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目ざめよ! 1979
目79 12/22 12–15ページ

あのドイツ製のカブト“虫”

普通,虫は人からあまり好かれません。人は虫を避けようとします。かなり毛色は変わっていますが,私も“虫”ですので自己紹介をさせていただきましょう。

私はドイツ生まれですが世界をまたにかけ,どこでも親しまれる国際的名士となりました。私は多くの言語で,親しみの持てる冗談の的となってきましたし,私に関する映画さえ作られてきました。

しかし,このごろでは私も大分年を取ってきましたし,事態は変わりつつあります。どうやら昔のようになることはもうなさそうです。では,私の身の上話を聞いていただけますか。

誕生

実のところ,このさし絵からもお分かりのように,私は自動車であって虫などではありません。しかし,よくあることですが,“カブト虫”とか“虫”とかいう私のあだ名は,本名と同じほどひんぱんに用いられています。私は最初,“デル・クラフト・ドゥルヒ・フロイデ・ワーゲン”(喜びによる力の車)と命名されました。この名は,この車の構想が練られていた当時のドイツ政府による人気のあるスローガン(“喜びによる力”)にちなんで付けられたものです。自動車の名にしては少々長ったらしいですね。後日,私は“国民車”を意味する登録名,フォルクスワーゲンとしてさらによく知られるようになりました。

そのような車を造る構想はすっと以前にありましたが,ドイツ政府が自動車の設計家兼発明家であるフェルディナント・ポルシェに試作車を造るよう命じたのは1934年になってからのことでした。だれでも買えるようにするため,政府は生産コストを,当時の396米㌦に相当する990ライヒスマルク以下に抑えることを命じました。その車は人々のための,“国民車”になるはずでした。それは1930年代にアメリカ人が描いた“どの家庭のなべにも鶏を”という夢のドイツ版とも言えるでしょう。

私の誕生のための準備は徹底的で綿密周到なものでした。新しい工場の建設だけではなく,人口9万人の全く新しい都市を建設する計画も立てられました。その都市の定礎式は,私が生み出されることになる工場建物の工事が始まってから約5週間後の,1938年7月1日に行なわれました。戦略的に見て,ドイツ帝国のほぼ中心に位置していたこの新しい都市には,“喜びによる力の車の都市”という,夢もなく,どちらかと言えばぎこちない名が付けられました。今日ウォルフスブルクと呼ばれ,人口13万を擁するこの近代都市は,とても40年そこそこの歴史しか持たない町とは思えません。

これでお分かりのように,私は一介の“虫”にすぎないかもしれませんが,あえて言わせていただければ,人間の赤ん坊でその誕生のためにこれほど綿密な計画と準備がなされた子はいないと言えるでしょう。私の前途は実に洋々たるものでした。

思いがけぬ災難

その時,折あしく第二次世界大戦がぼっ発し,少なくとも当分の間は私のものを含め,数々の明るい見込みが立ち消えになってしまいました。やっと生まれようとしていた私は,より緊急な事柄のために見捨てられてしまいました。私のために準備された生産設備はすべて軍事目的に振り向けられました。

事実,事態のこうした変化によって,私の存在の合法性についてさえ疑問が投げ掛けられました。私の前途には暗い影が落とされました。私は大掛かりな詐欺行為に一役買ったとして非難されたからです。「第三帝国の興亡」と題する本の著者ウィリアム・L・シレルは次のように説明しています。

「民間企業では一台396米㌦[990ライヒスマルク]で車を製造することができなかったので,ヒトラーは,国にその車を造るよう命じ,“労働戦線”にその計画を担当させた。……“労働戦線”は5,000万マルクの資本を前納した。しかし,それは資金調達の主な方法ではなかった。ロイ博士の巧妙な計画によると,労働者自身が,一週に5マルク,あるいは余裕があると思えば週に10ないし15マルクを納める,“前納”分割方式として知られるようになった方法で資本を供給するはずであった。750マルクを納めると,買い手は製造され次第順番に車を一台入手できるという番号札を受け取った。労働者にとって気の毒なことに,第三帝国の支配中,車は一台たりとも生産されず,どの顧客の手にも渡らなかった。ドイツ人労働者は何千万マルクもの金を支払ったが,そのうちの一ペニッヒ[小額硬貨]といえども返済されることはなかった」。

政府は戦争目的のための資金を調達するために,それと知りつつ行なったと言う人もいますが,その真偽はさておいて,推定17万人の人たちが確かに自分のお金を失ったという悲しい事実には変わりありません。私の手落ちではないものの,これは余り自慢できた話ではありません。私は自分の汚名をそそぐ決意をしました。そして少しばかり自慢させてもらえるなら,私はその点でかなり成功したと思っています。

新しく生まれ変わる

終戦を迎えたとき,ウォルフスブルクの工場施設の半分以上は破壊され,修羅場と化していました。賠償金の支払いとしてその工場施設を希望する占領国は一つもありませんでした。あとで分かったことですが,連合国側の自動車メーカーのいずれも,私のことを真剣に取り上げるのには飾り気がなさすぎ,そして ― いやな言葉ですが ― ぶかっこうにすぎると考えたのです。

それでも,英国の占領軍はドイツ人の管理下で工場を再開することを命じ,その結果,長い間遅れていた「国民車」の生産が始まりました。アメリカ人や英国人が“カブト虫”とか“虫”とかいう,ずっと私についてまわったあだ名を付けたのはその頃でした。でも正直なところ,似ていることを認めないわけには行きません。しかしカブト虫はそれほどぶかっこうではないと思われませんか。

私の幼いころには困難が付きまといました。それでも着実な進歩が見られました。年間の生産台数は1945年の2,000台足らずから1970年代初期の生産200万台余りに増加しました。1974年までには同じスタイルの“カブト虫”が1,800万台近くも生産されましたが,そのすべてのハンドルにはオオカミと城の印が付いています。その理由を考えたことがありますか。私の誕生地ウォルフスブルクにはドイツ語で,“オオカミの城”という意味があるからに外なりません。

確かに私たち“カブト虫”のかっこうはよく似ています。長年の間,最初の概念と私の外観は変わっていませんが,だからといって技術的な改良がなされなかったという訳ではありません。事実,一台の自動車を構成している5,000余りの部品の一つ一つはその間,何らかの形で改良または変化を経てきました。

私がドイツの隅々でなじみのある車となるのにそれほど長くはかかりませんでした。しかし多くの外国人も私を好むようになり,1947年ごろには隣国のオランダでも私の姿を見かけることができました。1949年には初めて大西洋を渡ってアメリカへ行きました。多くの米軍の軍人はドイツでの勤務期間を終えて帰国する際に,“カブト虫”を一台持ち帰ったのです。

アメリカなどでより小型で経済的なコンパクトカーを求める傾向が強まるにつれて,私の人気は高まりました。ますます多くの“カブト虫”が輸出されるようになりました。事実,1960年代や1970年代のある時期には,生産台数全体の3分の2までが輸出に向けられました。海外の数か国でも工場が建てられましたが,それはウォルフスブルクおよびその間,ドイツに建てられたさらに五か所の工場での業務を補強するためでした。

私には非常に大切にしている記憶があります。1955年に100万台目の“カブト虫”が生産ラインから運転されたときや,1,500万台目の車が米国ワシントン特別区にあるスミソニアン研究所という光栄ある場所に送り出されたときなどがそれです。しかし最高潮は1972年2月17日に到来しました。私は1927年に有名な“T型”フォードの作った1,500万台を少し超える空前の生産記録を破ったのです。今や私は新しいチャンピオン,そして過去において最も成功を収めた車となったのです! 一介の“虫”にしては長い道のりを歩んで来たものです。

一時代の終わり

多くの国々では小型化への傾向が続いているというのに,ここ私の母国ではそれとは反対の傾向が見られるようになっています。ドイツ人がより裕福になるにつれて ― 皮肉なことに私自身そのことに相当寄与しているのですが ― 人々はより大型の,そしてより馬力のある,より乗り心地のよい車を望みました。自分でも認めているのですが,私は世界中で一番乗り心地のよい車ではありませんし,私が小型で軽量であるため,事故の際や危険な状況下で運転される場合,不利になることがあります。でもどうせ完全な車などあるはずはないのですから。

1978年1月19日,それは私の生涯のうちで一番悲しい日,ドイツ国内での“カブト虫”の生産が打ち切られた日でした。それ以降フォルクスワーゲンの国内の六か所の工場で,もっとしゃれた型の車だけが生産されることになりました。最後の“ドイツ製カブト虫”は,広々とした道路で走るという喜びを味わうことなく,博物館の安全な場所にしまい込まれて余生を送るよう運命づけられました。それでも私は,従来の“カブト虫”がメキシコ,ブラジル,ナイジェリア,南アフリカにあるフォルクスワーゲンの工場で製造されていることを誇りに思っています。

事態のこうした変化のため,ドイツ人の“カブト虫”愛好家は一見矛盾した立場に立たされます。もし新車の“カブト虫”― 現在では皮製半ズボン,ビールジョッキ,かっこう時計と同様ほとんどドイツの象徴となっている ― を手に入れたいなら,その人は外国から輸入しなければなりません。考えてみてください! それはまるでアメリカ人に,今後はハンバーガーやホットドッグ,アイスクリームを外国から取り寄せなければならない,と告げるようなものです。

愚痴をこぼしたりしてご免なさい。功成り名遂げた人はどうしても過去の栄光のうちに生きる傾向があるようです。ひょっとしたら私も年を取って感傷的になっているのかもしれません。見捨てられて忘れ去られることを望む人はだれもいません。もちろん,今でも私と同じ型の車が数百万台もドイツのアウトバーン[超高速道路]や,世界の140以上の国々の道路や裏道をうなりを上げて走っています。ですから,私の全盛期は過ぎ去ったとはいえ,いまだに健在で,活動しており,ぴんぴんしています。もっとも以前ほどの力強さはないかもしれませんが。でも,一つの事は少なくとも確かです。私たちドイツ製の“カブト虫”が人々から忘れ去られるのは随分先だということです。

[13ページの図版]

人間の赤ん坊でその誕生のためにこれほど綿密な計画と準備がなされた子はいない

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