ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目85 3/8 12–14ページ
  • 証人たちに対するナチとファシストの攻撃

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 証人たちに対するナチとファシストの攻撃
  • 目ざめよ! 1985
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 100年
  • 強制収容所へ!
  • 「このやからをドイツから根絶せよ!」
  • ファシズムは証人たちの業をやめさせようとする
  • 暴露されたナチズムの悪
    目ざめよ! 1995
  • ナチスによる大虐殺<ホロコースト> ― 犠牲者それとも殉教者?
    目ざめよ! 1989
  • 全体主義の異端審問所から救わる ― 神への信仰を維持することにより
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
  • エホバの証人 ― ナチによる危機に直面しても勇気を示す
    目ざめよ! 1998
もっと見る
目ざめよ! 1985
目85 3/8 12–14ページ

証人たちに対するナチとファシストの攻撃

100年

米国の証人たちに対する暴力行為は,数年後にナチのドイツおよびファシストのスペインとイタリアで頭をもたげた暴力行為と比べれば実際には穏やかなものでした。1933年に,アドルフ・ヒトラーはドイツにおける12年に及ぶその独裁制を敷き始めました。それと前後して,ナチズムに服従しないグループに弾圧が加えられました。

1933年4月には,ものみの塔協会が共産主義と結託している証拠を見いだそうとして,ナチの警察がマクデブルクにある協会の工場を占拠しました。その証拠は見つかりませんでしたが,突撃隊員たちは6月に再びやって来て,工場を閉鎖し,その建物にかぎ十字の旗を掲げました。6月29日にこの措置はラジオを通してドイツ国民に伝えられました。ドイツ・ルーテル教会はナチスと協力し,“熱心な聖書研究者”に対する禁令が出たことを喜びました。ドイツの証人たちはそのような名前でも知られていたのです。a ルーテル派の牧師オットーは次のように述べました。「このような協力の最初の成果として,ザクセン州における熱心な聖書研究者たちの国際協会とその下部組織の活動が本日禁止されたことをお知らせできます」。エホバの証人に対する戦いが始まったのです。

強制収容所へ!

ナチ・ドイツのエホバの証人は,世から離れているようにというイエスの語られた定めに付き従い,選挙で投票することを拒否しました。ナチ党員たちは証人たちを公の場で辱めました。ザクセン州オシャツに住むマクス・シューベルトは,「私は投票しなかったので,ならず者で,祖国に対する裏切者です」というサインを持った突撃隊員と共に荷馬車に乗せられ,行進させられました。シューベルトは人々が「こいつはどこへ行くべき人間か」と繰り返し唱える中で街路を行進させられました。暴徒は,「強制収容所行きだ!」と答えました。ほどなくして幾千人ものエホバの証人がそれら悪名高い収容所に送られました。収容所の状況はどのようなものでしたか。

ドイツの状況について書いた英国政府の公式刊行物によると,すでに1933年に,「むち打ちや拷問は日常茶飯事で,国家社会主義[ナチ]運動がその運動に無思慮にも反対する者たちに対して恐ろしい報復措置を取っていることはドイツでは周知の事実となって」いました。ブーヘンワルト強制収容所で苦しみに遭ったひとりの元収容者はこう述べています。「作業時間は1日16時間で,日曜日も平日も同じであった。作業時間中は,暑い盛りでも飲み物を飲むことは禁じられていた。……言うまでもなく,作業は重い石を動かすことだった。その石は大抵の場合,栄養を十分に取った普通の人の力でもとても動かせるようなものではなかった」。

当時,英国の報告によると,強制収容所には約8,000人が収容されており,その中には「1,500人のユダヤ人と800人のエルンスト・ビーベルフォルシェル(国際聖書研究者)がいた。……ユダヤ人の収容者は月に2回手紙のやり取りができた。聖書研究者たちは外部の世界と何の連絡を取ることも許されなかった……ヘール Xはこれらの人々について最大級の敬意を込めて語っている。その勇気と信仰には驚くべきものがあった。彼らはどこまでも苦しみを甘受するつもりであることを言い表わした。……収容所では毎日だれかが死んでいった」。

ブーヘンワルトの別の元収容者は,収容者たちがどのようにこの“悲しみの新しい都市”に迎え入れられたかを説明しています。収容所の外で所長のレードルが次のような言葉で収容者たちを迎えました。「お前たちの中にはすでに刑務所に行ってきた者もいるだろう。そこで経験した事柄など,ここで経験することと比べたら何でもない。お前たちは強制収容所へ入るのだ。つまり地獄に入るということだ。……この収容所には2種類の刑罰しかない。むち打ちと死刑だ」。

強制収容所は幾百万もの生命という,身の毛もよだつような実を刈り取りました。それらの人々は倒錯した政治哲学の犠牲者です。それらの人々は計画的に卑しめられ,人間の尊厳をはぎ取られ,それから殺されました。それら幾百万もの犠牲者各人が個人的に味わった苦もんや苦しみを想像することができるでしょうか。

