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目ざめよ! 1982
目82 12/22 4–5ページ

広島の当時の状況

地球は核戦争で滅びるか

それは1945年8月6日の朝8時16分のことでした。広島市の人々は目を覚まして,1日の活動に取り掛かろうとしていました。暑いながらも,のどかな朝でした。

その瞬間,幾万もの人々が黒焦げになり,吹き飛ばされ,押しつぶされて死にました。人口34万の都市の中心部は完全になぎ倒されてしまいました。

まだ息のある被爆者たちが信じがたいような有様でうごめいていました。当時幼い少女だったある人は思い出を次のように語っています。「気が付くと,私は木の破片に覆われ,地面に倒れていました。周りを見回そうと力を振りしぼって立ち上がったのですが,あたりは真っ暗でした。ただもう恐ろしくて,自分だけが死の世界にいるように思われました。そして光を探し求めました。……ふと,母と妹はどうなったのだろうかと心配になりました。……暗やみが薄らいでゆき,周りには何もないことが分かりました。私の家も,隣の家も,その隣の家も皆跡形もありません……静かで,非常に静かで,無気味な瞬間でした。私は母が水溜めの中にいるのを見付けました。母は気を失っていました。私は『お母さん,お母さん』と叫び,意識を取り戻させようと母を揺さぶりました。意識を回復すると,母は狂ったように,『えい子! えい子!』と妹の名を大声で呼び始めました」。

その叫び声に,ほかの人々の叫び声が重なりました。「忘れられぬ火」という回想録に収められているこうした情景の中には,次のような記述も含まれています。

妊婦と思われる女性が死んでいました。そのそばには3歳ぐらいの女の子がおり,自分で見付けた空きかんに幾らかの水を入れて持って来ていました。それを自分の母親に飲ませようとしていたのです。

30分もしないうちに,空を覆っていたやみのとばりが幾らか上がり,火事あらし<ファイアストーム>が起こりました。ある教授は屋根の梁の下敷きになった妻を救い出そうとしていました。教授は炎のために前へ進めず,奥さんは「あなた,逃げてください!」と嘆願していました。夫や妻や子供や友人や通りがかりの人が,死にかけた人を火の中に残してゆくことを余儀なくされたために,そうした情景が数限りなく見られました。

爆発の1時間後に,同市の風下にある地区に“黒い雨”が降り始めました。放射性降下物は午後遅くまで降り続けました。幾時間もやむことなく激しくうず巻く不思議な風のため,煙と炎の大火災全体が一層勢いを増しました。やけどを負ったりけがをしたりしてぼろぼろになった人々が列をなして,火事あらしの中から出て来るようになりました。ロバート・ジェイ・リフトンは自著「命の中の死」の中で,ある食料品商の次のような言葉を引き合いに出しています。「人々は腕を曲げたままでした。……そして手だけではなく,顔や体の皮膚までが垂れ下がっていました。……道端で死ぬ人は少なくありませんでした。今でもその人たちのことが頭に浮かんできます。生きた幽霊のようでした。この世のものとは思えなかったのです」。

中には吐き気を催している人もいました。これは放射能症の初期の兆候です。身体的な虚脱に,感情的また霊的な虚脱が伴いました。人々は感覚を鈍らせ,ものうげに,また一言も口にせずに苦しんで死んでゆきました。「歩くことのできる人々は遠くの丘にある,郊外の住宅地区に向かって黙々と歩いていたが,意気消沈し,進取の気象を全く失っていた」と,ある博士は自著「ヒロシマ日記」の中に書きました。

広島に投下された爆弾による死者の数は,3か月たたないうちに推定13万人に達しました。それでも,死者はまだ出ており,最終的にその数は確定されていません。爆弾投下後数週間して,数えきれないほどの生存者たちが皮膚出血を起こすようになりました。吐き気と熱と渇きを伴うこの最初の兆候に続いて,容態が軽くなってむなしい希望を与える時期があります。しかし遅かれ早かれ,放射能が再生細胞,特に骨髄を冒します。そして,脱毛,下痢,および腸・口・体のその他の部分からの出血などを含む最終段階を経て死に至ります。

放射能にさらされた結果,人々は実に様々な病気にかかりました。生殖の過程に変化が生じました。先天性障害,白内障,白血病およびその他の形のガンが,広島の被爆者たちの行く末を特徴付けるものとなりました。

ところが,この爆弾は小規模なものでしかないのです。12.5キロトンというその破壊力(TNT火薬1万2,500㌧に相当)は今日では単なる戦術的な兵器としかみなされていません。それに比べ,水素爆弾はその1,600倍の力を出し得ます。現在の世界の核軍備のレベルから言えば,広島で起きた惨事はその100万分の1にも満たないものでしかありません! ジョナサン・シェルは次のように書いています。「広島の人々の経験……は,この全世界が常に陥ろうとしている状況のひな型になっている。それは日常生活という表面のすぐ下に横たわり,いつでもその日常生活に飛び込んで来る可能性のある,ほとんど想像もしないような戦りつの下敷きとなっている」―「ザ・ニューヨーカー」誌,1982年2月1日号。

世界はこのような仕方で終わるのでしょうか。

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広島に投下された爆弾による死者の数は,3か月たたないうちに推定13万人に達しました。それでも,死者はまだ出ており,最終的にその数は確定されていません

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