今日人権はどうなっているか
「人権の蹂躙が世界中で増大し,それに伴って国家間の倫理が至る所で侵されているため,我々は人権の危機に直面している」。
これは米国のドナルド・M・フレーザー下院議員の言葉です。
この言葉を読んで驚かれるかたもいることでしょう。人権についての報道や人権擁護の面で現代の世界は大きな進歩を遂げたのではないかと考えておられるかもしれません。どちらの見解が正しいのでしょうか。
現代における進歩
今の世代は,異なったグループの権利を守るための国際的な活動を数多く目撃してきました。それは確かに,これまでの世代をしのいでいます。国際連合は,1948年に世界人権宣言を作成し,国際的な基準を確立しようとしました。それに続いて二つの規約が設けられました。経済的,社会的および文化的権利に関する国際規約と,市民的政治的権利に関する国際規約の二つです。
世界人権宣言は理想を掲げた声明にすぎませんから,当時の国際連合加盟国の大半が署名しました。しかし,二つの規約の方はそうした理想を国際法化することを意図しており,署名国に対して法的拘束力を持つものです。諸国家はこの二つの規約に署名することには一層のためらいを覚えました。
それ以外にも国際連合は,集団殺害・難民・婦人の参政権・児童の権利・世界の保健などについて討議してきました。
国際連合に加えて,アムネスティ・インターナショナルなどの他の国際的な組織も,世界各地で人権の遵守を促進するために活動しています。人権侵害の申し立てを扱うために,ヨーロッパ人権委員会が設立されています。国際労働機関(ILO)は,強制労働などを廃し,失業を防ぐために活動しています。
労働者の権利と生活水準を守るための法律を成立させた政府も少なくありません。キリスト教世界の指導者たちでさえ人権に賛意を表する発言をしています。そして,ごく最近では,米国がその外交政策の基幹として人権を掲げ,自国の経済力や政治力を利用して,他国が市民の権利を保護するよう働きかけています。
いまだに問題は残る
このすべての活動は,わたしたちの時代に,つまりこの現存する世界的な事物の体制において人権が保障されるようになることを意味していますか。残念ながら,まさにフレーザー議員の指摘どおり,数多くの国では依然として人権侵害のニュースが聞かれます。1976年に,米国の当時の国務長官の次のような言葉が引き合いに出されました。「人権の分野での完全な記録を誇れる国や国民は存在せず,またそのような政治体制も存在しない」。
世界人権宣言の公布30周年の機に,法王ヨハネ・パウロ二世は,「今日我々の住む世界には,権利の侵害や圧制の例が余りにも多い」と語ったと言われています。キャンベラ・タイムズ紙は,「どんな政体や思想の下にあろうとも,ほとんどの国で人権が侵害されている」という,アムネスティ・インターナショナルの見解を引用しています。どうしてこのような事態が存在しなければならないのでしょうか。
一つの問題は,人権の侵害の中には政府の制御できないものがあるという点です。犯罪者によって市民の権利が侵されるのを見たいと思う政府はありませんが,今日多くの国で犯罪の風潮が高まっているために多くの人の「身体の安全」が侵害されています。
解決が非常に困難な別の問題は世界の食糧不足です。幾百幾千万もの人々は飢死寸前の状態にあり,そのために権利らしい権利は一つも享受していません。「貧困と飢えがあるのに,人々はどうして満足のゆく,良い生活を送る権利を享受できるだろうか」と言った人がいましたが,まさにそのとおりです。
最近数か月間のニュースの中で特に際立っているのは,いわゆる“ボート民”つまりベトナムからの難民に関する報道です。世界人権宣言の第14条によって,これらの人々には「迫害から逃れ,他国に避難所を求め,避難所を享受する」権利がある,ということに大抵の人は同意するでしょう。ところが,それらの難民が海岸に姿を現わすと,その国の人々は周章狼狽します。難民はそうした国々の経済を脅かすように思われます。難民たちが追い払われ,時には悲惨な結果を招いたという報告もあります。
問題となる別の点は,利害,つまり権利の衝突です。この問題に関して,フィリピンの教育家,ルベン・サントス・クユーゲンは次のように説明しています。「少数者の文化的な権利を守ると,より大きな社会や地区の発展の必要性に逆行することがある。同様に,恵まれた人々の財産権を守ると,恵まれない人々や搾取されている人々の権利を抑圧することになりかねない」。
この人は何を言わんとしていたのでしょうか。では,富の大半が少数特権階級の手に握られ,大多数の人が貧困を味わっている国のことを脳裏に描いてみてください。大多数の人の生活水準を引き上げ,それによってその人たちの権利を守ろうとして,政府は国の富を再分配しようとする場合があります。しかし,そうするに当たって,富んだ少数者が持つ同じように正当な権利を,いつのまにか侵してしまうことがあるかもしれません。
最後に,解釈の問題があります。西側諸国のある国々は,自国民の享受している諸権利をしばしば指摘しますが,東側諸国の中にはそうした国々を人権侵害のかどで非難する国もあります。ニューヨーク・タイムズ紙によると,最近フィデル・カストロは,西側諸国のいわゆる自由は階級制度を存続させ,人を搾取するためのブルジョワの権利にすぎない,と言明しました。
一方,非共産主義国の幾つかは,強制労働収容所や広く宣伝されている反体制派の窮状など,共産圏における権利の侵害とうわさされる数々の事柄に注意を向けます。ところが,フランスのラ・クロワ紙によると,「ソ連は……自国民の享受している際立った諸権利を……絶賛して,(世界人権宣言の)この記念日を大々的に祝うことにした」とのことです。
両者は別々の事柄について話しているかの感があります。ことによるとそうなのかもしれません。英国ケンブリッジ大学のピーターハウス学寮の学生監,エドワード・ノーマン博士が最近次のように述べたとおりです。「西側民主主義諸国は,権力主義的政治制度を批判して,(人権に関して)このような種類の道徳的異議を唱える。……社会主義諸国は,西側の自由主義を非難し,全く同じ人権という言葉を用いてやり返す。人権という同じ言葉が用いられてはいるが,イデオロギーや階級によって,その意味するところは異なっている」。
拷問と集団殺害
前述の社会的な諸問題やイデオロギー上の差異よりももっと始末に負えないのは,政府が自国民を抑圧する政策を執っている場合でしょう。そうした事例は数多くあります。二年前,タイム誌はアムネスティ・インターナショナルの言葉を引用して,それまでの十年間に,60か国で拷問が当局の手で行なわれた,と述べました。1975年だけでも,40か国が自国民を拷問にかけたとして非難されました。それに加えて,幾つかの国は政治犯を拘禁しているとして非難されています。
第二次世界大戦後,ヨーロッパで600万人のユダヤ人および他の幾百万もの人々が虐殺された話は世界を震撼させました。多くの人は,「このような事は二度と再び繰り返してはならない」と言いました。しかし,今でも,世界の様々な土地で大規模な虐殺が起きているとの報道を目にします。アフリカのある小国は,その人口の六分の一を死に追いやったとして非難されています。熱帯のある島では,最近の侵略で10万人が死亡したとされています。アジアのある国では,幾つかの報道によると,政治的な理由で100万人以上の人が殺されたとのことです。
こうした報道を読んで,次のような疑問を抱かれたかもしれません。『どうしてだれかが何かの手を打てないのだろうか。どうしてだれかが出掛けて行って,そうした事柄の真偽を確かめ,それをやめさせることができないのだろうか』,と。その答えは,英国の法律家,ウィルバーフォース卿が「人権の問題における解決不能のジレンマ」と呼ぶものにあります。すなわち,「世界人権宣言は国際的な関心事であるために人権という原則が一方にあり,もう一方には,国が自国の臣民をどう扱うかは全くの国内問題であるという原則がある」というジレンマです。
ブリティッシュ・コロンビア大学のW・J・スタンキーウィクス教授はこの点をさらに詳しく説明して次のように述べています。「別の国で人権が侵害されていると思えても,ある国が単独であるいは他国と共同して,人権を侵害している国に敵対することは,国際法上では明らかに許されていない。確かに,人権の侵害を終わらせるための行為は,国際法によれば侵略行為となる。人権は存在し,認められてはいるが,それを守ることはほとんど不可能である」。
人権を保障するには何が必要か
この点を考えてみると,現在の事物の体制の下で,人権が十分に保障されるのを見ることはとうてい期待できません。では,これらの権利を確実に手に入れる方法があるでしょうか。人権を獲得するための人間の闘いに関する,過去および現在の歴史を調べてみると,少なくとも二つの事柄が必要とされているように思われます。
まず第一に必要とされるのは,真に道徳的な社会です。各人が自分の権利を享受するだけでなく,私心なく自分の隣人の権利を尊重する社会です。次に,様々なグループの権利のバランスをどのように取るかを公正に定める知恵,そして人権に関して対立するイデオロギーの問題を解決する知恵を備えた権威が存在しなければなりません。この権威は,人々の権利を剥奪することになる犯罪や貧困などの社会問題を解決するだけの力も有していなければなりません。また,超国家的な権威でなければなりません。すなわち諸国家の上に権威を有していることが必要なのです。そうであれば,世界のどんな権力も,自国民を虐殺したり,拷問にかけたり,不当に投獄したり,さもなくば抑圧したりすることはできなくなります。
言うまでもなく,世界の現在の事物の体制の下では,そのような社会も,そのような権威も存在しません。それでは,人権が保障されるようになることを望むのは実現不可能な単なる理想にすぎないという意味ですか。そうではありません。世界中で人権がはっきりと理解されるようになり,しかも間近い将来にそれが実現されるという確かな希望があるのです。次の記事の中に述べられている事実を検討してみるようお勧めいたします。
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「人権の分野での完全な記録を誇れる国や国民は存在せず,またそのような政治体制も存在しない」。
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「貧困と飢えがあるのに,人々はどうして満足のゆく,良い生活を送る権利を享受できるだろうか」。
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まず第一に心要とされるのは,真に道徳的な社会です……
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次に,様々なグループの権利のバランスをどのように取るかを公正に定める知恵……を備えた権威が存在しなければなりません。