「このやからをドイツから根絶せよ!」

中には単に犠牲者にとどまらず,殉教者になった人々もいます。その人たちの場合,釈放してもらうこともできたからです。ある資料によると,ヒトラーとその親衛隊の部下たちが組織したサディズムと暴虐行為の犠牲者になったエホバの証人の男女1万人の場合がそうでした。それらの証人たちには,自分たちの宗教を捨てることをしたためた文書に署名して,自由の身になる機会が与えられました。それに応じた人はごく少数でした。―クリスティーヌ・E・キング博士著,「ナチ国家と新宗教: 不服従に関する五つの事例研究」をご覧ください。

上記の資料によると,1万人のうち約2,500人はついに自由の身になることはありませんでした。その人たちは,神エホバに,また模範となっておられるイエスに対する忠実を保って,ダハウ,ベルゼン,ブーヘンワルト,ザクセンハウゼン,ラベンスブリュック,アウシュビッツ,マウトハウゼンおよびその他の収容所で死んだのです。ガスで殺された人々のほかに,殴打や飢え,医学実験などの結果として死亡した人も少なくありませんでした。ほかにも,女性をも含め,絞首刑や打ち首,銃殺刑などに処せられた人々もいました。なぜでしょうか。ヒトラーの軍隊に入ったりヒトラーに救いを帰したりしてクリスチャンの中立の立場を侵すようなことをしなかったからです。それらの人々は世から離れていて,終わりまで忠実を保ちました。―マタイ 24:13。

1934年に,ドイツおよび他の国々のエホバの証人は,証人たちに対する残虐な仕打ちに抗議する電報をヒトラーに送りました。このことを聞いたヒトラーは「急に立ち上がるなり,両のこぶしを握りしめてヒステリックな声で,『このやからをドイツから根絶せよ!』と絶叫した」と,目撃証人は伝えています。50年後の現在,この「やから」は抹殺させられたでしょうか。

それどころか,彼らはますます盛んになっています。しかし,ヒトラーとそのナチズムは消滅してすでに約39年がたちました。それとは対照的に,今ではドイツ連邦共和国に10万7,000人を超える活発な証人たちがおり,それに加えてドイツ民主共和国には禁令下に置かれているさらに幾千人もの人々がいます。この「やから」は抹殺されませんでした。その数は増えて,ますます強力になっているのです。

ファシズムは証人たちの業をやめさせようとする

イエスが『あなた方は世のものではない……ので,そのために世はあなた方を憎むのです』と言われたことを忘れてはなりません。これはナチ・ドイツにおけるエホバの証人にだけではなく,世界中のエホバの証人に当てはまります。彼らはキリストの原則と模範に固く従ってきたからです。

第二次世界大戦前に,証人たちはイタリアでも禁令下にありました。1929年,カトリック教会がムッソリーニのファシスト政府との政教条約に調印した時,ブルックリンにあるものみの塔協会とイタリアの証人たちとの接触を押さえつける宗教的な弾圧の時期が始まりました。25人の忠実なイタリア人のエホバの証人から成る一グループには,2年から11年まで様々な刑期の懲役刑が言い渡されました。中にはその刑期を全うしなかった人々もいました。なぜでしょうか。ファシズムのほうが先に倒れて,証人たちは釈放されたからです。b

戦後,1946年に,イタリアには35の小さな会衆と交わる120人の証人たちがいました。今日ではどのような状況が見られますか。今やエホバの証人はイタリアで2番目に大きな宗教団体となっており,1,600ほどの会衆と交わる11万5,000人を超える活発なクリスチャンを擁しています。そうです,ますます強力になっているのです。

多くの国々について同様の話があります。例えば,1959年にスペインの内務省は,エホバの証人の活動に関して安全保障局の総局長に次のような指示を与えました。「したがって,前述の悪のこれ以上の進展を徹底的に阻むため,閣下は[すべての警察本部へ]回覧状を送り……その中でこれらの活動を単に警戒するだけでなく,この者たちを根絶する結果をもたらすような措置を取ることを命じなければならない」。―下線は本誌。

新たな迫害の波がスペイン全土を洗い,1970年まで続きました。幾百人もの証人たちが,単に聖書を研究したり,他の人々に宣べ伝えたり,政治的な問題で中立を保ったりしたために,罰金刑を受けたり投獄されたりしました。証人たちとその活動は根絶されましたか。それどころか,1970年には当局が渋々法的認可を証人たちに与えました。1959年には1,400人の証人たちしかいなかったのが,1970年には1万1,000人になったのです。それからわずか14年後の現在は,5万6,000人を超える証人たちがおり,840以上の会衆に組織されています。ものみの塔聖書冊子協会はマドリード近郊にりっぱな支部を持っており,そこではイベリア半島での需要を賄うための「ものみの塔」および「目ざめよ!」の両誌が印刷されています。では,第二次世界大戦に至るまでの,および同大戦中のナチとファシストの攻撃の波により,エホバの証人は根絶されたでしょうか。いいえ,証人たちはますます強力になっているのです。

[脚注]

a ナチの残虐行為に関する詳細な記録については,「エホバの証人の1975年の年鑑」,111-216ページをご覧ください。

b ファシストのイタリアで証人たちが生き伸びた詳細な記録については,「1983 エホバの証人の年鑑」,136-179ページをご覧ください。

[13ページの図版]

大勢の証人たちが悪名高い強制収容所で死亡した

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする