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目ざめよ! 1982
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スポーツに暴力行為が見られるのはなぜか

スポーツ ― なぜ暴力行為が増えているか

下に掲げたのは,近年様々な国々で新聞のスポーツ欄や論説欄に載せられたほんの幾つかの見出しです。競技場の内外を問わず,スポーツは暴力行為と同一視されるようになってきました。しかし,どうしてでしょうか。

暴力行為は増加したか

米国のボストン大学医学部精神科の準教授であるスタンレー・チェレンは最近次のように書きました。「人々が暴力行為に慣れれば慣れるほど,暴力的な刺激を求める願望を満たすために,さらに極端な暴力行為がなお一層必要になってくる。……人々は他の人が傷つくのを見るために大金を払うであろう。……人々が飽きるにつれて,それはエスカレートする。1930年代には,人々はジェームズ・ケグニーが映画の中で女性を平手打ちするのを見て衝撃を受けたものである。今ではそんなことは何でもない。興奮を求めて,それよりもはるかにゆゆしい暴力行為が要求されている。……それで,リングの上で殺されるボクサーがいるという事実があるにもかかわらず,ファンはもっと戦い合うことを求めた。……飽き足らなくなった我々は,選手が死の危険を冒すのを許すほどになってしまった」。

この点を北アメリカで人気のあるフットボール(サッカーではない)を例に取って見てみましょう。アメリカン・フットボールといえば身体的な接触のあるスポーツとして知られてきました。これは英国のラグビーの方式に倣ったものですが,身体的な接触はラグビーをさえ上回ります。ところが,最近では,一層暴力的なプレーが一般に標準的な事となってきました。多くの場合,身を守る装備は攻撃用の武具と化しています。例えば,選手たちは岩のように硬いプラスチック製の保護用ヘルメットを使って自分の頭を飛び道具に変え,相手をひどい目に遭わせるのです。

プロ・フットボールの選手であるジャック・テータム(オークランド・レーダーズ)が最近出した「暗殺者と呼ばれる男」という本の中で述べた次の言葉は,フットボールの試合にかかわる暴力行為をよく要約しています。

「プロ・フットボールは凶暴で,残忍なもので,感傷的になる暇などほとんどない」。

「ダウンにするだけのためにタックルするということは決してない。私は自分が追い掛けている相手をひどい目に遭わせ,私の方に来ればその度に痛い目に遭うことを思い知らせてやりたいと思うのである」。

「“殺る”という言葉を使ってきたが,私は人を殴るとき,本気で殺ろうとしているのである。もっとも,本当に殺してしまうという意味ではない。つまり,私はそのプレーあるいはパスを殺ろうとしているのであり,人を殺そうとしているのではない。……フットボールの構造は相手をひどい目に遭わせることを基盤にしている」。

「私は自分の一番良い当たりが重い暴行罪すれすれのものであると考えたいが,同時に私のすることはいずれも,規則集に反してはいないのである」。

テータムの最後の言葉は重大な意義を持つものです。この選手の一度のタックルで,ある人の体がまひして再起不能に陥りましたが,それも「規則集に反してはいない」行為だったのです。ほかの所で行なえば重い暴行罪に当たる行為が,競技場では合法的な行為になるのです。あるスポーツ評論家は,「ユニホームを着ていれば治外法権の下に置かれる」と述べたのも不思議ではありません。

テータムの意見は,単に一人の特定の選手の態度を反映しているのではありません。ピッツバーグ・スティーラーズ(米国のフットボール・チーム)のヘッドコーチ補佐であるジョージ・パーレスは,「[フットボール]はそれはそれは乱暴な生き方で,卑劣で,激烈で,残忍で,男性的なものだ」と述べています。著述家のウィリアム・B・ファーロングは,ニューヨーク・タイムズ・マガジン誌に寄せた記事の中でこう述べています。「[スクリメージ]ラインのセンターは地獄の生活と呼ばれているが,その名の通り常に激しい暴力行為があり,暗い部屋の中でナイフを使ってするけんかと同じほどの暴力行為が見られることもある。……多くの場合,パンチをあびせたり,ののしったり,目玉に親指を突っ込んだり,け飛ばしたりすることさえある」。

クリーン・ベー・パッカーズというフットボール・チームの攻撃側のラインマンであるジェリー・クレイマーは,自著「即座に返報」の中でこう書いています。「私は試合のために卑劣で,厳しくなろうと決意してその日一日を始めた。これは[試合間際の]土曜日や日曜日になってやれるようなことではない。月曜日か火曜日[試合の1週間前]からしていなくてはならない。……徐々に怒りをつのらせ,次いで憎しみへと持ってゆき,感情をいよいよ激しく燃え立たせ,日曜日には爆発寸前になるまで感情を高めておくのである。……ある人を憎みたいと思う場合,試合前に相手のチームを見ないようにしている。……相手を見なければ,相手を憎む気持ちが幾らか強まるように思える」。

この同じ暴力的な精神はサッカーでもますますあらわになってきています。ブラジルのサッカー・チームであるサンパウロ・コリンティアンズのかつてのゴールキーパーであったエイトール・アモリムはこう述べています。「私は1970年にサッカーをやめましたが,当時サッカーは変遷期に入っていました。技術を重んじるゲームから力のゲームへと変わりつつあったのです。業や技術は暴力に道を譲るようになりました。ペレ[史上最大のサッカー選手と言える人物]が今日まだ現役で活躍していたなら,60年代に見せたあのすばらしいプレーの50%をやってのけることができなかっただろうと思います。暴力行為に阻まれたでしょうし,ファンもそれに同調したでしょう。彼らは暴力行為を好むようです」。

かつてはフェアプレーと紳士的な振舞いの粋とみなされていたテニスやクリケットのようなスポーツにさえ,言動両面の暴力が忍び込んでいます。かつてテニスは,スポーツマンシップを実践することを学んだ礼儀正しい人々のゲームと考えられていました。ここ10年ほどの間に,一流のプロ選手のある人々が見せた攻撃的な言葉遣いや,むかっ腹を立てる態度や,ひわいな言葉などのために,その哲理も消えてなくなってしまいました。

学校はその影響を受けているか

プロスポーツのレベルでそのような暴力行為があるとすれば,大学や高校のレベルにも似たような態度が浸透して行ったとしても不思議ではないのではありませんか。米国ニュージャージー州出身のがっちりした体つきの24歳のマービン・ビッカーズは,ノース・ブラウンズウィックの高校でフットボールの選手をし,大学でフットボールの選手になるようにとの勧めを幾つか受けました。ビッカーズは学校でのスポーツに見られる暴力行為についてどんなことを述べているでしょうか。「コーチは私たちに汚いプレーをするよう勧めました。例えば,相手があばら骨を痛めていることを知っていれば,『あの傷ついたあばら骨をたたけ!』という指令が出されます。実のところ,相手の選手を二,三人傷つけて引っ込めなければ,本当の試合とは言えませんでした」。

高校のレベルでさえ,若者たちに憎しみと暴力が吹き込まれています。大学と高校の教官であるフレッド・F・ポーレニッヒはこう書いています。「若者たちは勝利という名の神のために,傷つけ,だまし,ひどい目に遭わせることを教えられている。コーチたちは高校や大学のチームに暴力映画を見せ,敵に対する感情を高ぶらせる」。

荒々しいスタイルのプレーで有名な,カナダのアイスホッケー選手,デーブ・シュルツは最近こう語りました。「僕のやり方やプレーを模範にした若い選手たちにおわびしなければならない。……僕がそのようなプレーをしたのは,コーチもファンもマスコミも皆が皆僕にそうするよう期待していると思えたからである」。

この最後の言葉から,当然次のような質問が生じます。

暴力行為が増加したのはなぜか

「コーチも,ファンも,マスコミも」。スポーツに見られる暴力行為を引き起こす主要な要因となったのはこの三者です。これらの人たちの間には需要と供給の法則が成り立っています。ファンは刺激と興奮を求めます。これが需要です。コーチは大抵,自分たちのフランチャイズが財政的に潤うことを望む実業界の大立て者に雇われています。これはファンを常に喜ばせておかなければならないことを意味しています。それで,コーチは一般大衆の要求を満たす行動へと走ります。マスコミ,それも特にテレビが傍観者の立場でそれに加わり,暴力行為を称揚したり非難したりします。

何年か前,米国のフットボール・チームのグリーン・ベー・パッカーズのプロ・コーチ,ビンス・ロンバルディは,今では使い古された次の言い回しで自分のスポーツ哲学を言い表わしました。「勝つことがすべてではない。勝つことしかないのである」。この考え方は確かにロンバルディが初めて思い付いたものではありません。このコーチはプロ・スポーツ界に広く行き渡っている物の見方を短い言葉でまとめ上げたにすぎないのです。

しかし,勝つことがなぜそれほど重要なのでしょうか。上記のニュース報道はその答えを示してさらにこう述べています。「[米国の]諸大学は,様々な理由から,第一線級の運動プログラムに幾百万ドルものお金をつぎ込む(その大半は奨学金を受けている運動選手のためのものである)が,中でも,フットボールやバスケットボールのチームが成功を収めれば,ばく大な利益をもたらす可能性があるということは,決して小さな理由ではない」。

大企業と利益とが問題のかぎになっています。スポーツはかつてないほどお金を生み出すものとなっています。1981年9月に行なわれた,シュガー・レイ・レナードとトーマス・ハーンの対戦は,「単一のスポーツ行事としては史上最も収益の多いもので,総額3,700万㌦(約85億1,000万円)が見込まれていた」とのことです。最近,米国の8人の野球選手が,「年俸平均50万㌦(約1億1,500万円)から92万6,000㌦(約2億1,300万円)」の契約にサインしました。ロサンゼルス・ドジャースの有名なメキシコ人投手,フェルナンド・バレンズエラは,品物の推薦広告料からだけでも1シーズンに30万ないし50万㌦(6,900万ないし1億1,500万円)をかせいだと伝えられています。アルゼンチンの日刊紙ラ・ナシオンによると,ボーカ・ジュニアーズ・サッカー・クラブは,アルゼンチンの花形サッカー選手の一人である「ディエゴ・アルマンド・マラドーナを確実に獲得するための第1回の支払い」として約2億3,000万円相当の手付金を支払いました。オーストラリアからは次のような報告が寄せられています。「今や,フットボールは天井知らずの利潤を生む大企業になっており,ビクトリア州のフットボール・リーグの12のクラブは各々幾百万オーストラリアドルの年間総売上げがある」。

大企業がスポーツにかかわるようになった最終結果は何ですか。暴力行為の増大です。なぜでしょうか。それは,スポーツが今や観客やテレビ局からばく大な収益を上げることが求められるようになったからです。それは,大量の現金が絶えず確実に流れ込んで来るようにするため,消費者とも言える人々をスポーツ中毒者に変えなければならないことを意味しています。それはどのように行なわれるでしょうか。客の求めるもの ― 興奮 ― を与えることによってです。そして,その興奮は普通暴力行為を意味します。このようにして独自に回転するサイクルが出来上がります。ファン(“fanatics”[熱狂者]の略)が暴力行為を望むので,コーチはそれを教え,また要求しなければなりません。また,実業界の大立て者も利益を求めます。一方マスコミは,自分たちの販売部数を飛躍的に伸ばすために,賛辞と非難を織り交ぜます。この悪循環のただ中で身動きが取れなくなっているのは,刺激や興奮や暴力行為という商品を提供しなければならない選手たちです。

観客の暴力行為が起きるのはなぜか

スポーツ界の今日の法外な俸給や賞品は,暴力行為を引き起こす第二義的な動因を生みました。どのようにでしょうか。観客は高い俸給を受けているプロ選手を見るために高いお金を支払います。そのため,観客は常に完全なものを求めます。失敗や休みは認められません。ボストン大学のジョン・シェファーズ教授は,この過程を見事に説明してこう述べています。「俸給を受け過ぎていると思われ,時にはつむじ曲がりであると見られ,確かに腐敗しているとスポーツ・ファンからみなされている選手に対する敬意が減少するのは当然の帰結である。結果として,プロ・スポーツ界の人々は芸当をするアザラシよろしく,何をするにしてもいつも完全であることが求められ,選手たちは人間として扱われず,経営者や観客の目には商品とみなされる」。

論理的に言って,この過程はどんなことに行き着きますか。観客の暴力行為です。でも,どうしてそうならなければならないのでしょうか。では,スーパーマーケットで不良商品を買わされたらどうしますか。支配人か生産者に苦情を言って,補償を期待します。では,演技が意に満たない場合,スポーツの行なわれている競技場でどのようにして苦情を述べるのでしょうか。補償を求める公式の経路がないので,失望したファンは感情を爆発させ,自然に暴力行為を引き起こすのです。

過去20年間に,観客の暴力行為はさらに二つの要素,つまり麻薬とアルコール飲料により増し加えられてきました。ファンの多くがスポーツの行なわれる競技場にやって来る時には,すでに酔っていたり,麻薬に陶酔したりしているか,あるいはそうなりつつあります。しかも,試合中そのような気分を保つために余分のビールやマリファナを準備してきているのです。試合が進むにつれて群衆は暴徒と化し,抑制力は消失し,その結果「狂気の暴力ざた」という見出しが次の日の新聞に載るのです。

ヨーロッパでは観客の暴力行為が目に余るようになったため,多くの国々は試合に特定のファンが来ることを望まないほどです。「イングランドのファンは金輪際お断り!」 これはスイスの静かな都市バーゼルでイングランドを応援する人々が荒れ狂った後,スイスのその都市から出されたメッセージです。スペインのバルセロナ市の下町に住む人々は,1972年にその町の街路をパニック状態に陥れる種をまいた,グラスゴー・レンジャーズのファンのことを考えるとぞっとします。事態が悪化しているという事実は,恥ずかしい思いをした一人のイングランドの後援者の次の言葉に示されています。「私は13年間というもの我が軍の海外遠征に同行したが,事態が悪化の一途をたどっているのを目にしてきた。今では,チェルシー市やウエスト・ハムやマンチェスターあたりからの不作法者[無頼漢]がもめ事を起こすだけのためにやって来ている。こうしたやからは試合を見ることさえしない」。

解決策はあるか

競技場の内外を問わず,スポーツにかかわる暴力行為は今や一種の世界的な疫病になっています。ありとあらゆる種類の一時しのぎの解決策が提案され,試されてきました。世界各地の競技場の多くでは,今ではファンが動物園の野獣のように,堀で隔てられた上,金網で囲われています。中には,相対するチームのファンが別個の区画の観客席に座るよう規制されている競技場もあります。警官や機動隊も強化されています。当局者の中には,暴力行為をする選手や観客を対象とした厳しい法律と罰則を設けるよう提案している人もいます。スポーツマンは,アイスホッケーのようなスポーツにおける特定の暴力的なプレーを禁止するよう提唱してさえいます。「しかし,これが入場券の売上げにどんな影響を及ぼすかを恐れるチームのオーナーは,決してそれに基づいて行動しようとしなかった」。

明らかに,法律を制定することによってスポーツマンシップやフェアプレーの精神を人々の心や思いに入れることはできません。それは,生活に対する平衡の取れた取り組み方に欠くことのできないものとして教えられなければなりません。しかし,それは可能でしょうか。もし可能なら,読者やお子さんはどうすればその益にあずかれるでしょうか。どうしたら,スポーツを命懸けの苦しい体験ではなく,健全で楽しい活動にすることができるでしょうか。

[4ページの図版]

スポーツと暴力の災禍

ニューヨーク・タイムズ,1981年10月18日

乱闘騒ぎを顧みる

ガーディアン,1981年11月7日

試合中の暴力事件: フットボール選手死亡

オーストラリアン,1980年9月15日

ファンの暴力行為の示

ニューヨーク・タイムズ,1980年7月27日

暴力的になるファン

デーリーニューズ,1981年10月16日

ゴールデン・グローブ賞のボクサー死亡 試合に敗れた直後

エクスプレス,1981年3月2日

[5ページの図版]

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