ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目78 10/8 20–24ページ
  • 二階建てのバスの上からロンドン見物

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 二階建てのバスの上からロンドン見物
  • 目ざめよ! 1978
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • マーブル・アーチからランベス橋へ
  • ランベス橋からセント・ポール寺院へ
  • セント・ポール寺院からタワー・ブリッジへ
  • ビッグ・ベンからハイド・パークへ
  • タワー・ブリッジ ― ロンドンの玄関口
    目ざめよ! 2006
  • 「父なる川テムズ」― 英国の比類なき遺産
    目ざめよ! 2006
  • ブルックリンの比類のない橋
    目ざめよ! 1984
  • 橋 ― もしなかったらどうするだろうか
    目ざめよ! 1998
もっと見る
目ざめよ! 1978
目78 10/8 20–24ページ

二階建てのバスの上からロンドン見物

英国諸島の「目ざめよ!」通信員

「皆さん,ロンドンを見るなら,馬車の上,馬車の上からです」。これは,イギリスの元首相ウィリアム・エワート・グラッドストンが,19世紀に,アメリカ人観光客に与えた助言です。今では,ひずめの音を響かせて走る乗合馬車をロンドンの周辺で見ることはなくなりました。その代わりに,乗合馬車の“孫”とも言える,ディーゼルエンジンの真っ赤なバスが私たちを待っています。そのバスの二階に乗って,グラッドストンの勧めに従った幾百万もの人々に加わりませんか。さあ,二階建てのバスの上からロンドン見物をすることにしましょう。

観光客が二時間の快適な観光旅行を楽しめるように,ロンドン運輸局は,毎日このバスの便をはかっています。午前10時から,一定の間隔をおいて出ていますから,マーブル・アーチ,ビクトリア駅,あるいはピカデリーなどで,切符を買ってこのバスに乗ることができます。

マーブル・アーチからランベス橋へ

マーブル・アーチから出発するなら,まず最初に,錬鉄製のゲートのある,この三重になった門を見物しなければなりません。イタリアのローマにあるコンスタンチヌスの門をまねて造られたこの門は現在タイバーンの近くにあります。タイバーンは,18世紀末まで公開処刑場となっていたところです。

さあ,出発です。ベイズウォーター通りに沿って曲がってゆく私たちは,企業精神に富むあのアメリカ人ジョージ・トレインが敷設した最初の公共用市街電車の道をたどることになります。エドワード懺悔王が土地と泉をウエストミンスター寺院に譲渡した11世紀以来,ハイドパークの146ヘクタールの緑地は,ロンドン市民に新鮮な空気と水を供給してきました。有名なスピーカーズ・コーナーには公開演説者のための公共広場があります。過去においては観兵式や博覧会がここで行なわれ,サーペンタイン池ではトラファルガー沖の海戦が再演されたりしました。

ケンジントンを通過して,ロイヤル・アルバート・ホールに到着します。長円形に設計され,ローマの円形競技場に似せて造られたこのホールは,ロンドンの有名な公会堂の一つです。ものみの塔協会の第二代会長J・F・ラザフォードが1920年にここで行なった公開講演は今でも話題にのぼります。そのときの演題は,「現存する万民は決して死することなし」というものでした。同じ講演者は六年後にまたこのホールで話をし,国際連盟が神の是認を得なかったという事実に,人々の注意を引きました。歴史は,その聖書に基づいた言葉を,何とはっきりと証明してきたのでしょう。

ロイヤル・アルバート・ホールのちょうど右側にはイグジビジョン・ロードがあり,その道をずっと行ったところに,科学,地質学,博物学,工芸などに関する,評判の高い四つの博物館があります。ロンドンでの一日をそこで過ごすのは有意義です。私たちを乗せたバスは,心楽しい色彩を添えてくれる沿道の住宅の庭やロンドン広場を幾つも通過してナイツ・ブリッジ通りに入ります。

前方には,イギリスの元首の居城バッキンガム宮殿の庭が見えます。ピムリコを通ってさらに進んでゆくと,道はチェルシーのロイヤル・ホスピタル通りと一緒になります。女優ネル・グウィンが,退役軍人のためにその病院を建てることをチャールズ二世に進言したと伝えられています。それはともかく,深紅の上着を着,昔の戦闘でもらった輝く勲章を付けた,その病院の人々は,ロンドンの風景を華やかなものにしています。

