「お母さん,わたしたち二人きりなのね」
片親しかいない子供たち: 逆境を乗り越えることができますか どうすればより幸福な家庭を作る助けになれますか
「父は僕たちを捨てて出て行きました。母はずっと重い病気を患っています。今は少しよくなっていますが,僕たちはつらい毎日を過ごしています。僕たちには父親が必要です。食べていくのがやっとなんです。支払いと家の修理にお金がかかって,食べ物がほとんどなくなってしまうこともあります。一人で寂しそうにしている母の姿を見るのはいやです。僕たちはどうなるのでしょうか。それを思うと,怖くてたまりません」。
必死に訴えるこの悲痛な手紙は,片親だけの家庭で育てられる幾百万もの子供の一人になった14歳の少年が書いたものです。
そうした状況に実際に置かれた人でなければ,片親が突然いなくなり,場合によっては二度と戻らなくなる時に若い人たちが受ける精神的な痛手を完全に理解することはできません。片親を亡くす場合も少なくありませんが,大半は,遺棄,離婚,別居のいずれかが原因で片親を失います。米国では,今生きている子供の40%が生涯の一時期を片親だけの家庭で過ごすものとされています。世界中で事態は悪化の一途をたどっています。
こうした状況が生み出す問題を,ある若者は「壁のように立ちはだかる欲求不満,心の痛手,思い煩い」と表現しましたが,若い人たちにはそうした問題が大きな挑戦となります。男の子であっても女の子であっても,この新しい事態に対処するためにどんなことができるでしょうか。子供が悪くなるのは,いつも親がいけないのですか。若い人々はこうした定めをどの程度まで自分で左右できますか。次の幾つかの経験談は,こうした質問の答えを得るのに役立つでしょう。
どのようなことは事態を悪化させかねないか
「だめなら,出て行ってお父さんと一緒に住むよ。お父さんなら許してくれるさ」。十代のある男の子は,母親から懲らしめられた時,こう言って脅しました。こうした脅しは珍しいものではありません。14歳の一少女はあからさまにこう語りました。「今のほうが自由です。お母さんよりお父さんの方が好きなことをさせてくれます。……母親は自分の最善と思う方法で子供を育てようとすることがありますが,父親は子供の好きなようにさせてくれるものです」。もちろんいつもそうとは限りません。
では,『自分の好きなようにする』ことは真の満足をもたらすでしょうか。考えもせずに,「その通り」と叫ぶ若者は少なくありません。16歳になるある若者もそうでした。しかし,その子は後日,自分が間違っていたことを知りました。
この若者の両親は離婚し,その子と弟の二人は母親に引き取られました。クリスチャンである母親はき然とした態度を示し,夜間の外出禁止を含む“家庭の規則”を定め,子供たちにそれを守らせました。しかし,その16歳の男の子には母親が厳格すぎるように思えました。自由が欲しくて母親のもとを去り,父親の所に行きました。たちまち,新しい自動車や時計など贈り物を次々にもらいました。自由もありました。しかし,この新たに得た自由がやがて問題を引き起こしたのです。
それまで自分が従ってきた高い道徳規範はどこかにいってしまいました。性的に乱れた生活を送る結果,ある少女をめぐって嫉妬に駆られた男友達と激しく争い合うことになりました。再婚した父親の家庭の緊張した雰囲気にいたたまれず,何度か家を飛び出しました。こうした緊張から逃れようと,急いで結婚し,年若い妻とパーティーに明け暮れる生活を送り,毎晩のようにバーに行っては酒を飲み歩きました。確かにこの若者は,『自分の好きなように』していました。
ある晩,バーで酒を飲んでいる時,自分のことを真剣に考えるようになりました。「何という人生を送っているのか。自分の身に何が起こりつつあるのか。自分は一体どうなるのか」と考えたのです。やがて妻に逃げられ,その生活は惨たんたるものになりました。どこに安らぎがあるかに気付いたその若者は,母親の家に戻り,以前はいら立ちを感じていた同じ規則に従って喜んで生活しています。それが自分の益になることにやっと気付いたのです。幸い,この若者は,「したい放題にさせて置かれる少年はその母に恥をかかせる」という聖書の箴言(29:15,新)が真実であることを認識したのです。
息子や娘のかがみ
