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目ざめよ! 1978
目78 11/8 3–5ページ

生きてゆくための価値基準

あなたの価値基準は何ですか

多くの価値基準は再評価が必要です

価値は必要と関連があります。必要を満たしてくれないものが高く評価されることはまずありません。必要が大きければ大きいだけ,それを満たすものの価値も高くなります。わたしたちの必要は数多く,様々です。それらは時と場合によって異なり,人によっても異なります。生まれた時から必要なものもあり,後天的に必要になったものもあります。中には必要不可欠とは言えないもの,有害でさえあるものもあります。またわたしたちが気づいていない必要も幾つかあるでしょうし,気づいていても,手遅れになるまでその価値を考えないということもあります。以上のような理由で,人々が自分の生活を律してゆく一群の価値は各々異なっているのです。あなたは自分にとって価値のあるものについて,最近,考えてご覧になったことがありますか。より重要な必要を満たすことに,より高い価値を付しておられますか。

わたしたちすべてに共通する,基本的な必要物があります。それは空気,水,食物,適温,睡眠などで,これらはわたしたちが生きてゆくためにどうしても必要なものです。

人間は群居性を有し,ある種の動物のような単独性の生き物ではありません。人間には他の人々との交友が必要です。そしてそれを楽しむには,自分は受け入れられているという感じがなければなりません。このことを人は非常に高く評価するため,自分の個人的な好みを幾らか差し控えてもグループに自分を合わせようとします。たとえその交わりが身をすり減らすようなものになることがあろうとも,独りになるよりはましだと人は考えます。この欲求は極めて強く,所属意識を得るために自分の主義主張や価値感をさえ脇へ押しやってしまう人もいます。人は社会で尊ばれるものを追求する,といわれていますが,この格言の基礎をなすのは,認められたいというこの欲求です。他の人々から尊敬されることを,自分個人の忠誠よりも高く評価する人も少なくありません。こういう傾向があるからこそ,「悪い交わりは有益な習慣をそこなうのです」という警告が説得力を持つのです。―コリント第一 15:33。

自尊心を尊重する

人気を得るために,自分個人の忠誠や価値基準を捨ててしまうなら,そのために害を被るのは自分です。わたしたちは自尊心,すなわち自分が価値ある存在であるという感覚,また自分に対する愛を失うことになります。心理的害は甚大で,その反動は広範に及びます。ヘブライ語聖書の中でもギリシャ語聖書の中でも,わたしたちは,自分自身を愛するように他の人々を愛しなさい,と教えられています。この自己愛は,自分を甘やかす,利己的で,自己本位のものではなく,むしろ,自らを敬うことを可能にする,生活の指針となる価値基準を持つことと関係があります。他の人を愛するためには,自分を愛していなければなりません。その愛がないと,不安を感じ,他の人をねたみ,批判し,他の人々のうわさ話をする気持ちが起こります。他の人の欠点を見いだすことは,人に優越感を味わわせます。しかし聖書は,何事も「自己本位の気持ちからするのではなく,むしろ,他の者が自分より上であると考えてへりくだった思いを持ち」なさいと勧めています。(フィリピ 2:3,5。ヨハネ 13:5)ですから,他の人をけなすことによって,自分の名を高めようとしてはなりません。そうすることは,自尊心を傷付け,その人の価値を下げる結果になります。

わたしたちは,有益な業を高く評価すべきです。わたしたちの創造者であられるエホバ神は働く方であられ,わたしたちはその像と様に似せて造られています。神は,ご自分の業の完成を見て喜ばれ,それを良いものと宣言されます。(創世 1:10,12,18,21,25,31)人間は働く必要があります。物事を成し遂げたという実感を味わう必要があります。立派に成し遂げられた業は,その働き手の能力を物語り,働き手に自分の価値を感じさせます。怠惰はわたしたちに自分の無益さ,価値のなさを感じさせ,一方,立派な業はわたしたちの生活に目的と意味を与えます。『人生には何の意味もない。人生の目的は一体何なのだろう』という言葉をよく耳にします。そのように言う人々は,虚無感に圧倒されています。

彼らは勤勉に働いて富を蓄積するかもしれませんが,それからは満足感を得ません。(伝道 5:10)そういう人々は,価値基準を物質や「肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと」に置きます。(ヨハネ第一 2:16)そして物質を求めることに熱中する余り,霊的な必要を顧みることがありません。時間と精力は限られています。それを自分が最も価値ありとする事柄へ全部つぎ込みます。それは,富や地位や名声かもしれません。しかし,ひとたびそれを手に入れてしまうと,それはもはや大して重要なものとは思えなくなります。

すべてに勝る最大の価値

「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」とイエスは言われました。(マタイ 5:3)精力が衰え,老い先も短くなる晩年になるまでこの必要を自覚しない人は少なくありません。わたしたちは自分が生きている間に身体的,精神的,感情的な必要を満たすことの価値を認めますが,同時に,そうしたからといって,それによってわたしたちの寿命が70歳あるいは80歳よりもずっと長くなるわけではないことを悟らねばなりません。一方,自分の霊的な必要を正しく評価することは,永遠に生き長らえることを意味することになります。人は,物質の富について,「それを携えて行くことはできない」と言います。しかし,あなたが携えてゆくことのできる,ずっと大きな価値のあるものがあります。それは,神のみ前における良い名です。伝道の書 7章1節は次のように述べています。「良い評判は高価な香水よりも良く,あなたの死ぬ日はあなたの生まれた日よりも良い」― 現代英語訳。

どうしてそう言えますか。どうして死ぬ日が人生を始める日よりも良いのでしょうか。これは,死ぬ日に神のみ前で良い名を持っていてはじめて真実です。良い名は,復活のときに神が覚えていてくださる名です。神が覚えていてくださるということは,その名を正しく評価すれば,永遠に続く可能性を秘めた命を授かることを意味します。わたしたちには,視覚,聴覚,全身の健康,そして命そのものなど,自分の有する数々の祝福を当たり前のもののように考える傾向があります。こうした祝福が失われだしてはじめて,その価値をにわかに悟らされるのです。人が死にひんしているときに,他の人が『でも,彼は長生きして,良い人生を送った』と言って,それがあたかも死を受け入れやすくするかのように語るかもしれません。しかし,死にひんしている本人にとって,そんな言葉は何の役にも立ちません。過去の事など考慮の対象にはなりません。問題となるもの,真に必要なものは現在と将来のことです。ですから,すべてに勝る最大の価値を有するものは,今,神のみ前で良い名を築き,その必要を満たすことです。

あなたはこの点を自覚しておられますか。あなたはご自分の生活を律している価値基準を再評価する必要がありますか。次の記事は,それを実行したひとりの人がどんなに幸福を味わったかを示しています。

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