ところで,太陽の下できらきらと輝く,前方に見えるあれは何でしょうか。それはもちろん,私たちが初めて見る“テームズ川”です。チェルシー・エンバンクメントが,その世界的に有名な川に添って続いています。ミルバンクまでのこの並木道のドライブは快適です。左手には,ロンドンでも指折りの美術館の一つであるテート美術館があります。

ランベス橋からセント・ポール寺院へ

次に私たちはランベス橋を渡ってテームズ川を越えます。私たちの前には,カンタベリー大主教のロンドン公邸であるランベス宮殿があります。その中のロラード・タワーがあなたの注意を引くかもしれません。このタワーはなぜそういう名で呼ばれているのでしょうか。それは,14世紀の聖書翻訳者ジョン・ウィクリフの信奉者ロラードの名にちなんで付けられたものです。その人々は英語に翻訳された手書きの聖書の一部を携えて地方へ散り,耳を傾ける人々すべてに伝道しました。国教会による激しい反対のために,彼らはよく逮捕され投獄されましたが,彼らはこの塔の中に閉じ込められたと言う人々もいます。

テームズ川の向こう側には,国会議事堂と言うほうがよくわかるウエストミンスター宮殿のゴシック風の荘重な外観が見えます。この建物ができてからちょうど120年たちましたが,その後ろにある寺院は11世紀からのものです。

ウエストミンスター橋と,大ロンドン議会の本庁である市庁を通過し,ロイヤル・フェスティバル・ホールやサウス・バンクの他のコンサートホールの周辺を回って行ってウォータールー・ブリッジを渡ります。テームズ川をもう一度渡ると,アルドウィッチに着きますが,この地名は“古い村<オールド・ビレッジ>”という意味の古英語です。その場所は私たちに,この大都市のつましい始まりを思い起こさせます。

この優雅な三日月状の街路の中程にキングスウェイがあるのにお気づきですか。この沿道にはかつて,今世紀初頭にオスカー・ハマースタインが建てた古いロンドン・オペラ・ハウスがありました。ついでながら,1914年10月に「創造の写真-劇」が上演されたのもこの場所でした。上演に四晩を要した,フィルムとスライドを組み合わせたその作品には,蓄音機に録音された音を映像に同調させた映画が利用されていました。エホバの証人の製作したその「写真-劇」は,創造から,神の王国が地上の事柄を正すに至るまでの聖書の歴史を扱ったものでした。考えてみてください! 営利目的の映画ができるより少なくとも十年前の1914年に,その最初の“発声映画”が成功したのです。

アルドウィッチの次には,大勢の子供たちによく知られている,“オレンジとレモン”という題の童謡の教会を正面に見ます。この地域では,果物を積んだはしけが近くで積荷を降ろすときに,果物輸入業者から使用料が徴収されたと言われています。その料金は,地域の住人の間で分けられました。

王立裁判所が見えてくるにつれ,伝統の世界から厳格な法の現実へと引き戻されます。この裁判所には五㌔以上に及ぶ廊下があって,25の法廷およびそれと関係のある部屋がつながっています。これらの法廷における審理で一日に発せられる語は約3万5,000語と言われています。次に私たちの注意を引くのはフリート街です。もし言葉の地区などというものがあるとしたら,ここはまさにそれです。200年間フリート川が流れていた場所を,現在では,印刷業者のインクが言葉の流れとなって流れているかのようです。この地区には,ロンドンの新聞を作る編集室や印刷工場があるのです。ガウチ・スクエアの中に隠れてはいますが,英語の辞書編集者として有名なサムエル・ジョンソン博士の住んでいた家がまだそのまま残っています。

今度は,市内にある数少ない丘の一つ,ルドゲート・ヒルに登ります。幾世紀か前なら,“ルドゲート”と呼ばれるアーチ型の門があって,これ以上進むことはできなかったでしょう。ルドゲートは昔は市内に入るための七つの主要な入口の一つだったのです。丘を登ってゆくと,クリストファー・レン卿の最高の傑作と言われる建築物セント・ポール寺院が見えます。昔この場所にあった建物についての歴史はなぞに包まれていて確かではありませんが,荒廃して見るかげもなくなっていた以前の寺院は,1666年に起きたロンドンの大火の際に焼けてしまいました。大火の起こる二,三日前に,レンは,修復することを考えて建物を調べていました。皮肉なことに,新ロンドンのための,111㍍に及ぶレンの高い建築物の資金の大半をまかなったのは,テームズ川を運ばれる石炭に課された税金でした。

セント・ポール寺院からタワー・ブリッジへ

ニュー・チェンジを上って行くと,セント・ポール寺院のドームの向こうに,オールド・ベイリーという名で知られている中央刑事裁判所の小さい方のドームが見えてきます。その屋根には,ジャスティスつまり公正の文字が金で描き出されています。ここは,城壁に囲まれたロンドンのもう一つの有名な門,ニューゲートのあったところです。旧ロンドンへの三番目の通路のあった場所アルドゲートへ入ると,もし徒歩で行くなら,古代のロンディニウムを取り囲んでいた,見事に発掘されたローマ人の城壁の跡を見ることができる,と言われます。

また別の入口のあった場所ムーアゲートに沿って行くと,銀行,保険会社,投資会社などが立ち並ぶ金融界の中心地に着きます。左手には,ウィリアム・パターソンが1694年に建てたイングランド銀行があります。この銀行は二度建て直され,1734年以来ここで営業しています。銀行の前を通り過ぎると,王立取引所の八本のコリント式円柱が目に入ります。これはトーマス・グレシャムが1567年に建てたもので,ロンドンの商人たちが商取引を行なうところです。ロンドン株式取引所はちょうど一区画裏手にあります。

右手の,正面が柱廊のマンション・ハウスは,1753年以来ロンドンのロード・メーヤーの公邸となっており,現在ではここで行なわれる風格ある宴会のほうで有名です。次の目標は大火の記念碑です。炎を彫刻した,輝く金色のつぼを頂に乗せた高さ62㍍のその記念碑は,300年前の壊滅的な炎を思い起こさせます。その時には,家屋1万3,200戸,教会89,街路400が焼けました。しかし,その大惨害で死んだ人は三人だけだったと言われています。

私たちの前方には,子守歌に出てくる橋の実際の子孫であるロンドン橋があります。伝えられるところによると,西暦43年にもここに橋がありました。しかし,「ロンドン橋はこわれた」と歌われている橋は,五度目にかけられた橋です。1281年の冬は寒さ厳しく,そのために大きな氷塊がテームズ川を流れ下り,その結果五つのアーチが壊れてしまいました。1738年まではこの橋がロンドンの唯一の橋でしたが,その後国会は,ウエストミンスターに二つ目の橋を造ることを許可しました。

トゥーリー街を上って倉庫の密集した地域を通り抜け,タワー・ブリッジの前に出ると実に壮大な光景が眼前に開けます。1894年に開通した全長0.8㌔のこの建造物には,可動性のはね橋が二葉あり,重さはそれぞれ1,000㌧あります。はね橋は船を通すために1分半だけ上がります。橋を渡ると,左手に,英国最古の,また非常に有名な要さいの一つ,ロンドン塔が見えます。900年にわたる波乱の歴史の間,四つの小塔を特色とするホワイト・タワーは,時代によって,宮殿,牢獄,英国造幣局,また動物園にさえなりました。ロンドン塔はなんと多くの事柄を見てきたのでしょう! しかし現在では,国王の王権を表わす儀式用の物品を保管しているだけで,それらは一般に公開されています。

イーストチープに入ると,アングロサクソン人のシープ(物々交換,あるいは買物の意)を思い出します。ここには,昔,肉や食料の市場があったからです。さらに進んで行くと,キャノン街に出ます。といっても,中世の武器と関係があるわけではありません。1311年の記録文書には“カンデルウイックストレイト”という名が出てきます。それは,ろうそくとろうそくのしんがここで造られていたからです。ロンドン子は名前を省略する習慣があったので,それはやがて“キャノン街”と短くなってしまいました。

クイーン・ビクトリア通りを進んで行くと,またテームズ川に戻ります。右手には,かつて神殿修道騎士団員に属していたテンプル庭園があります。神殿修道騎士団員とは,12世紀の宗教的軍事修道会のことで,その本来の関心は,道路を守り,エルサレムの“聖地”へ旅する巡礼者を保護することでした。しかし1312年に解散させられ,その財産は弁護士の一団のものとなりました。この土地に,インナーテンプル,リンカーンズインなどの法曹学院が建てられました。法廷弁護士や弁護士は今でもここに自分の“部屋”を持っています。

エンバンクメントに沿って停泊している多くの船は人々の注意を引きます。非常に印象的なのは,列の最後の船で,今は水上博物館となっている三本マストの捕鯨船です。これは,ロバート・ファルコン・スコット船長が1901年の南極探険旅行の際に指揮した有名な“ディスカバリー”という船です。

ウォータールー・ブリッジの下をくぐる時には,クレオパトラの方尖塔として知られる,花崗岩の細長いオベリスクをよく見てください。金属の殻に入った木の実のように,100年以上前にエジプトから浮いてきました。西暦前1450年にはこの柱は,ヘリオポリスの太陽の神殿の外に立っていましたが,クレオパトラとはなんの関係もありませんでした。

あの音は何でしょうか。時を知らせるボーンという余韻のある音が響き渡ったので,あなたは思わず周囲を見回したのではないでしょうか。96㍍上を見上げてください。そうです。あれがビッグ・ベンです。この大時計の名は,それが造られたころの建設局長ベンジャミン・ホールにちなんで付けられました。

ビッグ・ベンからハイド・パークへ

国会広場を一周してパリアメント・ストリートへ入ると,二つの世界大戦の悲劇を記念する荘厳な戦没者記念碑(セノタフ)の前に出ます。ギリシャ語のその名が暗示しているように,ここにはだれも埋葬されてはいません。ケノスとは“からの”という意味で,タフォスとは“墓”という意味だからです。急いで左を見ると,ダウニング街10番地が見えますが,そこは1735年のロバート・ウォルポールの時以来ロンドンの首相官邸となっています。

次にホース・ガードが見えてきます。元首の護衛を任務とする大勢の騎馬衛兵が,すばらしい黒馬に乗って部署についているのが見られます。毎朝11時には,正確な動作で行なわれる華やかな儀式,衛兵の交替があります。

ホワイトホール通りをさらに上ってゆくと,今度は陸軍から海軍に変わって,トラファルガーの戦いの海軍戦勝者ネルソン提督の高さ56㍍にも及ぶ記念碑がぼんやりと見えてきます。その後ろには,ロンドンのもう一つのすばらしい美術館である堂々とした国立美術館が見えます。

トラファルガー広場から,ロンドンのウエスト・エンドの中心地であるピカデリー・サーカスへと遠回りをします。ここには,よく写真に撮られるエロスの像があります。この高さ3㍍のアルミニウムの像は性愛の神を象徴しているのではなく,‘矢のような速さで助けに飛んでゆく慈善行為’つまり,貧しい人々を助けたシャフツベリの仕事を記念するための象徴です。

ヘイマーケットへ戻り,私たちはペルメル街にもう一度行きます。この通りの名は何と変わっているのでしょう。300年ほど前には,ペルメルというフランスの球技がここで行なわれているのを見ることができましたが,この名はそれに由来しています。次に私たちの注意を引く赤レンガの時計台は,ヘンリー八世の命令で建てられた聖ジェームズ宮の最初の建物の唯一の残存物です。

グリーン・パークに沿って進む私たちは,もうピカデリーの中にいるのです。1858年版のウエブスター辞典によると,ピカデリーとは,「高いえり,あるいは一種のひだえり」のことでした。それが,現代のロンドンとどんな関係があるのでしょうか。17世紀の参考文献によると,そのようなえりを売っていた,退職した洋服屋がここのピカディラ・ホールとして知られる家に住んでいたということです。

ところで,向こうの方をご覧ください。そうです。またハイド・パークに戻ってきたのです。二階建てバスでのロンドン見物はこれで終わりです。私たちは二階の一番前の列の席に座って,過ぎ去った19世紀間の歴史の舞台を回顧しました。グラッドストンの言ったことは真実でした。ロンドン見物をするのなら,二階建てのバスの上からが一番です。

[21ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

マーブル・アーチ

ハイド・パーク

ロイヤル・アルバート・ホール

チェルシー国立病院

ピカデリー

ピカデリー・サーカス

裁判所

セント・ポール寺院

トラファルガー・スクエア

“ディスカバリー”

ウォータールー・ブリッジ

ロイヤル・フェスティバル・ホール

ホース・ガーズ

バッキンガム宮殿

ウエストミンスター橋

ロンドン橋

イングランド銀行

記念碑

ロンドン塔

ウエストミンスター寺院

国会議事堂

タワー・ブリッジ

ランベス宮殿

テート美術館

ランベス橋

テームズ川

[21ページの図版]

ロイヤル・アルバート・ホール

[22ページの図版]

セント・ポール寺院

[23ページの図版]

タワー・ブリッジ

ロンドン塔

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする