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目ざめよ! 1976
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動物を楽しむ ― 度を越えないで適当に

初めてドイツのベルリンを訪れた若夫婦には,オペラハウス,湖,博物館,史跡など見るべき所がたくさんありました。しかし,中でも懐かしい思い出として残っているのは,動物園でのある光景です。

白(北極)クマのいる広々とした場所で,一頭のクマが柄の長いシャベルをもて遊びながら,水の中に飛び込んではまた水から上がる,という動作を繰り返していました。その若夫婦は,クマがその奇妙なおもちゃを空中にほうり上げ,それを取るため水中に飛び込む様子をじっとながめていました。クマは面白がっていたに違いありません。それに,こうした光景を目のあたりにするのは何と楽しいことでしょう。

あなたも,動物をながめたり,動物と遊んだりして楽しんだことがあるのではありませんか。それは,あなたが木の実を差し出しながらじっと待った末,やっとのことでシマリスかリスがその木の実を取るため近づいて来た時のことかもしれません。あるいは,飼い慣らされたシカをなでたり,新しいペットの子ネコが落ち葉を追い掛けるのを見たりしたときのことを思い出して,今でもほほえむことがあるかもしれません。

実のところ,動物がきらいな人はほとんどいません。もっとも,ヘビ,クモ,コウモリといったような動物は例外だとお考えになるかもしれません。しかしほとんどの人は,動物と接するのは,楽しくて興味深いことに気付きます。

とはいえ,動物を心ゆくまで楽しみたいなら,動物を相対的な,動物にふさわしい位置にとどめておかねばなりません。一つの例は,確かに極端ではありますが,その点を非常によく示しています。

一人の男の人は,1㍍50㌢もある王蛇をペットとして非常にかわいがっていました。その人は,妻が王蛇を怖がっているのも構わず,そのヘビを二人の寝床の中に連れ込み,自分の体に巻いて寝ると言い張りました。さらにその人は,王蛇を首に掛けて食卓にまで連れて来るようになりました。そして,ついに食卓でヘビに生きたネズミを食べさせるようになると,妻は我慢しきれなくなり離婚しました。夫はどうしましたか。彼は,王蛇をもう一匹求め,その二匹がつがうことを期待していたのです。明らかにこの人は,少なくともそうした種類の動物を愛好していました。しかしその人は,動物を適度に,つまりあるべき位置において楽しんでいたでしょうか。

様々なペット

農場に住んでいない限り,動物と接するのは,大抵,イヌ,ネコ,小鳥,魚などに限定されるでしょう。しかし,ペットとして,カメ,ハムスター,あるいはノミやゴキブリのような昆虫を飼っている人もいます。実際に,ペットの種類はおびただしい数になります。日本の子供はよくハツカネズミを飼い慣らしますし,オーストラリアではカンガルーをペットにする人もいます。では,マングース,カエル,サル,カワウソなどについてはいかがですか。そして,信じられないように聞こえるでしょうが,ライオンやヒョウなどネコ科の大きな動物をペットにしている人が米国には一万人余りいるのです。

一冊の本は最近,西ドイツにイヌとネコが800万匹,フランスに1,650万匹もいることを伝えています。ロンドン・タイムズ紙(1967年9月9日付)によると,英国人は一年間に,500万匹余りのイヌ,450万匹余りのネコ,そして350万余りの小鳥や魚や小動物のために9,555万5,304ポンド(約650億円)を費やします。米国に関して,タイム誌は次のように述べています。

「米国は昨今,動物ブームの爆発としか言いようのない事態を経験している……米国にいる一億匹余りのイヌやネコは,毎時3,000匹の割合で子供を生んでいるが[それに比べ],人間の赤子は60分に415人生まれるにすぎない。全米7,000万世帯の約六割がペットを飼っていると推定される」。

ペットを飼っているかどうかにかかわりなく,動物を愛好しておられるなら,動物のもたらす様々な益についてお考えになったことがあるでしょう。

動物の価値

大抵の人が動物を楽しめるもの,重要なものとみなすのは当然なことです。というのは,エホバがこの地球の生態系の貴重な一部として,動物を地上に置かれたからです。「野獣」と「家畜」の双方が共にこの地球に住むことによって,人間が益を受けられるのを神はご存じでした。(創世 1:24,新)例えば,羊毛から作られる,着心地がよく,長持ちのする衣服の恩恵に浴していない人がいるでしょうか。アダムの息子アベルは「羊の牧夫」であったのですから,アダムの家族もその恩恵に浴していたと言えるのではありませんか。―創世 4:2,新。

しかし,動物の中でもペットとなるようなものは,大抵,別の面で価値があります。そうした動物は人の財産や命を守る場合があるのです。主人を守るために吠える忠節な犬を連れて歩いたゆえに,追いはぎや暴行に遭わずに済んだ人がどれほど多いか考えてみてください。ブルックリンの高級住宅街に住む一婦人は,控え目な笑みを浮かべながら,近所では何軒もの家が泥棒に押し入られたが自分の家は難を免れたと述べました。彼女の家では体重45㌔のグレートデーンを飼っており,そのうなり声を聞けば,泥棒に入ろうとした者も,二の足を踏むに違いありません。それでも,その黒と白のぶちのグレートデーンは,家族の者やその友人たちに対しては非常におとなしく,人なつこいので,皆は本当にそのイヌをかわいがります。

お子さんがおられる方なら,ペットが子供の生活の重要な一面となり得ることを考えて,家庭で動物を飼っておられるのかもしれません。この点に関して,大英百科事典は次のように述べています。

「ペットを飼っているなら,子供に特権と責任との深い関係,および性に関する事柄を教える機会が開かれる。やがて,交尾の過程が目に留まり,その後,懐胎期間のような事柄や出産と子供の世話に関する問題などが続く」。

お子さんのためにペットを飼うことにされるなら,関係している責任を果たす面でお子さんを訓練し,十分の益を得られるようにしてあげなければなりません。その動物に対する最初の熱意が薄らいだり,その動物が“かわいく”なくなったりしたときに,動物をほうっておくのを許すのは,子供に対する,またペットに対する深い配慮を示すことですか。ペットを洗い,運動させ,訓練し,ペットに食物を与える際に,自分一人でやってしまうのではなく,子供も一緒にそうするよう教えるなら,子供を助けることになります。また,そうすれば,家族全員がペットを一層楽しむようになります。

ペットの世話をしたり,ペットと遊んだりすることによって,多くの知恵遅れの子供や情緒面での問題を持つ若者は助けられてきました。その理由の一つとして,神が創造された生きた動物のあるものが自分の世話を必要としていると感じたとき,そうした子供や若者が良い反応を示す場合があるという点が挙げられます。さらにペットは,彼らが「外部の世界」と接触を持つよう助けるかもしれません。英国ロンドンの一心理学者は,自閉症で,汚れに対する極度の恐れを持つある情緒障害児について述べています。その子がデイジーという名の愛がん犬に関心を持つようになると,そのペットについて両親に話し,よりよく意志の伝達を行なうようになりました。デイジーに五匹の子犬が生まれ,その面倒を見る点で手伝うことができたとき,その子は清潔さに関する強迫観念を克服しました。

もちろん,情緒面の障害がなくてもペットを友とすることから喜びが得られない訳ではありません。静かにいすに腰を下ろし,のどをごろごろならすネコをそっとなでてみたことがありますか。カナリアの美しいさえずりに耳を傾けたり,家に帰ったときに飼い犬のうれしそうな鳴き声に迎えられたりしたことがありますか。そうであれば,動物が人間に大きな喜びをもたらすことをご存じのはずです。

