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目ざめよ! 1978
目78 11/22 21–24ページ

古代ペルーの文化を伝える陶器

ペルーの「目ざめよ!」通信員

ペルーの西海岸は,遠い昔に一民族が居住地に選び,その土地の環境をすっかり変えてしまったところです。はるか以前に消滅してしまった彼らの文明は,古代のシュメールやエジプトの文明に匹敵するものです。考古学者はその文明にモチーカ・チムーという名を付けました。モチーカ・チムー文明発祥の地とはとても思えないようなその土地は,幅16㌔から80㌔ほどの細長い土地で,そびえ立つアンデス山脈と真っ青な南太平洋とにはさまれています。この地域は,およそ3,200㌔に及ぶ,乾燥した,人の住めないような砂ばくです。時折,豊富な緑の植物が,岩と砂から成る広大な不毛地帯を幾筋も横切っているのが見られます。雪をいただいた山々から流れ出る小川が,それらのオアシスの生命源となっています。

緑の渓谷をよく見ると,古代の住民が,山ろくの丘の高いところを流れる川から険しい渓谷の両斜面に沿って配水できるように,見事に設計された長いかんがい用水路を造ったことが分かります。そのお陰で,人々は耕作できそうな土地をすべて利用することができました。渓谷の両斜面の勾配が耕作には急すぎる場所では,古代の住民たちは段々畑を作りました。この段々畑は数千年後の今でも使用されています。またこの地域では,村や町や要さい,また段状になったジッグラト,つまり神殿など,くずれかかったアドービれんがの建造物の山が幾百となく見られます。

ペルーの西海岸に住んでいたのはどんな人々だったのでしょうか。それらの人々の文化は,他の多くの文化と同じようになぜ消滅してしまったのでしょうか。これらの質問に答えるのは容易なことではありません。歳月の経過とともに,それら住民の泥でできた建物の残がいも消滅してしまいました。二,三の孤立した語を除いて,彼らの言語は忘れ去られてしまいました。一連の征服により,その習慣や社会秩序は全く変えられてしまいました。まず,インカ族が他のインディアン部族を支配しており,その後,西暦16世紀にスペイン人がその地域を支配しました。その上,インディアンは文書になった記録を何も残していません。スペイン人による征服の時期に作られた簡単な記録を別にすれば,主な記録は,歴史の絵本に例えられる,変わった源から出ています。その源とは,モチーカ・チムー文明が残した,彫刻を施した陶器です。

多くの陶器が供給された理由

古代エジプト人と同じように,モチーカ・チムー族文明の下にあった人々は,死者の霊が不滅で,死ぬ時に他の生命に移ると信じていました。来世における故人の幸福と成功を保証するために,死者は,衣服や装飾品や武器などの貴重品と一緒に埋葬されました。スペイン人の年代記作者シエザ・デ・レオンによれば,族長やその他の地位の高い人々が埋葬される際には,彼らの気に入りの妻や家来が,フアコスと呼ばれる,入念に造られたアドービ粘土の墓に一緒に生き埋めにされました。いずれにしても,人々は多量の飲食物と共に埋葬されました。埋葬のたびに,飲食物を貯蔵する鉢やかめが必要とされたため,陶器が大量に生産されました。

砂ばくの乾燥した気候の下で,泥の墓は非常に耐久性がありました。発掘の結果,ミイラや,彫刻を施した陶器の多くの断片が出てきました。この陶器は,モチーカ・チムー文明の書き言葉に最も近いものでした。それで,それらの陶器がなければ失われていたはずの歴史をもう一度描き出すことができるのです。

