初めてマラソンに参加して
23マイル地点で私はこう自問しました。「こんな所で何をしているんだ。お前の頭はおかしくなってしまったに違いない」,と。
私は付合いでジョギングを始めましたが,少しも楽しくありませんでした。寒くて筋肉が痛みました。ところが,時たつうちに走るのが好きになっていったのです。気分がそう快になる上,よく眠れ,体重は減り,呼吸が楽になり,腰が痛まなくなりました。
1年ほど折を見ては走っていましたが,その後,私はニューヨーク・マラソンについて考えるようになりました。完走できるでしょうか。容易でないのは百も承知です。だからこそ,これが挑戦になったのだと思います。距離を1マイル延ばすごとに,走るのが容易になってゆきました。そのマラソン大会の2か月半前のある日,私はとうとう22マイル(35㌔)を走破し,完走するめどがついたので,参加を申し込みました。
当日,5時半に起床し,炭水化物を摂るためにホットケーキで朝食をすませ,屈伸運動をしてから,家内と連れ立ってレースへ出掛けました。
最初の3マイル(約4.8㌔)までは,あたりを見回し他の走者をながめていました。若い人も年取った人もいます。派手な服装の人もジーンズを切った物をはいた人もいます。沿道には人々が二重三重に人がきを作っていました。声援を送る人もいれば,「お父さん,ガンバレ」とか「完走,ボブ!」といったプラカードを掲げている人もいます。10歳の息子と一緒に走っていた父親に,「どうして走ろうと思ったのですか」と尋ねると,「息子と一緒に何かしようと思いましてね」という答えが返ってきました。この親子は4時間後に二人そろってゴールインしました。
11マイル(17.6㌔)地点では,くつろいだ日曜日のジョギングと同じように楽々と走っていました。前を見ても後ろを見ても頭が上下に揺れており,一面,上下に揺れる頭の海のようでした。左右の耳には無数の足音が飛び込んできました。私はニューヨーク市を侵略する特殊部隊の一員になったような気がしました。
走りながら考えたことは,ほとんど長距離走について本に書いてあった事柄でした。体を楽にして,十分空気を吸い,自分の限界を越えることなく,体の調子に注意しなければなりません。でこぼこ道や道路のくぼみなどに気を付けます。走る前に,そして走っている間は3マイル(約4.8㌔)ごとに水を飲むようにします。熱射病で倒れた人をどのように助けますか。自分が熱射病にかかりつつあるかどうか,どうすれば分かりますか。水飲み場を二つ飛ばした人がいましたが,その人は体が熱くなり過ぎ,こむらがえりを起こし,完走できませんでした。
20マイル(約32㌔)地点で,多くのランナーは“壁にぶつかり”ました。これはもう走れないと感じ,筋肉が硬くなり,こむらがえりを起こしそうに感じられる時です。それから後はもう気力だけです。私はセントラル・パークに入った23マイル(36.8㌔)地点でその壁にぶつかりました。私はこう自問しました。「こんな所で何をしているんだ。お前の頭はおかしくなってしまったに違いない」,と。なだらかな坂の一つ一つが,山のように感じられました。
私は家内の小さな顔を探し始めました。顔が見えれば,ゴールは間近です。救急車が反対方向からやって来ました。「私もあれに乗せられていたかもしれない」と思いました。その時,「ガンバレ,ゴールは近いぞ」と声をかけ,オレンジを半分投げてくれた人がいました。沿道にはずっと人々が二重三重に並んでいましたが,このあたりまで来ると,五重六重に人がきができ,優勝者に対するように声援を送っています。
優勝した人よりも1時間遅れましたが,私は完走し,物事を成し遂げたという満足感で胸がいっぱいになりました。ゴールインすると,飲み物をもらい,タイムが記録され,完走したことを示すメダルをもらいました。家内は着替えを持って待っており,私を抱いて口づけをしてくれました。
その晩,家に帰ってベッドに横たわり,暗やみの中で天井を見上げながら,思わずほほえんでしまいました。世界最大の規模のマラソンに参加し,完走したのです。とても良い気分でした。
しかし,もっと良い気分を味わえる別の競走があります。使徒パウロはそれについてこう語っています。「スタジアムの走者はだれしも勝とうとしますが,賞を得るのはそのうちのただ一人です。あなた方も同じように,勝つために走らなければなりません。競技で闘う人はだれしも厳しい訓練を積みます。彼らはしなびてしまう,冠を得るだけのためにそうしますが,わたしたちはしなびることのない冠のためにそうするのです。それがわたしの走り方です。勝つことをひたすら考えているのです。それがわたしの闘い方です。空を打つようなものではありません」― コリント第一 9:24-26,エルサレム聖書。
私は週に一,二時間ジョギングをすることがありますが,奉仕者として,パウロの語ったような競走に週に50時間以上を費やしています。マラソンで求められるのは三,四時間の耐久力ですが,クリスチャンの競走は一生涯続きます。「自分たちの前に置かれた競走を忍耐して走ろうではありませんか」と,パウロは語っています。他の場所でも,パウロはこう勧めています。「命のことばをしっかりつかんでいます。こうしてわたしはキリストの日に,自分がむだに走ったりむだにほねおったりはしなかったという,歓喜の理由を持てるのです」。―ヘブライ 12:1。フィリピ 2:16。
身体の訓練にはいくらか益になるところもありますが,私はそれをいつも従属的な位置に置くように心掛けています。敬神の専念の点で訓練を積むことは,それよりはるかに有益で,永遠の命に至ることを認識しているからです。(テモテ第一 4:8)ジョギングをする人すべてがこの点を認識するようになってほしいものです。―寄稿。