分別が必要

動物の愛好家でも,大抵,動物の扱い方には分別の必要なことを悟っています。ペットをすでに飼っているか,これから先飼うつもりなら,動物,中でもペットの飼育を楽しむことと関係のある幾つかの重要な要素を見過ごしてはなりません。

費用は確かにそうした要素の一つです。一口に言えば,ペットにはお金がかかります。もっとも,サッカー試合を見たり,劇場に行ったり,油絵のような趣味を楽しんだりするためにもお金はかかります。それで分別のある見方とは,それから得られる楽しみを,その費用に照らして考察してみることです。タイム誌は次のように述べています。

「アメリカ人は,ペットのえさ代として,商品化されたペット・フードだけでも,年間25億㌦(約7,500億円)も費やしている。それは,アメリカ人がベビー・フードに費やす額の六倍余りに相当し,世界人口のうち飢えている人々の三分の一を養うのに十分過ぎるほどの額である……アメリカ人は,ペット用品やサービスのために,少なくともペット・フードに使うと同じ額のお金をつぎ込む」。

ペットを手に入れる際に,多くの人は多額の出費を予期しません。しかし,費用はかさむものです。特別なえさが勧められるかもしれません。ペットが病気になって,治療が必要になることもあります。鑑札,おり,綱なども必要になるでしょう。

夫と死別したとき,E夫人はシーリハムテリアを買い求めました。そのイヌは同夫人の大のお気に入りとなりましたが,一年たってから,そのペットにどれほど費用がかかったかを計算してみると次のようなことが分かりました。同夫人はいつの間にかそのイヌに特別な肉や間食を与えるようになっており,その代金が一年間で547㌦50セント(約16万4,000円),注射および医療費が50㌦(約1万5,000円),毛の手入れおよびアクセサリー代(スプレー,首輪,おもちゃなど)が291㌦(約8万7,000円),自分が旅行している間のイヌの世話代が126㌦(約3万8,000円)それぞれかかっていたのです。この例を挙げてから,ペットに関するある本は結論としてこう述べています。

「E夫人は,自分がイヌのために一年間に,カリフォルニア州の季節労働者の年収に相当する金額[1,014ドル50セント(約30万円)]を費やしたことを知ると,いかにそのイヌを愛していようとも物動を人間よりも優遇することには根本的に何らかの誤りがあると判断した」。

それは同夫人の結論でした。しかし,ペットを飼うことから得られる益は,それだけの費用をかける価値があるとの結論に達する人もいるでしょう。いずれにしても,ペットを飼う人は,その費用を検討し,自分にとってどうすることが最善かを判断する際,分別を働かせねばなりません。何を優先させるかは,環境が異なるように,皆それぞれ異なります。一人のアフリカ人はこう述べています。

「開発途上にあるアフリカの全般的な経済情勢からすれば,社会の中の高給取りが,イヌやネコやウマを養うために,一般の人々が一家全体を養うのに使うと同じほどの金額を費やすことがどうしてできるのか,人々は理解に苦しんでいる」。

こうしてアフリカの多くの地方では,イヌが自分で食物をあさるに任されています。ですから,「あばら骨を数えられるほど,やせこけている」番犬も少なくありません。

自分のペットがそうした状態に陥るのを望む人はまずいないでしょう。それでは,ペットの食費や医療費を負担するだけの用意がありますか。ペットを飼っている人で,その世話をきちんとできなくなる人は後を絶ちません。ですから動物愛護協会には,やせ衰えたペットが殺されるために数多く運び込まれます。他の人々は,動物が街路や野原では生きてゆけないと分かっていても,そうした場所に捨てるのです。それは,動物を“愛好する”こととはほど遠いものです。

動物を愛好する点で分別のある見方をする人は,動物には危険が潜んでいることを認めます。それはちょうど,自分がしようと思っているスポーツや他のレクリエーションに伴うどんな危険をもまず検討してみるのと同じです。確かに,ペットに関して考えられる危険の一つは,かみつかれることです。トロント・スター誌はこう述べています。「ブルース・フェルドマン博士[ペットの専門家]は,毎年米国で170人のうち1人がイヌにかまれ,『その上,かまれても届け出をしない人の数は少なくともその数に等しい』ことを指摘している。この数字をカナダに当てはめてみると,[1974年に]10万人に上るカナダ人が動物にかまれたと考えられる」。

こうした危険があるのはイヌだけではありません。獣医学会の元会長ハービー・レイン博士は次のように述べています。

「わたしの知る限り,野生動物でペットとなり得るようなものはいない。サルは人間に近すぎるため,人間の病気にかかったり,それを移したりする。アライグマ,スカンク,リスなどをペットとすることにも賛成できない。これらの動物を飼い慣らしたある人々の言うとおり,それがかわいらしいペットになるとしても,狂犬病の菌を保有している恐れが残るからである。そして,こうした動物はすべて人にかみつく。それも恐ろしい勢いでかみつくことがある」。

かみつかれることのほかに,ペットを媒介として移る病気について警告する医師もいます。「医師にとって挑戦となる,ペットの引き起こす新しい病気」との見出しを掲げた新聞記事には,カメ,ハムスター,ネコ,そしてイヌなどを媒介として移る病気が列挙されていました。風邪のような症状から致命的な感染に至るまでの潜在的な危険性のあるこうした病気の多くは,動物の糞尿によって伝染します。タイム誌は次のように論評しています。

「イヌは,全米で毎日,推定400万㌧の糞と4,000万㍑の尿を街角や公園にまき散らす……ジフテリアから結核に至るまで,百以上の感染が,動物を媒介としてその飼い主に移ることがある。イヌの糞には寄生虫(回虫)が多くいて,それが子供の失明の原因となる場合がある」。

これは,どんな動物にも寄り付かないようにすべきだということですか。そうではありません。だれかに襲われたり,だれかから病気を移されたりする危険があるからという理由で,だれとも交わらないということがないのと同じです。しかしペットに関するこうした事柄は,どんな仕方で,またどの程度,動物を愛好するかを決める際に考慮されるべきです。

愛情を示す際の分別

先に述べたとおり,動物は多くの点で価値あるものとなり得ます。また,ペットが愉快で面白い,その上愛情深い友となり得ることを示す証拠はたくさんあります。ですから,人間が愛情をもってそれに答え応じ,ペットを優しく世話したいと考えるのは当然なことです。

しかし,不完全な人間の中には様々な快楽や関心事の面で極端に走る人もいるという事実を見れば,動物に関しても“極端に走る”という危険に陥らないよう注意せねばなりません。

ペットのために金の腕輪や黒いレースのパンティーやガウンを買いそろえ,ペットの誕生パーティーを開く人がいることをご存じでしたか。そうした人々は,インコのためのおしめ,プードルのための付けまつげ,そして休暇に出掛けるペットのためのサングラスを買い求めます。ニューヨークに住む一婦人は,二匹の飼い犬のために,毎日お抱え運転手に高級乗用車で迎えに来させ,「イヌが新鮮な空気に当たり,幾らかでも緑を見られるようにするため」公園の中をゆっくりとドライブさせます。

人が感情面でペットに夢中になりすぎると,動物が人間の生活を支配するようになります。ある夫婦はオーストラリアに移住するつもりで,すでに家具を発送していました。ところが,飼い犬のドイツ・シェパード犬が検疫にパスせず,その犬の入国が拒否されると,その夫婦は移住を取り止め,家具を送り戻してもらうために500ポンド(約34万円)を支払いました。二人はこう述べています。「新しい生活のために飼い犬を犠牲にするのなら,そんな生活には意味がない。この犬はわたしたちの結婚生活の一部なのだ」。

王蛇を飼っていた前述の男の人の場合のように,ペットを結婚のきずなより重要視する人もいます。一人の婦人は,夫がネコに対してアレルギー体質で,幾度となく窒息しそうになったにもかかわらず,六匹のシャムネコを飼っていました。その夫人は初めての子供を身ごもっていましたが,ネコなしで生きてゆくぐらいなら離婚したほうがよいと考えました。彼女は,「ただ,子供が父親のアレルギー体質を受け継がないように願っている」と伝えられています。

動物に対する愛情が分別によって制御されないなら,ペットが人命よりも大切なものとみなされる場合さえあります。ある犬猫病院で火災が発生したとき,殺気だった,ペットの飼い主たちが病院の前に集まりました。こう伝えられています。「女性は金切り声を上げ,髪をかきむしり,その中の数人は気絶した。また,二人の女性は,愛するペットと一緒に死にたいと叫び,立入り禁止線を突破しようとした」。

そうです,分別が必要です。さもなければ,動物が人の生活の中で,また愛情の対象としてますます重要な位置を占めることになりかねません。先に述べたとおり,そうしたことは起こり得る上,実際に起こるのです。最初は,家でペットを飼うのは楽しいだろうぐらいに考えるかもしれませんが,分別を示さないなら,ペットに金銭や時間を費やし過ぎ注意を奪われてしまいます。また,自分では清潔にしていても,生殖器や肛門部をなめたり,不潔なものを食べたりしたばかりのペットに“口づけ”されるがままになるかもしれません。確かに,極端に走らないよう注意する必要があります。

また,どんな目的でペットを飼うかも検討しなければなりません。それは,愛情や交友を人間から得る代わりに,動物に求めようとする願いの表われですか。ハンス・ボウエルは,「動物はかなり異なっている」と題する本の中でこう述べています。「人間に“失望”したからといって,“動物の世界に逃避”しようとするのは全く分別のないことである」。ボウエルはさらに,人が『自分の仲間のあいだで見いだせなかったものを,動物に見いだそうとしてイヌやネコに愛情を注ぐ』のはいかに悲惨なことであるかを指摘しています。動物の「本性からすれば」,動物はそうしたものを人間に,「与えることは決してない」のです。

適度に動物を楽しむ

事実,聖書は事態がそれとは正反対であってしかるべきことを示しています。創造者は,あらゆる種類の動物を造り終えてから,ご自分の創造物は『非常に良い』との結論を下されました。(創世 1:20-31,新)最初の人間アダムは,この結論に心からの賛意を表わしたに違いありません。しかし,動物はアダムの生活の中でどんな位置を占めていましたか。

今日でさえ,動物を見たり,そのそばに行ったりすることから大きな喜びを得られるのですから,アダムが動物から得た喜び,特に神が名前を付けさせるためアダムのところにすべての動物を連れて来られたときのその喜びを想像してみてください。(創世 2:19,20)後日ヨブは,動物が楽しみをもたらすだけでなく,創造者に関する多くの教訓を与えるものとなり得る,と述べています。(ヨブ 12:7-9)アダムもそう感じたに違いありません。それでも,すべての動物を見渡し,それぞれの動物を楽しんだアダムは,動物の中に自分にふさわしい仲間あるいは助け手を見いだせませんでした。アダムは神の像に造られた知性を持つ人間でしたから,助け手として,同じような資質を備えた被造物を必要としていました。動物がどんなに楽しくて,従順で,教訓となり,面白くて,興味深いものであるとしても,神は決して動物が人間の代役を果たすよう意図されたりはしませんでした。わたしたちは,この点を認識しているでしょうか。そうであれば,動物をより一層楽しめるはずです。それは,動物に対して正しい見方を持つことを意味し,神が意図された位置に動物をとどめることになります。

しかし,動物の生死にかかわる疑問が残ります。例えば,人間には動物を殺す権利があるかどうか,動物の死,また食物として動物を殺すことなどについてどんな見方を持つべきか,というような疑問です。こうした点については,後日,当誌上であらためて検討することにいたしましょう。

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