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  • ソッツィーニ派 ― 三位一体を退けたのはなぜか
  • 目ざめよ! 1988
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目ざめよ! 1988
目88 11/22 19–22ページ

ソッツィーニ派 ― 三位一体を退けたのはなぜか

「父は神であり,子は神であり,聖霊も神である。しかし,三つの神がいるのではなく,一つの神がいる」。アタナシウス信経は三位一体をそのように定義しました。キリスト教世界の諸教会は16世紀余りにわたってこの教理を教えてきましたが,今日でもそれは「キリスト教の基本的な教理」と呼ばれています。しかし,それは真実でしょうか。過去幾百年もの間に,少数の勇敢な男女が,しばしば命を犠牲にしてまでも,聖書の教えはそれとは異なっていると恐れずに主張してきました。

マイケル・セルベトはその一人でした。彼は生き延びるために逃亡生活を送りました。1553年のある春の日の明け方,敬意を集めていたその医師は上着とナイトキャップを身に着けたまま牢獄から脱出し,フランスの田舎へ逃げました。ウィーンで開かれたカトリック教会の当局者によるセルベトの裁判は,セルベトにとって非道な仕打ちを加えました。当局者はセルベトの素性を知っていました。カトリック教会自身の強力な敵である,ジュネーブのプロテスタントの指導者,ジャン・カルバンが,セルベトを売り渡すのに一役買っていたからです。

宗教改革のこの初期の時代,プロテスタント信者とカトリック教徒は互いに憎み合っていましたが,それと同じ程度,この一人の男に対する一層強い憎しみにおいて結ばれていました。その男の罪状は異端でした。マイケル・セルベトは,三位一体に関する諸教会の教えが聖書に基づいていないことを証明する本を幾冊も書いていたのです。彼は,「カトリックの三位一体や幼児洗礼,および教皇制度の他の秘跡は,悪霊どもの教理である」と述べました。

セルベトはどこへ行けばよいのでしょう。彼は,北イタリアに少数の追随者がいることを知っていたのかもしれません。それで決して人目につかないようにそこを目指して進み始めましたが,ジュネーブを通過していた時に変装を見破られてしまいます。カルバンはセルベトを当局に告発し,死刑へと追い詰めてゆきます。1553年10月27日,彼は股に自作の本を1冊結びつけられ,杭の上で生きたまま火で焼かれました。自分の敵のために祈りながら,また信仰の撤回を拒んで死んだのです。感銘を受けたある傍観者は,三位一体に反対の立場を取るようになりました。

セルベトの著作の影響をすでに受けていたイタリア人の一人,リーリアス・ソッツィーニは,この残酷な処刑に心を動かされ,自分で三位一体の教理について調べました。ソッツィーニも,三位一体には聖書的な根拠がないという結論に達し,甥の青年ファウストゥスに自分の確信を伝えました。ソッツィーニは自分のすべての書類と著作をファウストゥスに預けることまでしています。ファウストゥスはいたく心を動かされ,廷臣としての快適な生活を後にし,聖書から学んだ真理を伝える決意を次第に固くします。

ソッツィーニはカトリックの異端審問所に追跡され,北に向かって旅を続けました。ポーランドでは,自らを「三位一体を退けた……信者仲間」と呼ぶ再洗礼派の小グループに出会いましたが,彼にとってこの宗派は,間違いなく聖書の真理に最も近い団体でした。それでソッツィーニはクラクフに定住し,この団体を擁護するために筆を執り始めました。

彼らは何を信じたか

それらの人たちは後にソッツィーニ派と呼ばれるようになりましたが,彼らの第一の願いは,聖書の中で教えられている清いキリスト教を回復することでした。プロテスタントの宗教改革は,カトリック教会の腐敗と儀式の一部をすくい取ったにすぎず,核となる腐敗した部分,非聖書的な教えには全く手を触れなかったというのが,この派の人たちの考えでした。

