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目ざめよ! 1978
目78 11/22 13–15ページ

私たちはコルウェジの大虐殺をどのように生き残ったか

エホバの証人の二人の宣教者は厳しい試練を切り抜けるが,悲惨な損失を被る

あの5月12日の金曜日の晩,私たちが宣教者の家の寝室に入ったときに,事態は普段と変わらないように思えました。私たちは,ザイールのシャバ州の南部にあるコルウェジという鉱業都市に住んでいました。そこは,主に周辺の巨大な銅山で働く4,000人の外国人を含め人口12万人ほどの住みやすい町でした。銅はザイールの人々の主要な生計手段となっています。私たちは数時間,数日後に世界中の重大ニュースとなるような事柄が起ころうなどとはつゆ知りませんでした。とりわけある出来事は私たちのその後の生涯に影響を及ぼすものとなりました。

翌朝,つまり5月13日の明け方,私たちは朝の静けさを打ち破る「ダッ・ダッ・ダッ」という激しい音で目を覚ましました。最初は何の音だろうと思いました。それから,それが機関銃とライフル銃の発射音であることが分かると,どうきが激しくなりました。何が起きていたのでしょうか。軍隊の反乱でしょうか。反体制側からの襲撃でしょうか。まもなくして戦闘の騒音が聞こえてくると,私たちの家の上を弾丸がうなりを立てて飛んで行きました。そのうちの数発は庭の高い木にバリッ・バリッと音をたてて命中しました。

水道と電気が止まることを考えて,私たちは急いで浴そうに水を入れ,パンを焼きました。通りのほうで大きな声が聞こえたので,門に通じる車庫のとびらのすきまから外をのぞいてみたところ,重そうな背のうを付けた一団の兵士が通り過ぎて行きました。彼らはスワヒリ語を話していました。昨年シャバ州(以前のカタンガ)を襲った,あの同じカタンガ人の反徒でしょうか。彼らは普通スワヒリ語を話し,政府軍の兵士はリンガラ語を話します。カタンガ人は彼らが自分たちの領地だと考えている地域を支配しようとしているのです。もしそれができなければ,少なくとも中央政府の交代を強行しようとしているのです。

土曜日と日曜日はずっと戦闘の音が続き,あるときは遠くで,あるときは私たちの家の裏の方の家々で,機関銃とライフル銃の発射音が周期的に,聞こえてきました。心配していた通り,水道は止まりましたが,電気のほうは時折切れることはあっても何とか使えました。私たちは何が起きたのかを知るためにラジオのそばから離れませんでした。流れ弾に対する用心のため,大きな寝室の窓をマットレスやまくらで覆いました。

寝室が破壊される

月曜日の午後早くに,両側からの砲撃が再び始まりました。私たちは部分的にバリケードを築いた寝室の中に閉じこもっていました。二時ころ,割れるような爆発音が家を揺り動かしました。突然,耳をつんざくような二度目の爆発音が寝室を揺さぶり,雷が落ちたような三度目の爆発がそれに続きました。私たちは無言のまま数秒間じっとしていました。ショックの余り何が起きたのか分からないほどでした。私は妻に,中央の廊下に避難するよう叫びました。寝室の中はほこりと煙のために,どれほど破壊されたか分からない状態でした。血が出ていたので,私たちは浴室へ行って傷を調べました。妻は肩から,私は腕から出血しており,それ以外にも二人はそこら中に小さな傷を負っていました。

臼砲弾かロケット弾が,座って仕事をしていた部屋の真上の屋根をぶち抜いて爆発したのです。りゅう散弾の破片は部屋中に飛び散っていました。その小さな破片の幾つかが私たちに当たったのです。私たちは傷口をアルコールできれいにし,清潔なかみそりと針でなんとか破片を取り出しました。それから傷口に包帯を巻きました。

寝室に戻ってみると,そこはほとんど完全に破壊されていました。私の机の上の天井と屋根には大きな穴が空いており,部屋の中は臼砲弾やブリキの屋根のかけらや破片が散乱していました。壁や足下の敷き物,ベッドの上の毛布や身の回り品,そして家具や皮製のかばんにまで小さな穴が開いていました。しかし驚いたことに,私たちはりゅう散弾による傷を皮膚にそれぞれ三か所ほど負っただけで済みました。

幸いにもその後まもなくして砲撃はやみ,私たちは書籍の紙箱<カートン>を保管しておいた三番目の寝室に隠れ場を作ることができました。窓を覆うためにそれらの紙箱を積み上げ,足りないところは予備のマットレスで覆いました。破壊された寝室からベッドを引っ張ってきて,一番弾の当たりそうにないすみに置き,ベッドの四すみに書籍入りの紙箱を積み重ねその上に合板を載せて覆いにしました。

連続的な爆発

その後二日間は,私たちの家の庭やそのすぐ近くで臼砲弾やロケット弾が次々に耳をつんざくような音を立てて爆発を続けたため,急いで作った爆弾よけの下にうずくまって午後を過ごしました。警告となるようなものは何もなく,突然爆発が起こり,破壊物の破片の落ちる音が聞こえるだけでした。機関銃や小火器による射撃は絶えず続けられていました。部屋のすぐ外で臼砲弾が爆発したときには,書籍の箱やマットレスで作ったバリケードの後ろの窓ガラスが壊れるのが聞こえました。家の壁ががんじょうなれんがで造られていたのは幸いなことでした。

