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  • 「初めは爆撃機機長でしたが,最後にはハトのようになりました」
  • 目ざめよ! 1984
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目ざめよ! 1984
目84 10/22 20–23ページ

「初めは爆撃機機長でしたが,最後にはハトのようになりました」

そのごう音はいたってなじみ深いものでした。頭上高く青空に舞い上がったのは,私がよく操縦していたのと同じ第二次世界大戦の遺物とも言える飛行機,B-17でした。しかし,今のその飛行機の使命は爆弾を落とすこととは全くかけ離れています。積み荷は,森林を保護するための,延焼防止用の化学薬品でした。それでも,あの古い“空飛ぶ要塞”の姿を見,音を聞いて,私の心はかき立てられ,機長時代の良い思い出やいやな思い出がどっとよみがえってきました。

物心がついて以来,私は空を飛びたくて仕方がありませんでした。1930年代にウィスコンシン州の北東部で少年時代を過ごした兄のロバートと私は,バルサ材と薄い紙で模型飛行機を作ることに時間を費やしました。土曜日になると,家の雑用もそこそこに,自転車で郡の空港に出かけ,古い複葉機の離着陸する様子をながめました。

空を飛びたいという願いは大人になっても消えなかったので,第二次世界大戦が始まった時,私は1942年11月に陸軍航空隊に入隊しました。祖国に仕えることができると同時に,私の人生の目標,空を飛ぶことが実現するのです。

1944年8月4日,私は少尉となっての念願の飛行機乗りの資格を得,その十日後にはメアリー・アンと結婚しました。戦時だったので二人の新婚旅行は短縮され,航空基地へ帰るバスの旅がその旅行になりました。

私は,フロリダ州のゼブリングへ行って有名なB-17の操縦の仕方を学ぶよう命じられました。この飛行機には背中,腹,機首,あごの部分,尾部に回転銃座があって全部で13の機関銃が据えつけられており,3㌧の爆弾を運ぶことができました。空飛ぶ要塞というあだ名が付いたのも当然です。

1945年の早春には第8航空軍に割り当てられ,真新しいB-17を与えられて英国での戦闘に赴く予定になっていました。私は誇りをもってこの飛行機にメアリー・アン2世という名を付けました。私がこの飛行機を深く愛していたので,妻から冗談半分に,あなたは重婚罪を犯している,と責められたものです。

ところが,ローマ・カトリック教徒であった私は,ローマ・カトリック教徒が大勢住む都市を爆撃することについて考え,悩まされるようになりました。『基地で生活しているカトリックの司祭なら助けてくれる』と私は考えました。

私は軍務に携わるその司祭にこう尋ねました。「私が南ドイツのある都市に爆弾を落として1,000人が死亡するとしましょう。そのうちカトリック教徒はどの位いますか」。

「約95%ですね」と司祭は答えました。

「では,私はどんな権利があって,同じ宗教を持つ950人の命を奪うことができるのですか」。

「我々は正義の戦いを行なっているのです」と司祭は答えました。

「どうして正義の戦いと言えるのですか」と私。

「あなたは祖国を守っているのです」。

「我々はイタリアとドイツを侵犯しているのです」と私は当惑して言いました。「向こうだって,祖国を守るわけだから正義の戦いを行なっていると考えるのではありませんか」。

「そんなことはありません。正義の戦いを行なっているのはわたしたちのほうです」と司祭は答えました。

その答えで私はますます混乱してしまいました。それから司祭にこう尋ねました。「法王やイタリアの司教や司祭が,我々と戦うようイタリアの軍隊を祝福したのはなぜですか。ドイツの司祭が今ドイツの軍隊にも同じようにしているのはなぜですか」。司祭は私の肩をやさしくたたいてこう答えました。「信仰をもたなければなりません。わたしたちに責任はないのです」。

私は失望しました。ローマ・カトリック教会に対するわずかに残っていた信仰も急速にしぼんでゆきました。しかし,やがてこのジレンマからも脱却しました。英国へ飛び立つわずか1週間前に,ドイツが降伏し,メアリー・アン(妻ではなくB-17のほう)を政府に返却する運びとなったのです。私は木場の小売商という新しい仕事を始め,やがて共同所有者になりました。このころに息子が生まれ,私たちは家族として落ち着きました。

1947年にはアル・エルクイストが私たちの生活に入り込んできました。この人はウィスコンシン州のエホバの証人の全時間の開拓奉仕者でした。妻の家族のある者がアルと聖書を勉強し始めた時,メアリー・アンも参加したのです。

私はこれが全く好きになれませんでした。私にとって聖書はなじみの薄い本でした。司祭は聖書を読むようにと一度も励ましてくれませんでしたし,妻が新しい宗教を家に持ち込もうとすることに対しては腹が立ちました。私はエホバの証人に対しても,その神エホバに対してもねたみを抱くようになりました。夫こそ家庭内で最も重要な者であるといつも思い,妻が何かを知りたい時には,たとえそれが聖書であったとしても,まず夫に情報を求めるべきだと考えていたのです。

私の敵意を感じ取ったアルは,私のためにローマ・カトリック教会の聖書を入手するようメアリー・アンに勧めました。それから,「ノアは箱船の中に各々の種類の動物をどれほど入れたか」,「エデンの園で人間と動物は何を食べたか」といった,論争にならないような質問を私にするよう妻に提案しました。私のほうは全く答えが分かりませんでしたが,聖書に関する情報をもっと得たいという気持ちを確かにそそられました。

次に妻はこのような近づき方を試みました。「レイ,今わたしが聖書から学んでいる色々な新しい点について助けてくださらない?あなたはわたしよりもずっと論理的に考えることができますもの。わたしが間違ったことを信じたりするのはおいやでしょ?」

事の真偽を証明する根拠など私は全く持ち合わせていませんでした。ですから,カトリックの聖書のどこに煉獄とリンボについて教える聖句があるかと妻から尋ねられた時には助けが必要だと思いました。それで司祭に電話をし,カトリック教徒として私たちが信じている事柄を示す聖句を尋ねました。司祭は,これらの教えは直接聖書の中には出ているものではなく,初期のローマ・カトリック教会の神学から発展したものだ,と言いました。

この答えでは満足できませんでしたし,聖書に関する妻の質問攻めにも対抗できませんでした。私はいらいらし,エホバの証人との聖書研究をやめるようメアリー・アンに命令しました。

ところが,聖書の勉強をやめてしまう前にメアリーと私でひと月間聖書を読むことを承諾してもらうよう努力してみたほうがよい,とアルが提案しました。1か月が過ぎてもし私が読んでいることを理解できない場合には,アルは私と聖書を研究することになるのです。

私は挑戦となる事柄が何でも好きでしたから,この提案を退ける気持ちはありませんでした。世界的に有名なこの本を読み,それを理解できないはずがありません。それで妻と私は一緒に創世記から聖書の5番目の本,申命記までを読み始めました。

30日がたって,妻は,「お読みになったことが分かりました?」と尋ねました。私は,エチオピア人がクリスチャンの福音宣明者フィリポにしたのと同じ答えをしました。いいえ,理解できません。私には導きが必要でした。(使徒 8:30,31)そのため,約束を厳守する人間であった私はアルとの聖書研究に同意しました。ただし,隠れた動機がありました。何とかしてアルを打ち負かし,アルとあのエホバの証人たちがどれほど間違っているかをメアリー・アンに教えようと思ったのです。

アルの週ごとの訪問の前に,私は朝の早い時間まで起きていて,アルを困らせる方法を考えました。でもそれはできませんでした。アルに挑戦的な質問を投げかけると,いつも次のような形の答えが返ってくるのです。まず,物事を深く考えたことをほめます。それから,「私の考えていることを聞きたいとは思っておられないはずです。では,この問題について聖書が述べていることを調べてみましょう」と言うのです。わずか数分間で,アルは親切な愛のある,そして説得力のある方法で,聖書について推論させ,幾時間もかけた私の努力を打ち砕いてしまうのです。

9か月間にわたるこの勝負に完敗した私は,降参し,真剣な聖書研究に身を入れるようになりました。私は急速に進歩でき,妻と私は1950年11月19日にバプテスマを受けました。

この事を知った母は,「息子たちは教会を離れてしまう!」と司祭に泣きつき,私と兄のロバートを「救う」よう司祭に嘆願しました。ロバートも関心を示し始めていたのです。私の両親の家で,司祭,母,兄夫婦,私たち夫婦との集まりが取り決められました。

「ご両親の宗教を離れるとは,大罪を犯しています」と司祭は非難しました。私は,「では処女マリアはどんな宗教の中で育てられましたか」と尋ねました。「ユダヤ教ですね」と司祭。「マリアはユダヤ教の信仰をもって死にましたか,それともクリスチャンとして死にましたか」と私が尋ねると,「クリスチャンとしてですね」という答えが返ってきました。「それでは,マリアも親の宗教を離れることによって大罪を犯したのでしょうか」。

この質問,および人間の魂,三位一体,地獄の火に関する他の質問に対して司祭は答えられませんでした。その時から母も兄夫婦も聖書研究において進歩を遂げ,最後にはエホバの証人の手でバプテスマを施されました。母は7年前,エホバへの忠実のうちに亡くなりました。

妻はやがて全時間の福音宣明者として奉仕すべきであると考えるようになり,息子が7歳になり学校に入った1956年の1月に全時間奉仕者として奉仕し始めました。でも私は木場の仕事に拘束されていました。家族の物質的な必要を賄わなければならない,と考えたのです。実際には,湖畔に大きな家を建て,滑走用フロートと水上スキーの付いた飛行機を持って私なりのささやかなパラダイスを始めたいと思っていました。私は何とまだ空を飛ぶことを愛していたのです。

そういうわけで私は,一日10時間を客やその問題を相手にしながら木場で費やし,疲れきって家に帰ってきました。一方妻のほうはといえば,開拓奉仕から家に帰って来ても自分の聖書研究生の進歩や自分が見いだした関心ある人々に心がさわやかにされ,熱心さにあふれているのです。

私は良心に責められるようになりました。全時間宣べ伝えながら家族を養うことができることに気づきました。それに,木場の仕事が私の霊性を抑えつけていることも分かりました。それで結局エホバの証人の奉仕者として全時間奉仕を始める目標の日付を1957年6月1日と定めました。

生活の再調整に忙しくなりました。木場の仕事の株を売りました。家を売り,トレーラー式の移動住宅を購入しました。しかしそれには私たちの家財すべてはどうしても入りません。ところが,思ったよりも少ない品物で生活できることがすぐに分かってきました。

父は1962年に亡くなり,私たちはミネソタ州の南西部で4年間全時間宣教を行なってから,母を援助するためにウィスコンシン州へ戻りました。家族を支えるために小規模な清掃の仕事を始めました。私の最初の仕事ですか。自分が副社長をしていた木場の会社の事務所でした。正に,高慢の鼻を折るような経験でした。

1969年には息子が結婚し,母親の面倒をよく見てくれました。妻と私は宣教を拡大し,ものみの塔協会の旅行する代表者になりました。最初の割り当ては,ノースダコタ州の第1巡回区の巡回監督でした。兄夫婦のロバートとリーもやはり巡回の業に入りました。

私たちは今7番目の割り当てをいただいており,これまで会った兄弟姉妹たちは1万350人を数えます。もし私たちがこの奉仕の特権を拒んでいたら,そのうち何人の人と知り合いになれたでしょうか。

こうして回顧してみると,私たちの必要を賄うことについての心配が全く根拠のないものであることが分かります。メアリー・アンも私も,ダビデ王が詩編 37編25節で述べたのと同じように感じています。「わたしはかつては若者であったが,わたしもまた年老いた。だが,義なる者が完全に捨てられるのを見たことも,その子孫がパンを捜し求めるのを見たこともない」。―レイモンド・ハーストの語った経験。

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ローマ・カトリック教徒であった私は,ローマ・カトリック教徒が大勢住む都市を爆撃することについて考え,悩まされるようになりました

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私は失望しました。ローマ・カトリック教会に対するわずかに残っていた信仰も急速にしぼんでゆきました

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私はエホバの証人との聖書研究をやめるようメアリー・アンに命令しました

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彼らが間違っていることを証明しようと思って研究を始めましたが,この勝負に完敗した私は,降参し,真剣な聖書研究に身を入れるようになりました

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