ってもらうためのものであったというものの,町の住民でさえ,今日,姿を消しつつある生活や仕事の一面をなつかしんでそれらを見守る光景が見られました。特別仕立ての飛行機が到着し始め,訪問客は歓迎され,町のホテルは満員となりました。国賓の通る道筋には25メートルおきに警官が立って警備につきましたが,彼らの役目は見物人の役目と変わらなかったようです。

クリスチャン聖書研究者が毎年,大会を開いているサー・ヒューバート・マリー・スタジアムには,独立記念日の前夜,数千の人々が集まりました。そこでは日没とともにパプア・ニューギニアでオーストラリアの国旗がこれを最後に下ろされる儀式が行なわれ,数千人の見守る中で国旗は,パプア・ニューギニアの選出された総督サー・ジョン・ガイズの手からオーストラリアの総督サー・ジョン・カーの手に渡されました。ついでパプア警察隊,太平洋連隊,それに訪問中のオーストラリア海軍の合同軍楽隊が軽快な調べをかなで,ハイランド・バラードから「ライシ」に至るまで様々の曲を演奏しました。「ライシ」は第二次世界大戦中にパプアで流行した歌で,首都周辺の部族が戦争のために強制された米食に飽きて彼らの郷土食にあこがれた気持ちを歌ったものです。

真夜中を過ぎ,ミカエル・ソマレ首相,総督の演説,そして港に停泊した軍艦の百一発の礼砲でパプア・ニューギニアは独立の夜明けを迎えました。港を囲む山の上では明るく輝く花火が見られました。祝賀行事は一部の人々にとっては夜明けまで続きました。

独立の当日,昔の議事堂でチャールズ王子によって議会の開会が宣せられ,同王子はパプア・ニューギニア州の公式の元首エリザベス二世女王からのメッセージを読みました。ワイガニのインデペンデンス・ホールにパプア・ニューギニアの国旗が掲揚されたのに続いて,チャールズ王子は新しい議事堂の所在をしるしづける飾り板の除幕をしました。オーストラリアとパプア・ニューギニア空軍の飛行機が頭上を飛びました。

さて今後は?

祝賀行事も済んで,新任の首相が初の記者会見で打ち出した実際的な方針は時宜を得たものでした。首相はこう述べています,「新国家となった今,我々は心をひきしめて仕事に着手しなければならない。今日よりは他に頼るのではなくて独立独行を旨とすべきである」。

憲法を起草する作業は年の早いうちに完了しており,独立の日を迎える以前に憲法は採択されていました。良心,思想,宗教の自由,表現と出版の自由,集会の自由を含め,十五の基本的な権利と自由が保証されています。憲法はまた「オムバッヅマン」すなわち公務員によって不公正な扱いを受けたと感ずる人々のために公の弁護人となる人の規定を設けています。この国の誠実なクリスチャンすべては,これらの優れた保証が引き続き与えられることを希望しています。

パプア・ニューギニアに住む1,400人以上のエホバの証人は,勤勉に働く人々という評判をすでに得てきました。彼らは自分自身および地域社会に住む他の人々を向上させるために自分たちの能力を賢明に用いています。これは新憲法によっても認められている責務です。

これらの証人たちは独立の以前と以後の両方において彼らの宗教を実践する自由を政府から与えられている事を有り難く思っています。彼らは引き続き国中の人々に次の事を教えるでしょう。すなわち神のみ子による神の王国の下では,国を異にしていた人々も一致することができ,互いの交際をいつまでも平和のうちに楽しむ時が来るということです。

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