台所のすぐ外側でも臼砲弾が爆発し,窓ガラスは粉々になりました。裏庭でさらに二発爆発し,主な書籍置き場となっていた部屋の窓ガラスが壊され,家の裏手にあった小さな建物のセメントの壁には小さな穴がたくさん開きました。浴室に行ってみると,水をためた浴そうの中は壊れたガラスやしっくいのかけらで一杯でした。家の前でもう一発ロケット弾が爆発し,外側の壁はりゅう散弾の穴だらけになり,窓わくに残っていたわずかなガラスがどの窓からも家の中へ吹き飛ばされました。庭では飛んできた流れ弾が時々木に食い込み,小枝が雨のように落ちてきました。

戦闘の合間に,近所の人が道路の反対側からやって来て,薬について知っていることを教えて欲しいと言いました。臼砲弾かロケット弾が彼の家の台所の近くで爆発し,妻が後頭部に重傷を負っていたのです。彼女がショック状態にあることは明らかでしたが,病院のある方角から銃砲の発砲される音が聞こえたため,彼女を病院へ運ぶことは不可能でした。傷口から病気が感染しないようにペニシリンを与えることしかできませんでした。

臼砲弾やロケット弾の爆発は近所でまだ続いていましたが,水曜日の午後になると私たちの家の近くのザイール軍からの応射は聞こえなくなりました。

木曜日になると家の近くでは時折機関銃やライフル銃の音,それに遠くのほうで臼砲弾の爆発する音が聞こえたことを除くと,以前よりずっと静かになっていました。通りで車の音が聞こえたので,私はだれか親しい人が通っていないかと思い,用心しながら町角をこっそり見回しました。驚いたことに,カタンガ人の兵士が四人門のところに立っていました。彼らは私の頭に銃を向けて命令し,門を開けるようにと指図しました。

私たちの家の高いれんがべいの後ろに銃を置く場所を作ろうとしているのか,それとも物を盗んだり私たちを苦しめたりしようとしているのか,よく分かりませんでした。私は考える時間を得るために,門に付いている二本の鎖と南きん錠を指差し,門を開けるにはかぎを取って来なければならないと言いました。家の中に入ると,急いでとびらにバリケードを築きました。彼らは門を打ち破ろうとしたり,へいを乗り越えたりするでしょうか。このとき私たちはどれほどエホバに祈ったか知れません。彼らは空中に発砲しましたが,しばらくすると再び通りに沿って歩いて行きました。

私たちは軍規を守らない個々の兵士に対する恐れから,その後も家の中にとどまり,バリケードもそのまま残しておきました。白人の国外移住者が不意に殺害されたことをすでにラジオで聞いていたからです。反徒たちはあるときは殺害するために家々に押し入りましたが,物を盗むだけで人には何ら危害を加えない場合もありました。彼らにはあからさまに抵抗しないことが重要でした。

金曜日に,私は道路の向こう側にいるけがをした女性の様子を見に行きたいと思いました。家の外に踏み出すやいなや,そ撃兵の撃った弾が私の頭の上を音を立ててかすめました。私たちは家の中に閉じこもり,祈ったり聖書を読んだりしていました。

土曜日に,ベルギーとフランスの軍隊が国外移住者すべてを避難させるために町へ来たため,私たちは思い掛けなく救助されることになりました。ザイールの落下さん部隊が,その前に空港を奪い返していたのです。持ち運びのできるものをわずか数分のうちに幾つか手に握み,急いで空港へ向かいました。ほかのものはすべて捨てて行きました。途中,クリスチャンの兄弟たち数人の様子をうかがいに行きました。みな無事でしたが,食糧が不足していました。

反乱軍はそれほど遠くまで撤退していなかったので,道路沿いの空気は緊張していました。兵士の死体や破壊された車,弾薬のケースや穴だらけの建物など,至る所に戦争の跡が見られました。空港では焼けただれたヘリコプターや飛行機が,また地面には臼砲弾の爆発したものや,まだ爆発していないものがあり,撤退軍が道路と空港を取り囲んでいるのが見られました。

幾百人ものヨーロッパ人が空港に押し寄せ,そこで車を乗り捨ててゆきました。私たちはしばらく滑走路のそばで待った後,ベルギー軍の輸送機でカミナ空軍基地へ向かいました。避難者たちはそれぞれの国へ向かう航空便に乗るためベルギーの定期航空便セベナでそこから首都へ運ばれました。

途中で私たちは,殺害されたヨーロッパ人とザイール人の一般市民に関する報告を幾つも耳にしました。また,虐殺された男女や子供でぎっしり詰まった家の写真も見ました。公式には200人以上のヨーロッパ人が殺されたと推定されており,侵入兵たちが奥地へ退却した際に人質として一緒に連れて行かれた人々もいました。侵入兵たちが国境を越えて彼らの隠れがへ戻ることを決意したのは,後に再び行なう襲撃の準備のためであったようです。

息子を失う

私たちはキンシャサに到着しましたが,苦難はまだ終わっていませんでした。妊娠してから六か月近くたっていた妻は,戦争の恐ろしさや危険や圧迫を忍んでいたために火曜日に陣痛の徴候を表わしました。彼女は病院へ連れてゆかれ,木曜日に750㌘のとても小さな男の子を月足らずで産みました。小さ過ぎて呼吸ができず,その小さな胃で食物を消化できなかったために,赤ん坊は緊迫した状態で四日間生き続けたのみでした。

将来エホバが地の果てまでも戦争を終わらせてくださるのは何とすばらしいことなのでしょう。(詩 46:9)私たち,また他のクリスチャンたちは,幾度か命拾いを経験しました。助けとなったのは,エホバの援助と導きだけでした。そうした経験はエホバや祈りの効果に対する私たちの信仰を強めるものとなっています。―寄稿。

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