コロンビアのボゴタに住む16歳の一少女は正に娘のかがみとも言えることを示しました。父親は,彼女が3歳の時に家族を捨てて出て行きましたが,母親は夫からの物質的な支えが全くない中で,幼い娘の身体的,感情的必要を顧み,キリスト教の原則を教え込もうと懸命に努力しました。イボンヌは13歳の時に体がまひする病気にかかりましたが,母親の看護で回復しました。ところが,イボンヌが16歳の時,今や成功を収めた実業家となっていた父親が突然姿を現わしたのです。
父親は直ちに,娘の保護監督権を得ようと法律上の手続きを取りました。イボンヌと母親は法廷に出頭を命じられ,母親は法廷で,「娘の福祉と教育をないがしろにしている」と父親から訴えられました。
それに対して,イボンヌは穏やかに,「私が病気で治療を必要としていた時,父はどこにいたのでしょう」と答えました。母親から教えられた道徳規範について語った後,さらに,「母は私がこれまで受けることができた教育の中で最も優れた教育を授けてくださいました」と言葉を加えました。
「だが,幸せな生活を送るのに必要なすべての備えを娘に与えてやりたいのです」と父親は論じ,「娘は自分の選んだ分野で十分な大学教育を受けることができます。きれいな服,パーティー,社交上の交わり ― こうしたものすべては娘が成功するのに必要です。そして私にはそれを備える資力があります」とも述べました。
何という申し出でしょう。今の状況では母親はとうてい太刀打ちできません。判事は,無力な母親を見すえて,「自分の娘から何を取り上げているかを考えなさい」ときつい口調で言いました。
「イボンヌはもう幼い子供ではありませんから,自分で決めることができます。父親のもとに行きたいのなら,邪魔するつもりはありません」と母親は答えました。
イボンヌは少しもためらわずに,きっぱりと次のように言いました。「お父さんが私のためにしてくださろうとしておられることには感謝しています。でも,お母さんとの生活は幸せで満足のゆくものです。必要な物はすでに十分あります」。そして,他の人を霊的に助ける業に全時間を費やす生涯の業のことを考えつつ,「今の私の人生には真の意義があります。これは,私の持っている物質よりはるかに優れており,お金では決して買うことができません」と言いました。父親は訴えを取り下げると荒々しく法廷から出て行き,母と娘は抱き合って涙を流しました。
米国ミシガン州,デトロイトで起きた事故で,クリスチャンのある婦人は未亡人になり,十代の娘3人を女手一つで育てていかなければならなくなりました。そのうちの一人は体が完全にまひしていていつも看護が必要でした。
もしあなたが18歳の娘に一口ずつ食事をさせ,おむつを替え,風呂に入れ,服を着せ,宗教の集まりに連れて行ったり帰ったりしなければならないとしたらどう思われますか。決して容易な仕事ではないはずです。しかもこれまでは,夫が大きな助けになってくれていました。自分の手で娘の世話をすることはあきらめて,どこかの施設に入れなければならないでしょうか。
「お母さん,わたしたちが世話をするわ」とほかの二人の娘が言いました。そして,娘たちは実際その通りにしました。「娘たちの助けがあったからこそ,あの子をこれまで世話できたのです」と母親は語りました。
片親に育てられている子供が家事を手伝ったり,親の大きな力になったりしてきた例はほかにも沢山あります。それによって益を受けるのは親だけではありません。指導的な児童心理学者リー・ソーク博士は子供の受ける益について次のように報告しています。「配偶者なしにとても立派に子供を育ててきた人がいる。……そうした親はこのように言う。『今日はすることがとても多いの。学校から帰って来たら,テーブルの上に食器を並べておいてくれると助かるのだけれど。それから,トマトと卵とパンを買っておいてもらえるかしら。お母さんが家に帰って来た時,とても助かるわ』。子供たちはそうしたことを好んで行なう。それによって自分が重要な存在であると感じるのである。親の生活を幾らかでも楽にすることを行ない,そのことで感謝されると,子供たちの自尊心は大いに高められる」。こうするなら,子供の生活も家族の生活もより良いものとなります。
赤ん坊のようにみなされることを好む若者はいません。年端のいかない子供であっても,考え方の面では大人の仲間入りをしつつあるように思いたがるものです。
二親のそろっている家庭の子供よりも,片親に育てられている子供の方がしばしば感情的に早く成長します。そうしたことが見られるのはなぜですか。作家のジェーン・アダムスはある雑誌の「離婚: その積極的な面」と題する記事の中でこう述べています。「離婚した家庭の子供たちは自立することを余儀なくされる。一人で子供を育てている親は,夫婦で育てている親ほど子供に気を配ったり,そばにいたり,力になってやったりすることができない。……私の子供もまだ十代前半だが,かなり栄養のある食事を自分でこしらえる。みんなで住む家の中がうまくいくよう,二人ともよく助けてくれる。掃除から,自分たちの衣類の洗濯やアイロンかけ,窓の修理まで,様々な雑用もしてくれる。後片付けは自分できちんと行なう。だれもしてくれる人がいないので,自分でせざるを得ないのである」。
子供たちが円熟した考え方を身に着けるようになると,その子は配偶者なしで子供を育てている親にとって大きな助けになります。例えば,離婚したクリスチャンの一婦人は,男の子5人と女の子一人を女手一つで育てていかねばなりませんでした。経済的にはやっていけたのですが,幾つかの問題が生じるようになりました。母親は率直にこう語っています。「父親には子供たちを訪問する権利があったので,対抗上,子供にかなり甘くなっていました。子供たちを取られたくなかったのです」。
そのような時,母親は,息子の一人が語った次の言葉にはっとさせられました。「お母さん,子供たちをあんなに甘やかしていたらだめになってしまうよ。みんながしていることを見てごらん。『むち』が必要だよ。き然とした態度を示して,お母さんの『はい』は『はい』,『いいえ』は『いいえ』でなければ」。母親はこの大人も顔負けの助言をすぐに適用し,おかげで家の中は大きく変化しました。―箴 22:15。ヤコブ 5:12。
『みどりごの時のことを捨てて』,円熟した考えや行動のできるようになった若者は,後日感謝の気持ちを込めてその当時を振り返るものです。ある若者は4歳の時に父親を亡くしました。不況の時期で,11人もの子供を女手一つで育てていけるのだろうかと多くの人が心配しました。―コリント第一 13:11。
親せきの人が,子供たちを手分けして引き取ろうとしました。幾分誇り高いところのあるその母親は,「結構です。たとえ一緒に飢え死にしなければならないとしても,みんな一緒に生活します」と言いました。
立派な大人となった,当時4歳のその人はこう書いています。「この時のことを振り返って見ると,人生で最も重要な出来事の一つであったことが分かります。私たちは家族として,生きてゆくために心を合わせて協力するようになりました」。
最初,この家族はサンドウィッチや軽食を作り,それを駅の構内で売りました。やがて母親は小さな食堂を始めました。「お客さんが来て卵サンドを注文すると,裏口から食料品店に卵を一つ買いにやらされたことが思い出されます」と前述の息子は語りました。
クリスチャンであるこの男の人は,自分の家族を立派に育てただけでなく,幾百万㌦もの収益をあげる連鎖系列店の創設者となりました。この人は過去を振り返りつつ,「こうしたすばらしい母を与えてくださった神に感謝しています」と書きました。
自分の行ないによって知られる
こうした例は片親に育てられている子供が必ずしも逆境の惨めな犠牲者になる必要のないことを示しています。片親を失うことは子供の生活に衝撃的な影響を与えることがありますし,現にそうした影響を与えています。それでも,多くの若い人々は箴言の次の言葉(20:11,新)に同意しています。「少年はその行ない[親の側の事情ではない]によってさえ,その行動が清く,廉潔であるかを明らかにする」。
いわゆる欠損家庭でも,子供の生活がゆがむことはありません。親を助け,親から与えられる道徳上の適切な指導や懲らしめに応じるなら,人生において成功を収めることができます。自尊心を保てるだけでなく,今日の若い人々の間にひどく欠けている平安な思いも得られます。そうした若者は家族生活を温かいものにする上で貢献できます。その行動によって,正にこう言えるのです。「お母さん,わたしたち二人きりなのね。でも,力を合わせれば有意義で幸せな生活を築けるわ」。