この派の人たちは,周囲の諸宗教の例にもれず,多くの誤りを犯していました。とはいえ,宗教改革を行なったすべての宗派の中で,ソッツィーニ主義を奉じるこの細い流れは,ほかの大半の宗教よりも聖書に付き従っていました。次に幾つかの実例を挙げますが,それと,引照されている聖句を,ご自分の聖書を用いて比較なさってください。

彼らは再洗礼派と同様,幼児洗礼は非聖書的であると教えていました。つまり,聖書の中では,大人だけがバプテスマを施されています。ソッツィーニ派は,隣人を愛して戦争の武器を放棄することを求める聖書の命令を擁護する立場を堅く保ちました。カトリック教徒とプロテスタント信者がヨーロッパ全土を血で浸すことに没頭していた間,ソッツィーニ派は理由のいかんを問わず,戦争に行くことを拒みました。その中で,この聖書的な立場のゆえに命を落とした人たちは少なくありませんでした。さらに,戦争の罪に荷担する恐れがあるので,公職に就くことも拒みました。

その当時蔓延していた国家主義の精神も,彼らには通用しませんでした。真のクリスチャンはこの世界のどんな国に住んでいようとも外国人である,と彼らは考えていたのです。(ヨハネ 17:16; 18:36)彼らは高い道徳規準で知られ,ソッツィーニ派による神の言葉の説明によって生きようとしない人々,またその説明を受け入れようとしない人々は,だれであれ破門つまり排斥されました。―ヨハネ第二 10。コリント第一 5:11。

ソッツィーニ派の人たちは,ためらうことなくエホバという神の固有のみ名を用いました。特に高く評価されていたのは,神と神のみ子に関する知識を取り入れることは永遠の命を意味すると述べるヨハネ 17章3節でした。彼らは永遠の命を,真のクリスチャンすべての大いなる希望であるとみなしました。魂の不滅という教理は率直に退け,むしろ聖書にあるとおり,魂は死ぬが,将来の復活に基づいた命の希望があると教えました。―エゼキエル 18:4。ヨハネ 5:28,29。

地獄の火の教えも,非聖書的であるとして退けられました。ソッツィーニは,神がとこしえにわたって人を火で責めさいなみ,人が70ないし80年間に犯した罪を罰するという教えの不合理性をはっきり理解していました。ソッツィーニ派の初期の指導者の中には,地に対するキリストの千年統治について教えていた人さえいます。―伝道の書 9:5。啓示 20:4。

彼らが三位一体を退けたのはなぜか

しかし,ソッツィーニ派は,先のセルベトと同様,三位一体に関する諸教会の教えを退けたことで有名でした。彼らはなぜそうしたのでしょうか。その考え方は二つの方針に従ったものでした。まず第一に,それは非聖書的であると彼らは理解しました。

今日に至るまで学者たちは,聖書には三位一体に言及した箇所が全くないこと,また,その教理は“創造的神学”,すなわち4世紀の“キリスト教”をギリシャ哲学と融合させようとする試みであることを認めるのにやぶさかではありません。そのような教えは清いキリスト教を回復させる運動において,どんな場を占めることができるでしょうか。そのような場は全くありません。

セルベトについて一人の歴史家が述べたとおりです。「彼は,三位一体,ペルソナ,位格,本質,真髄など,聖書から取られたのではなく哲学者によって考案された語を用いる教理,またキリストが哲学的な抽象的存在にすぎないような教理に代えて,人が,生ける神に,歴史的な実在者であった神聖なるキリストに,そして人の心に永久に働く聖霊に信仰を置くようになることを願った」。セルベトは,ヨハネ 17章21節にあるような意味においてのみ三者が一つであると信じていましたし,聖霊は人格的存在ではなく,神の活動力であると考えていました。

