ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目89 9/8 12–13ページ
  • 同性愛 ― 僧職者にはどんな務めがありますか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 同性愛 ― 僧職者にはどんな務めがありますか
  • 目ざめよ! 1989
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 僧職者には神の規準を擁護する務めがある
  • 落ち度のある使者,危険な指導
  • 聖書の規準を損なう
  • 『不敬虔を振り捨てなさい』
  • クリスチャンは同性愛者を憎むべきですか
    目ざめよ! 1997
  • 同性愛者の世界を見る
    目ざめよ! 1976
  • 広まる同性愛行為
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
  • 現代における同性愛者の“解放”
    目ざめよ! 1980
もっと見る
目ざめよ! 1989
目89 9/8 12–13ページ

聖書の見方

同性愛 ― 僧職者にはどんな務めがありますか

同性愛者で神に仕えることを誠実に願う人は,自分が困った立場にあることを知ります。「教会に献身を誓った人が,ふと自分が同性愛者でもあることに気づく場合,実際にどんな選択をすればよいでしょうか」と,ある人は言いました。

多くの同性愛者は,神に喜ばれる者となるのに必要な事柄を知ろうとして,必然的に,僧職者に答えを求めます。それらの“聖職者”は正しい導きを与えていますか。同性愛者の社会に対して,彼らにはどんな務めがありますか。また,すべての人に対しては,どんな基本的な責務がありますか。

僧職者には神の規準を擁護する務めがある

聖書は古代の祭司について簡潔に,彼らは「人々のため,神にかかわる事柄の上に任命」されたと述べています。(ヘブライ 5:1)昔のアブラハムはそのように祭司として家族に仕えることにより,『エホバの道を守る』よう家族を助けました。―創世記 18:19。

同様に,古代イスラエルの祭司職は神の規準を擁護する面で重要な役割を果たしました。祭司たちには,国民が「エホバの民としてとどまる」ように援助する務めがありました。(歴代第二 23:16)神を代表する者たちには,今日でも当時と同様,自分たちの羊の群れが『神の民としてとどまり』,『神の道を守る』ように援助する務めがあります。

その務めを果たすには,羊の群れに神の言葉を教えなければなりません。(マラキ 2:7)僧職者は,『神の道を守る』よう人々を助けて『神の使者』であることを証明してきましたか。大抵の僧職者はそうしませんでした。このことは同性愛の問題において特に明白です。

落ち度のある使者,危険な指導

率直に言って,聖書は同性愛を非としています。いくら詭弁を弄したところで,レビ記 18章22節やローマ 1章26節と27節のような聖句を消し去ることはできません。(囲み記事をご覧ください。)ところが,イエズス会の一司祭は,聖書に反する現在の風潮に同調して,同性愛の関係は,「多くの人が幸福で有意義な生活を送るための唯一可能な解決策である」と述べました。監督教会のある主教も同様の論調で,同性愛のことを,「[同性愛者には]抑制できないもの」と呼びました。しかし聖書は,かつて同性愛者であった1世紀のある人々について,「あなた方の中にはそのような人たちもいました。しかし,あなた方は洗われて清くなったのです」と述べています。―コリント第一 6:9-11。

自分たちの行動が聖書の規準と相容れないことに対する言い訳として,愛を根拠に挙げる同性愛者もいます。ある司祭は,「愛すること,特に社会ののけ者や見捨てられた人々を愛することは,我々の霊的な生活において肝要な試練となる」と述べて,こう結論しています。「同性愛はキリストにとって決して問題とならなかったであろう。彼にとって問題となるのは,それらの人々が,どのような者であるにせよ,真に愛ある仕方で生涯を全うするかどうかであろう」。

しかし,聖書は愛と感傷を混同してはいません。敬虔な愛は公正と釣り合いが取れており,そこには悪に対する憎しみも含まれています。聖書は,「エホバを愛する者たちよ,悪を憎め」という強力な訓戒を与えています。(詩編 97:10)真の愛には,懲らしめも含まれます。「エホバは自分の愛する者を懲らしめられる」からです。(ヘブライ 12:6)したがって,奉仕者には,『健全な教えによって説き勧めることも,また,言い逆らう者を戒めることも行なう』務めがあります。(テトス 1:9)さらに,古代の祭司が自分の責務を忠実に果たして,「とがから立ち返らせた者は多かった」ことも思い出してください。―マラキ 2:5,6。

聖書の規準を損なう

ところが,今日の僧職者は一般に,何でも大目に見てしまう親に似ています。そのような親は,“愛のない行ないになる”という理由で,子供のお尻をたたくことを恐れています。長年,僧職者はそのような方法で聖書の規準を損なってきました。どんな結果になりましたか。「悪い業に対する刑の宣告が速やかに執行されなかったため,それゆえに人の子らの心はその中で悪を行なうよう凝り固まってしまった」のです。(伝道の書 8:11)例えば,カトリック教会は同性愛の関係に対して公式には反対の立場を取っていますが,ある世論調査によると,米国のカトリック教徒全体の55%に当たる人々が,同性愛の関係にあっても良いカトリック教徒であり続けることができると考えていました。

古代イスラエル人にも同様な事柄が生じました。当時の祭司たちは神の規準を擁護しませんでした。神はそれらのイスラエル人について,こう言われました。『彼らはわたしから遠く離れてしまい,「エホバはどこにおられるのか」と言わなかった』。なぜそうなったのでしょうか。『祭司たちも「エホバはどこにおられるのか」と言わず,律法を扱う者たちもわたし[エホバ]を知らなかった』からです。(エレミヤ 2:5-8)預言者ゼパニヤは,「祭司たちも聖なるものを冒とくし,律法に対して暴虐を働いた」ので,「不義の者は少しも恥を知らなかった」と言いました。―ゼパニヤ 3:1-5。

『不敬虔を振り捨てなさい』

神に仕えたいと思う同性愛者は,神が示される条件に従って神に仕えなければなりません。その条件は聖書の中で明示されています。同性愛者で,『淫行,汚れ,性的欲情に関して自分の肢体を死んだものとする』よう助けられた人々は,1世紀と同様,今日もいます。(コロサイ 3:5)確かに,それは一部の人たちにとって容易なことではありませんでしたが,多くの異性愛者が異性に対する間違った欲望を死んだものとする必要があったように,それらの同性愛者も不道徳な欲望を死んだものとすることを学びました。どちらのグループも,真のクリスチャン会衆と定期的に交わることによって助けられてきました。そのようなクリスチャン会衆は,『不敬虔と世の欲望とを振り捨て,義と敬虔な専心とをもって生活する』ことを目ざす彼らを支えることができます。―テトス 2:12。

聖書の規準を緩め,罪を容認する僧職者たちは,同性愛者に何も親切を示していません。「耳をくすぐる」ことはあっても,『み言葉を宣べ伝える』という自らの務めを果たしてはいません。同性愛者に対しても,すべての人に対しても,み言葉を宣べ伝えることが彼らの務めなのです。―テモテ第二 4:1-5。

[13ページの囲み記事]

「また,あなたは女と寝るようにして男と寝てはならない。それは忌むべきことである」― レビ記 18:22

「このゆえに神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されました。その女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事柄を行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです」― ローマ 1:26,27

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする