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目ざめよ! 1985
目85 2/8 4–7ページ

偏見の表われ方

ある研究者が一人の男性に特定の民族に対するその人の見解を求めました。するとその人は,「あの人たちは気まぐれで,短気だ。そういう血が流れているのだ」と答えました。

「この民族の中に知っている人がいますか……それも個人的に」という質問がなされました。

『ええ,一人知っています。彼は高校時代わたしたちの学年の生徒会長でした』。

『その“生徒会長”はこの民族に対するあなたのイメージ通りの人でしたか』。

「いいえ,彼は冷静で,気持ちの良い人でした」とその人は認めました。

『それではその人には,「気まぐれで,短気」な「血が流れて」いたとは言えませんね』。

少し間を置いてから,その人はこう答えました。「彼は例外ですよ」。

偏見を抱く(「早計な判断」を下す)とは,公正に吟味をすることなしに,他の人々を裁くことです。こうして全く見ず知らずの人が十把ひとからげに,何の根拠もなく,先入観に基づいて,“なまけもの”,“こうかつな人間”あるいは“危険人物”といったレッテルをはられてしまいます。これは偏った見方をする人が,個人ではなく集団を見るからです。その人にとって,ある民族に属する人は「みな同じような人間」,個性を持たないクローンのような存在です。そして冒頭に挙げた例からも分かるように,偏見を持つ人は大抵の場合,自分の持つ偏った見方をあくまでも守り,事実を挙げられて間違っていることが証明されても自分の考えを曲げません。「今日の心理学」誌が取り上げているように,偏見を持つ人々は,「[ある]人が一つの決まった型に当てはまると思える行動を取るときにはそのことに注目し,それを覚えるきらいがある一方,その決まった型とは相入れない証拠のほうは受け入れようとしない」と言われています。

偏見は偏見そのものによって培われます。不利な鋳型に入れて鋳込まれた人々は,大抵の場合に自尊心を失ってしまう結果,期待されている程度のことしか実際に行なわなくなります。あるいは,聖書が伝道の書 7章7節で述べている通りの結果になります。「単なる虐げが賢い者に気違いじみた行動を取らせることがあ(る)」。虐げの犠牲になる人々はうらみの気持ちに捕らわれてしまうことがあります。偏った見方に対して異常なほど敏感になって時に過激な反応を示し,実際に偏見がないのに偏見があると思い込むことがあります。別の人種の人と見れば相手かまわず不当に疑惑の目を向けたり,敵になりかねない者とみなしたりします。ですから偏狭な態度は何も一つの人種あるいは国民の専売特許ではないのです。

人の考え方が一度偏見に捕らわれると,ほとんどすべての民族を嫌うようになりかねません。幾人かの大学生が,32の実在する国々や人種と三つの架空のグループ(「ダニエリア人」,「ピレニア人」そして「ワロン人」)に対する自分の感情を言い表わすよう求められたことがありました。奇妙に思えるかもしれませんが,実在する民族に対して偏見を抱いていた学生たちは,「ダニエリア人」,「ピレニア人」そして「ワロン人」もそれと同じほど好ましくないと感じていました。

偏見 ― どのように表われるか

偏見を抱く人は必ずしも敵意をあらわにする人ではありません。また,必ずしも,『自分の親友の中には』このグループあるいはあのグループに属する人がいると偽善的に公言しておきながら,そのような人が近所に住むようになることやそのような人と姻戚関係になることを考えるとしりごみするような人だというわけでもありません。偏った見方にはさまざまな程度があります。偏見を抱く人は確かに別の人種の友人を持っているかもしれませんが,なかなか消え去ることのない優越感を巧妙な仕方でたびたび表に出します。趣味の悪い,人種差別的な言葉を使って,友人たちの忍耐を試みるかもしれません。あるいは,それらの人たちを自分と平等な人間として扱わず,恩着せがましい態度を取り,友達になってやっているというような行動を取るかもしれません。

人が偏見をあらわにする別のやり方は,ある人に普通より高い水準の出来栄えを要求しながら,その人を余り高く評価しないというものです。そして,そのような人が失敗をすると,その失敗を人種のせいにしたがるかもしれません。あるいは自分と同じ人種の人が行なっても大目に見るような行為を別の人種に属する人がすると,それを非とするかもしれません。それでも,自分が偏見を持っていると少しでも言われようものならひどく憤慨します。完全に自己欺まんに陥っているのです。詩編作者がかつて述べた通りです。「彼は自分の目から見て非常に滑らかに自分に対して行動したので,自分のとがを見いだしてそれを憎むこともできない(の)です」― 詩編 36:2。

「4歳になるまでに」

しかし,どうして人々は偏見を抱くようになるのでしょうか。人はどれほど早い時期に偏見を抱くようになるのでしょうか。社会心理学者のゴードン・W・オールポートは,「偏見の本質」と題するその古典的な著作の中で,「分類の助けを借りて物を考える」という人間の思考の傾向に注目しました。これは幼い子供にさえ見られます。子供たちはほどなくして,男と女,イヌとネコ,木と花,それに“黒人”と“白人”の違いをさえ識別することを学びます。幼い子供は“人種の区別をしない”という概念とは裏腹に,さまざまな人種に接する幼児はほどなくして,「皮膚の色,顔の造り,髪の毛の種類など身体的な特徴の相違」に注目するようになり,「子供たちは……概して,4歳になるまでに人種的な集団を十分意識するようになる」という点で研究者たちの意見は一致を見ています。―「ペアレンツ」誌,1981年7月号。

しかし,そうした相違に気づくだけで,子供たちは偏見を抱くようになるのでしょうか。必ずしもそうではありません。ところが,「子供の発達」誌に載せられた最近の研究論文は,「5歳児が幼稚園に入る時には,同じ皮膚の色の仲間と交わり合うことのほうをはっきり好むようになっている」と伝えました。それ以上に当惑させられるのは,「子供たちが同じ皮膚の色の遊び仲間を選ぶ傾向は幼稚園にいる期間中に強まる」(下線は本誌。)という観察です。他の研究者たちもやはり,幼い子供たちが大抵の場合に人種についてだけでなく,人種の暗示するところにも気がついているという結論を出しています。ジョーンという名の4歳の少女はかつて,次のような,ぞっとするようなことを言いました。「白い人は上に行ってもいいわ。茶色い人は下へ行かないとだめ」。

子供たちがどうしてそのような偏った見方を身に着けるのかは研究者たちにもよく分かっていません。しかし,その原因ではないかと主に考えられているのは,親の影響です。なるほど,自分の子供に別の人種の子供と遊ばないよう直接命ずる親はほとんどいないかもしれません。それでも,親が別の人種の人に対して偏った見方をしていたり,単に態度がぎくしゃくしていたりするだけでも,それを観察すれば,子供は自分も同じように消極的な態度を取るようになるでしょう。次いで,文化の相違,仲間やマスメディアの影響,およびその他の要素が一緒になって,この偏見を強化することがあります。

いやな経験

とはいえ,ある人々にとって,偏見はいやな経験に対する度を超えた反応であるとも思えます。一人の若いドイツ人の女性は夫に同伴してある仕事のプロジェクトのためにアフリカへ出掛けました。この女性はそこでさまざまな問題に直面しました。彼女が女性であるという理由で,またヨーロッパ人であるという理由で,ある人たちは彼女に対して偏見を抱いているように思えました。一部の人々の態度も,ヨーロッパ育ちの彼女の感性に衝撃を与えました。ほんの一握りの人々の引き起こした問題のことをくよくよと考えているうちに,黒人すべてを嫌うようになってしまいました。

20年ほど前に米国に住んでいた西インド諸島出身の学生の場合にも同様のことが言えました。きちんとした身なりで礼儀正しく振る舞っていたにもかかわらず,この人はあるレストランで食事を出してもらえませんでした。「ここにはあなたのような人に出す食事はありません」と言われたのです。それまで人種差別を経験したことがなく,当時存在していた人種間の緊張についても知らなかったので,この学生は食事を出すよう要求しようとしました。その結果即座に逮捕されてしまったのです。市長がこの人を釈放するよう命じ,警察を譴責しましたが,この事件は彼に苦々しい気持ちを抱かせました。長い年月を経た後も,この人は白人に対し依然として敵意を抱いていました。

ほかの場合には,「偏見の本質」の中で指摘されている通り,他の人を卑しめることが高い地位に対する人の飽くことのない渇望を満たすように思われます。それは,『自分のことを必要以上に考える』ことです。(ローマ 12:3)ある特定のグループに対する抑圧を“正当化”するために,人種の優越性に関する社会的通念が作り出されるかもしれません。例えば,米国で奴隷貿易が行なわれていた悪名高い年月の間,黒人が精神的に劣っているとか普通の人間以下であると宣言されるのは珍しいことではありませんでした。こうした考え方が極めて広く見られたために,歯に衣を着せずに奴隷制を批判したa 米国の大統領トマス・ジェファーソンでさえ,かつて,「黒人は……心身両面の才能の点で白人よりも劣っている」という「疑念」を言い表わしました。そのような考えを維持することはできないことが科学により証明されているにもかかわらず,人種差別はいつまでもなくなりません。

なぜでしょうか。研究者たちが見過ごしているとはいえ,最も基本的な理由は聖書の中にはっきりと示されています。「それゆえ,一人の人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪をおかしたがゆえにすべての人に広がったのと同じように」。(ローマ 5:12)物事に対する人の見方や考え方は受け継いだ罪のためにゆがめられています。相違があることに興味を覚えたりその相違を楽しんだりするよりも,人はそうした相違に対して恐れや不安感をもって反応します。そして,幼い子供の不完全な心の中からも,驚くほど多くの「邪悪な推論」が出て来て,それが破壊的な偏見へと育ってゆくことがあります。(マタイ 15:19)では,偏見を克服することは可能でしょうか。

[脚注]

a ジェファーソンは,「すべての人は平等に作られている」と宣言したアメリカ独立宣言を起草しました。また,かつて奴隷制を「恐怖の塊」と呼んだことがありますが,自らは奴隷所有者でした。

[6ページの拡大文]

ほんの一握りの人々の引き起こした問題のことをくよくよと考えているうちに,皮膚の色の違う人すべてを嫌うようになってしまった

[5ページの図版]

偏見のために,人々が互いに疑いを抱くようになることがある

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