さらにソッツィーニ派は,三位一体の教理のいわゆる聖書的な裏付けが極めて弱いことにも気づきました。三位一体論者が好んで用いるヨハネ第一 5章7節の聖句は改ざんされたもので,後代に追加された,霊感による記述ではないことはすでに周知の事実となっていました。別の聖句,ヨハネ 1章1節は,キリストを全能の神と同一視せず,「神性を備えていた」あるいは「神(a god)」と呼んでいることを理解する時に初めて,意味を成してきます。

しかし,三位一体に対する最大の打撃は,神とイエスと聖霊に関する聖書の記述そのものからすると,三者のうちのどの部分も,三位一体を構成することは全くあり得ないという事実です。なぜそう言えますか。まず何よりも,聖書の中で聖霊は人格的存在としてではなく,むしろ神の活動力として示されています。(ルカ 1:41。使徒 10:38)第二に,キリストがみ父と「同等かつ等しく永遠である」ことはあり得ません。聖書はキリストを,み父に従属する者,また神によって創造された者として描いているからです。(ヨハネ 14:28。コロサイ 1:15)最後に,ひとりの神と幾度も描かれているエホバが,現実に三者から成る神の一部であることが,どうしてあり得るでしょうか。―申命記 6:4。イザヤ 44:6。

ですから,ソッツィーニ派は聖書的な根拠に基づいて,三位一体を論駁しました。しかし彼らは,純然たる理性的判断をも根拠として,その教理を退けました。宗教改革を研究する一歴史家によれば,「ソッツィーニはこう考えた。……[聖書には]理性を超えた事柄が包含されているかもしれないが……理性に反する事柄は何も包含されていない」。神がひとりでありながら三つの位格を持つという矛盾した概念の伴う三位一体は,明らかに後者の範ちゅうに属します。この教理に関するセルベトの感じ方について説明したある歴史家の言葉にあるとおりです。「この教理はセルベトの頭を混乱させ,セルベトの心を温めたりその意志を鼓舞したりはしなかった」。

それにもかかわらず,ソッツィーニ派は教理上の歴然とした幾つかの誤りに陥りました。ソッツィーニとその追随者たちは,キリストの贖いの原理を否定したのです。しかし聖書は,キリストがその死により,人類をその罪深い状態から請け戻すための代価を払ってくださったことを明確に教えています。(ローマ 5:12。テモテ第一 2:5,6)誤りはほかにもありました。例えばソッツィーニは,キリストは人間となる前には存在していなかったと教えました。キリストが人間となる前に存在していたことは,聖書のもう一つの明確な教えです。―ヨハネ 8:58。

短命で悲劇的な歴史

小改革派教会(ソッツィーニ派の正式の名称)は100年ほどポーランドで隆盛を見,その絶頂時には会衆の数が300にも達しました。彼らはクラクフの北東部にあるラクフに集団居住地を設け,印刷機を組み立て,大学を創設しました。この大学には,遠く広い地域から,人々の尊敬を集めている教師や学生が引き寄せられてきました。印刷機からは20ほどの言語で約500種類の異なったパンフレット,書籍,冊子が生産されました。秘密裏にそれらをヨーロッパ全土に広めたのは,宣教師と旅行する学生たちでした。それらの著作に刺激されてその後の2世紀に出版された反ソッツィーニ派の文書は,一つの図書館を満たすほどになると言われてきました。

ところが,ソッツィーニ派はカトリック教徒とプロテスタント信者の双方から憎まれていたので,長く平和を保つことはできませんでした。ソッツィーニ自身,その信条のゆえに攻撃を受け,殴打され,暴徒に襲われ,危うく溺死を免れました。ソッツィーニが1604年に死亡する前でさえ,イエズス会はポーランドにおけるカトリック教会の優越性を再確立することに躍起になり,王に対する影響力のある立場へと徐々に進み始めていました。

ソッツィーニ派に対する迫害は激しくなり始めました。1611年にはソッツィーニ派に属する裕福な一人の人が財産を奪われ,舌の切断と,打ち首と,片方の手足の切断,その後の火あぶりが命じられました。もちろん,自分の宗教を変えさえすれば,平和に生活することができたでしょう。しかしその人は信念を変えませんでした。そして,ワルシャワの市場で,動揺することもなく,自分の処刑に立ち向かいました。

1658年,イエズス会はついに目標を達成しました。同会の勧めが効を奏し,小改革派教会のすべての会員は3年以内にポーランドを出なければならず,それに違反した場合には処刑される,という勅令が下ったのです。幾百人もの人が亡命を選びました。残忍な迫害が火を吹きました。わずかながら,亡命者の小さな会衆が,トランシルバニア,プロシア,オランダなどで生き残りましたが,それら孤立したグループも,次第に姿を消してゆきました。

ソッツィーニ派の遺産

それでもなお,ソッツィーニ派の著作はその後も影響を及ぼし続けました。ソッツィーニの著作を基盤にして,その死後に出版された「ラコビアン・カテキズム」は,1652年にジョン・ビドルにより英訳されました。議会はその書物を押収して火で焼き,ビドルを投獄しました。ビドルはしばらく釈放されたものの,再び投獄され,獄死しました。

それでも,学識があり道理にかなった人たちが大勢聖書の真理を理解していた英国では,反三位一体の議論はそう簡単になくなりませんでした。古今を通じて最も偉大な科学者の一人,アイザック・ニュートン卿は自著の中で三位一体を論駁し,ソッツィーニ派と呼ばれることがあります。有名な科学者で,酸素を発見したジョセフ・プリーストリーもソッツィーニ派と呼ばれました。大詩人のジョン・ミルトンも同様に三位一体を放棄しました。事実,フランスの哲学者であったボルテールは,ルター,カルバン,ツウィングリなど,ボルテールにとっては「読むに耐えない」書物を著した人たちがヨーロッパの大部分で支持を得たのに対し,ニュートンや他のソッツィーニ派の人々など,「当時の最も偉大な哲学者たちと最も優れた著述家たち」が,勢力の衰えつつあった少数の群れからしか支持されなかったことを,面白い現象と考えました。

そのような人たちは,自分たちよりも古いソッツィーニのように,宗教における理性の重要性を強調しました。そうあって然るべきです。聖書そのものが,『わたしたちの理性』をもって神に仕えるよう,わたしたちに勧めています。(ローマ 12:1)しかし,ソッツィーニ派を母体として英国で発展したユニテリアンの運動においては,人間の理性による推論が聖書に先行するようになりました。彼らの運動の歴史によれば,ユニテリアンは1800年代の半ばまでに,英国と米国で「宗教的真理の主要な源としての聖書を放棄し始め」ました。

とはいえ,初期のソッツィーニ派は,現代の多くの宗教が十分に学び取ることのできる模範を残しました。例えば,長老派の一僧職者は,「世界大戦に直面した時の[現代の諸教会の]無能ぶり」に比較して,戦争に関するソッツィーニ派の立場は優れていると称賛しました。この僧職者は,キリスト教世界のすべての教会は,間もなく反戦の立場を取るであろうという希望を言い表わしました。しかし,この人がこれを書いたのは1932年のことでした。そのわずか数年後には第二次世界大戦が勃発し,諸教会はまたもや流血行為を支援しました。今日でも戦争は,地の多くの部分を荒廃させています。宗教が戦争を防いだことよりも,宗教が戦争をあおったことのほうが多いのです。

あなたの教会はいかがですか。今日の非常に多くの教会と同様,あなたの教会でも聖書に対する敬意が失われていますか。聖書ではなく,人間の考えが教えられていますか。魂の不滅,地獄の火,三位一体などの教理に関係した事柄において,あなたの教会はどんな立場を取っていますか。あなたは,それらの教えを,聖書が述べていることと比較されましたか。ソッツィーニ派はそうしました。わたしたちは,あなたもそうされるようお勧めします。

[21ページの図版]

マイケル・セルベト ― その書物は三位一体の教理が偽りであることを証明した

[クレジット]

By courtesy of U.S. National Library of Medicine

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