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  • 遣わされる人々 ― どのような人々ですか
  • 目ざめよ! 1978
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目ざめよ! 1978
目78 8/8 26–27ページ

遣わされる人々 ― どのような人々ですか

「あなたがたは,どのような宣教者になるでしょうか」。K・A・アダムズは,過去五か月にわたって自分が教えてきた24人の学生に,こうした質問を投げかけました。それは,去る三月五日,ニューヨーク州のロング・アイランド市にあるエホバの証人の大会ホールで開かれたギレアデ学校第64期生の卒業式の集いでのことでした。

「あなたがたよりも以前に出かけて行った人々の生き方から教訓を学ぶことができます」と,アダムズは続けました。そして,聖書の中に述べられている二人の宣教者,ヨナと使徒パウロに卒業生たちの注意を引きました。ヨナは,割り当てられたニネベの区域に対して憶病な態度を取り,そこの住民に対して神と同じ見方を持とうとしなかった,とアダムズは述べました。そこでヨナは,別の方向に進路を変えました。アダムズはこう語りました。「しかし神はヨナの歩みを突然さえぎり,数日そのことについて考える時間を与えました。ついにヨナは,魚の腹の中から『わたしは,わたしの誓いをはたす』と述べました」。

「しかし,ヨナにはまだ問題がありました。ヨナはニネベに行き,業を行ないましたが,彼が人々に対する真の気遣いを示していなかったことは明らかです。それで人々が自分たちの間違った道を捨て,エホバが彼らを滅ぼさないよう決定した時,『それはヨナにとって大いに不愉快な事であった』と聖書は述べています」。これは考えるべき事柄です。とりわけ,聖書はヨナが,自分自身の個人的慰安に大きな関心を示したことを指摘しているからです。―ヨナ 1章から4章。

卒業生たちはその教訓の要点,つまり自分たちが自分自身の慰安を過度に気にかけるよりも,他の人々を助けることに真の関心を示すべきであるということを理解しました。卒業式に続く数日の間多くの人々から別れのあいさつが寄せられ,卒業生たちは割り当てられた10の国々,バハマ諸島,ブラジル,チリ,エクアドル,エルサルバドル,フランス領ギアナ,日本,パラグアイ,セネガル,シエラレオネなどに向かって出かけ始めました。35年前にギレアデ学校が始まって以来,今や合計5,633名の卒業生たちが,約160の異なる国々へ遣わされてきました。

今までに卒業した多くの宣教者たちは,過去数週間のうちに出発した人々の見倣うべきりっぱな模範となっています。例えば,ギレアデの第1期生であるレオおよびユニス・ヴァン・ダーレンについて考えてみましょう。1944年3月に彼らはプエルトリコに到着しましたが,そこには,わずか6名がエホバの証人として働いていたにすぎませんでした。ヴァン・ダーレン夫妻は住む場所を見付け,熱帯の暑い太陽の下で,宣べ伝える業に出かけて行きました。1944年にそこにいた6名の王国宣明者が,1951年11月には622名に増加しました。

そして翌年の4月ヴァン・ダーレン夫妻は,両親に会うため米国に向けて出発しました。しかし,飛行機は海に墜落し,優れた泳ぎ手であったユニスは,自分の救命具を他の人に与えました。新聞は彼女の利他的な行ないを賞賛しましたが,この夫婦は溺死してしまったのです。それまでの八年間二人は熱心に宣べ伝える業を行ないましたが,多分に彼らの働きによって,また仲間のギレアデ卒業生たちの働きによって,今やプエルトリコには,1万6,700名の王国宣明者がいます。

それから,ギレアデ第5期生のドナルド・バクスターがいます。1946年6月2日,彼はベネズエラの首都であるカラカスに到着しました。当時この国には,四人のエホバの証人しかいませんでした。町はずれの舗装されていない通りに,水道もない小さな家が見付かりました。ここにベネズエラにおける最初の宣教者の家ができました。バクスターは今でもベネズエラにおり,現在の1万3,800名以上にも上る王国伝道者の増加に貢献してきました。

ドミニカ共和国,エルサルバドル,ニカラグア,ペルーその他の多くの国々で次々にギレアデ卒業生たちは,王国宣明の業を切り開いてきました。エクアドルにおける業の開始に関して,「1948 エホバの証人の年鑑」には,次のように記されています。「全く見知らぬ者として,同情を示してくれる人もなく,自分たちのように真理を信じている人もいない土地に出かけて行き,恐れずに勇気を持って前進するためには,宣教者の側に真の決意が求められます……ギレアデ卒業生たちは,このことを行なってきました」。

64期生の卒業式の際に,エホバの証人の本部の八名の職員が,出席した1,944名すべてに同じ決意と信仰を示すよう促しました。L・ウィーバーは,卒業生たちがギレアデに学ぶという特権を享受した点を指摘しましたが,圧迫の多い状況の下で,そうした特権に対する感謝を失うことがありうるということに注意を引きました。「デマスについて考えてください。彼は使徒パウロの協働者としての特権を楽しみました。しかし後に,パウロはこう述べています。『デマスは今の事物の体制を愛してわたしを見捨てました』」と,ウィーバーは述べました。―テモテ第二 4:10。

L・グリーンリースは,卒業生たちが間もなく共に住むことになる仲間の宣教者であれ,習慣や物事のやり方が非常に異なる土地の人々であれ,人と接する際の知恵の必要性について,優れた諭しを与えました。グリーンリースは,宣教者たちが自分たちのやり方が優れているのだなどと考えないように勧めました。本当に人々の中に出かけて行き,人々の習慣を学ぶことの大切さを例証するために,グリーンリースは,ウォール・ストリート・ジャーナル誌に掲載された平和部隊の一女子隊員の経験を朗読しました。

「当時私は二年近くケニアに住み,国の中央部にある小さな町で教えていました。サムエルという名の学生が,私を家に招待してくれ,私はそこでその家族に会い,彼の母親が準備してくれたおいしい食事をいただきました。当然のこととして,私はその料理をほめました。

「帰途,サムエルは話したいことがあるが話してもよいか,と私に尋ねました。『先生,気を悪くなさらないでいただきたいのですが,食物に何か悪いところがないかぎり,食物についてとやかく言うのは大変失礼にあたるのです』と,彼は言いました。

「それを聞いて私はがっくりしました。二年もたって今だに私はその中で暮らし,『助け』たいと思って来たこれらの人々のやり方について余りにも無知なため,食事の際にどう振舞うべきかなどという簡単なことさえ知らなかったのです」。

そうです,人々に対する真の関心と世話,それが宣教者たちに必要な事柄です。出身国の五つの国々で人々を助けた結果から見て,今回の卒業生たちが,りっぱな宣教者になるということを信じる十分な理由があります。確かに,すでに十年以上を全時間の伝道の業に費やした人々もいます。ですから,卒業生たちは経験のない若者ではありません。平均年齢は29歳以上です。

卒業生への最後の話の中で,教訓者であるU・V・グラスは,次の聖句を引用しました。「事の後の終わりはその始めに勝る」。(伝道 7:8,新)それから,心暖まる講話の結論として,グラスは卒業生たちの忠節という優れた資質に注目し,次のように述べました。「これがあなたがたに対するわたしたちの願いです。あなたがたの宣教者としての奉仕において,その終わりの方が初めより良いものとなりますように」。そうです,64期卒業生のおのおの,そしてそのすべてが自分たちの宣教者の任命地で忠節や他のクリスチャンの資質を,示し続けられますように。

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