西暦前300年ごろに,モチーカ・チムー族は陶器造りを徐々に芸術の域にまで発達させました。それらの人々は,機能性と美しさを兼ね備えた,精巧にまた見事に形造られた器を造るために,ろくろの助けを借りずに,テラコッタと呼ばれる良質の陶土を用いました。最も顕著なものは,恐らく,あぶみ型の取っ手の付いた容器でしょう。この陶器からは一対の粘土の管が延びており,真ん中で合わさって一つの注ぎ口となります。こうして持ち運ぶための取っ手と注ぎ口とが兼ね備わっているのです。陶器自体は,彩色を施した図案や薄肉彫りの模様で飾られています。こうした陶磁器は,陶器職人の芸術的表現となりました。インディアンたちは,熟練した職人の技術を生かして,自分自身や周囲の物に似せて粘土の容器を造りました。彼らは創造物の鋭い観察者であり,沿岸地方の多くの生物だけでなく,自分たちの作った果物や野菜にそっくりの容器を造ることができました。しかし,それらの人々の造る容器のすべてが,周囲の物をそのまま表現したものであったわけではありません。彼らはまた,神話の神々や悪魔なども造りました。

人々の像

頭部に彫刻を施した彫像の陶器は,モチーカ・チムー文明と関連のある彫刻の最高の傑作です。女性であったと思われる陶器職人たちは,ある特定の人物を念頭に置いて実物そっくりの彫像を造ったに違いありません。現代の博物館の棚に並んでいる容器には,現在生きている,ペルー人の子孫とよく似た顔立ちをした,沿岸地方の古代ペルー人が描かれています。丸顔で,鼻輪を付けるために穴を開けた高くて曲がった鼻,くちびるの厚い大きな口,少し切れ長の目などはそれらの人々の特徴となっていました。そうした顔の特徴は,彼らがアジア系の人々であることを示しています。また,男性は皆,耳に穴を開けており,木製の耳輪を使っていましたが,それは,くちびるに付ける木製の輪を使うアフリカのある部族の習慣に似ています。特別な祝祭の時には,木製の輪は銅や金でできたものと取り換えられました。大半の男性は,装飾的な模様を顔に描いていました。そして大抵背が低くがっしりとしていました。

驚いたことに,それらの容器は,現代にも見られるような光景を示しています。酔って前後不覚になった仲間を支えている,二人のしらふの人を描いているものもあります。笑い顔の付いた容器は,人々が物事をよく観察していたことを明らかにしています。目の端に開けられた二つのごく小さな穴から水滴が出るようになっていたのです。これは,笑いすぎると涙が出るということを古代の陶器職人が理解していた証拠です。別の容器は,大きなたらいの前にひざまずいて,髪を洗っている女の人を描いています。

出産の様子を描いた容器では,母親はすわっています(大半の古代文化における,子供を産む母親の伝統的な姿勢)。母親の後ろからは,産婆が両側から手を回して,出産を助けるために母親の腹部を押えています。別の女性が赤ん坊を受け取るために前にひざをついており,出産の瞬間に赤ん坊の頭が見えているところが描かれています。こうして,職人は,幾千年もの間繰り返し演じられてきた場面を捕らえて,一つの小さな粘土の鉢の上に描き出したのです。

病気や疾患の様子を描いた容器もあります。現代の医師は,それらの容器を調べた結果,目や首や脳のしゅように苦しんでいた人々を描いた彫刻を見分けることができました。他の鉢は,梅毒,悪性のかいよう,ベルーガ・ペルアーナ(アンデス地方の恐ろしい病気)などの容態を表わしています。すわってリードパイプをひいている盲人を描いた容器もあれば,せむしの人も含めて,不具者を描いた容器もあります。

それらの容器は,オクエトルプクと呼ばれた呪医に関する事柄をも物語っています。ある容器には,呪医が自分の前に横たえられた病人の上に両手を置いているところが描かれています。呪医が,病人の口に息を吹きこんでいるところや,病気を吸い出すかのように病人の体にくちびるを当てているところを描いたものもあります。

スペイン人の年代記作者によれば,薬草が広範に用いられ,それには正真正銘の治ゆ力がありました。(現代の薬の多くはペルーの薬草に由来しています。)また,スペイン人は,スペインの王がそれを知って,インディアンの使っていた多くの異なった薬草についての本を編集するために特使を送ったことを述べています。呪医は病人の治療に関して特別な関心を持っていました。なぜなら,呪医の過失によって病人が死んだ場合には,その見せかけの治療師は病人の死体の上にくくり付けられ,腐肉を食べる鳥に目や内臓をつつき出されて殺されるような場所に置きざりにされたからです。

それらの容器の示すところによれば,モチーカ・チムー族は,沿岸地方の気候に適した実用的な衣服を着ていました。熟練した織工であった女の人たちは,色彩に富んだ,目の細かな綿や明るい色合いの幾可学模様のある,ラマ毛の衣類を作りました。基本的な衣類は,両足を通して引き上げ腰のまわりで結んだ腰布でした。男性は,この上に,上半身にはそでなしのシャツのようなものを,また下半身を覆うために短いスカートのようなものを用いました。このスカートのようなものは,大抵ガラガラ音のなる器具で飾られている大きなベルトできちんと固定されていました。男性はまた,輪状の大きなえりの付いた,ゆったりとしたケープを用いました。頭には,小さな帽子をかぶっていますが,その帽子は,細長い布で巻かれたターバンを形造る土台となっていました。その頭覆いは,頭のてっぺんから斜めにかけてあごの下で締める幅の広い布でしっかり固定されていました。スペイン人の年代記作者が述べているように,この華やかな衣服をまとったインディアンはジプシーのように見えました。この衣服は,日中は,焼けつくような熱帯の太陽から人々を保護し,夜間は,ペルー沿岸地方の沖合いの寒流から内陸に吹き寄せる冷たく湿った風と戦うのに必要な保温の役を果たしてくれました。

農業と漁業

土地の主要な生産物に似せて造られた一連の容器全体は,モチーカ・チムー族の人々が,ヨーロッパに住んでいた同種の人々より多くの種類の野菜や果物を栽培していたことを示しています。それらの人々の造った陶磁器を見ると,現在世界中で栽培されている作物,例えば今でも30種類ほど栽培されているジャガイモやパラー,つまりライマメなどの原産地がペルーであることに気付きます。ほかにも,サツマイモ,ユカ(キャッサバ),トウモロコシ,カボチャ,トウガラシ,ピーナツ,多くの種類の豆やポップコーンなどの作物があります。陶器職人はポップコーンを作る特別な鉢を考え出しました。

インディアンは,アンと呼ぶ家の周りに,七面鳥やカモ,またほえない種類のイヌを飼っていました。彼らは住居の暗い隅にクエス(テンジクネズミ)を飼っおり,それを食糧にしましたが,これは今でも多くのペルー人がしていることです。

それらのインディアンは,もう一つの豊富な食糧源である魚も利用しました。容器は,モチーカ・チムー族の漁師がトトラアシの小舟から網や釣針を使って忙しく漁をした様子を示しています。彼らは魚,タコ,イセエビ,また様々の貝などを捕りました。そのすべては,陶器にそのまま表わされています。

戦争と宗教

モチーカ・チムー文明は,その土地の多くの王国に分割されていたと思われます。それらの王国の間では争いが絶えませんでした。そして,そうした戦争の際の捕虜は神々に犠牲としてささげられました。

それらのインディアンは堕落した崇拝を行なっていましたが,それは多くの不自然な性交をあからさまに描写した陶器からも明らかです。陶器はまた,人間の特徴を動物や植物の特徴と共に合わせ持った多くの神々や悪魔をも描いています。

確かに,ペルー沿岸で発見された陶器は,モチーカ・チムー族の間に実際に見られた生活様式を描き出しています。言葉で表現されているわけではありませんが,偽りの宗教に染まってはいても多くの面でかなり進んだ古代文明が存在していたことを,証拠は疑問の余地なく示しています。

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