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目ざめよ! 1991
目91 12/22 4–7ページ

劇的な増加

エホバの証人が自国の政府当局に対して脅威となったことは一度もありません。今ではそのことが認められています。クラスノヤルスキ・コムソモレツ紙は,この夏ソ連で開かれた大会の一つについて論評し,「わが国のイデオロギー擁護者たちは,エホバの民が公共の法と秩序を決して脅かしていないことをついに認めた」と述べました。

同様に,ソ連の新聞「ボストフノ-シビルスカヤ・プラウダ」はこう報じました。「エホバの証人の組織は極めて宗教的であるから,政治的紛争にかかわったり,いずれかの政治ブロックを支持するよう信者に勧めたりすることはない。むしろ彼らは,聖書の権威とその著者であるエホバ神を支持する」。

初期の拡大

エホバの証人は何十年も前から東ヨーロッパで活動してきました。1930年代後半にはすでに,ルーマニアに2,000人以上,ポーランドに1,000人,チェコスロバキアとハンガリーにそれぞれ数百人,ユーゴスラビアに100人前後のエホバの証人がいました。広大なソ連にはごくわずかしかいませんでしたが,これも一夜にして変化しました。

ソビエト問題の専門家ワルター・コラーズは,自著「ソ連の宗教」の中で,「小さいながらも非常に活発なエホバの証人のグループが存在していた地域が1939年から40年にかけてソ連に併合され,そこから」他の証人たちがソ連に入ってきたと書いています。こうして,ポーランド,チェコスロバキア,ルーマニアの東部に住んでいたエホバの証人は突然に,言ってみれば一夜にして,ソ連の領土内に移住したことになったのです。

エホバの証人がソ連に入り込んだもう一つの注目すべきルートは,ドイツの強制収容所でした。どうしてそう言えるのでしょうか。第二次世界大戦中,ソ連人の捕虜たちは,何千人ものドイツ人のエホバの証人と強制収容所で一緒に過ごしました。それらのドイツ人は,クリスチャンの中立という立場を堅持したために,収容所に入れられていたのです。(ヨハネ 17:16; 18:36)彼らは,ヒトラーの軍隊に入って他の国の仲間のクリスチャンを殺すという,いえ,その点で言えば,だれとは限らず他の人を殺すという罪を犯すよりは,苦しんで死ぬことを選びました。―ヨハネ第一 3:10-12。

ですから,コラーズが書いているように,「信じられないことに思えるかもしれないが,ドイツの強制収容所は,エホバの証人の音信がソ連に入ったルートの一つ」でした。「それをソ連に持ち込んだのは,『証人たち』の勇気と確固とした態度に感動し,恐らくそのためであろうが,彼らの神学に魅力を感じたドイツのソ連人捕虜たちだった」のです。ラベンスブリュックの女子収容所だけでも,大勢の若いソ連人が,エホバの証人のふれ告げる聖書の音信を受け入れたと言われています。

エホバの証人になった東ヨーロッパ諸国出身の捕虜たちは,戦後故国に戻りました。彼らはそれぞれの国で,恒久平和の唯一の希望は神の王国の支配であることを熱心に教えました。こうして東ヨーロッパの証人たちの数は急激に増加しました。1946年4月には,すでに4千人以上がソ連で伝道しており,この数はすぐに2倍になりました。1946年9月には,ルーマニアの証人たちがブカレストで大会を開き,約1万5千人がそれに出席しました。

その後まもなく冷戦が始まり,東ヨーロッパと西側の間の旅行と通信は遮断されました。そればかりか,東ヨーロッパの新しい政権はエホバの証人に反対し始めました。残念なことに,エホバの証人は脅威とみなされ,多くの人が投獄されました。それにもかかわらず1951年には,チェコスロバキアに3,705人,ハンガリーに2,583人,ユーゴスラビアに617人,ポーランドに1万5,000人以上の活発な証人たちがいました。

反対されても増加は続いた

1967年に,モーリス・ヒンダスは,自著「クレムリンの人間的なジレンマ」の中で,エホバの証人のことを書いています。ヒンダスの言うことは,ソ連だけでなく,東ヨーロッパの他の地域のエホバの証人にも当てはまります。「彼らは地下活動をしているにもかかわらず,見つけ出され,厳しい刑を言い渡されて刑務所に送られている。しかし彼らを阻止する方法はない。彼らは一箇所で弾圧されると別の場所に姿を現わす。……彼らは,ソ連の警察に劣らずがん強であるようだ」。

1951年の春に,ソ連のエホバの証人は大きな打撃を受けました。ソ連のヨーロッパ系の共和国にいた7,000人余りの証人たちが逮捕され,シベリアやボルクータを含むはるか北方のへき地の収容所に連れ去られたのです。どんな結果になったでしょうか。

コラーズはこう述べています。「これはソ連の『証人たち』の息の根を止めたわけではなく,むしろ彼らの改宗活動の新しい章の始まりとなったにすぎない。彼らは流刑地に向かう途中で駅に止まると,自分たちの信仰を広めようとさえしたのである。彼らを追放したソビエト政府は,彼らの布教にこの上なくプラスになることをしてしまった。『証人たち』は村の中の孤立状態から,もっと広い世界に連れ出されたのである。たとえそれが強制収容所や強制労働収容所の恐ろしい世界にすぎなかったとしても,そのことに変わりはなかった」。

刑務所の中と外

1世紀のクリスチャンが迫害のさなかでたゆみなく宣べ伝えたように,ソ連のエホバの証人も宣べ伝える業を続けました。(使徒 5:42)犯罪の嫌疑をかけられて投獄されていたラトビア人女性,ヘレナ・ツェルミニャは,1962年から1966年まで入れられていたポトマ流刑収容所の班に約350人の受刑者がいたと述べています。それによると,「その約半数がエホバの証人でした」。ツェルミニャは「ソ連の刑務所の中の女性たち」という本の中で,自分が収容所の中で見たことを書いています。

「ブルックリンから来る出版物は,非公式ながらも実に整然としたルートを通し,定期的に,傷みのない状態で,しかも大量に届く。……有刺鉄線が巡らされ,人との接触が限られているこの場所に禁書がどのようにして入り込むのか,だれも理解できない。しかもそれは米国から来るのである。エホバの証人の中には,自分のアパートに数冊の『ものみの塔』誌を持っていたというだけの理由で,10年に及ぶ厳しい労働を科された人が少なくない。人々はこの雑誌を持っていたために逮捕されたのであるから,それが収容所の中にあるとなれば,当局が心配し,いら立つのも理解できる」。

エホバの助けにより,この霊的食物の分配は決して途絶えることがありませんでした。ツェルミニャはこう述べています。「[「ものみの塔」誌が]収容所に入り込むルートを発見した者は一人もいない。結局のところ,有罪判決を受けた受刑者はみな,衣服をすべてはぎ取られ,くまなく検査される。収容所に着いた時にも,受刑者はもう一度ひとりひとり体中を徹底的に検査される。スーツケースは二重底になっていないかどうか調べられる。正当な理由のない部外者の立ち入りは禁止されている。受刑者が収容所の敷地から出て農作業をする場合も,武装した監視兵に囲まれており,だれかが受刑者に近づくことは許されない。夕方,収容所に戻る時も,各受刑者は徹底的な検査を受ける。しかしブルックリンの出版物は,これだけの監視の中でも読者のもとに届くのである」。

それと時を同じくして,ソ連の収容所の外にいた勇敢なクリスチャンたちも,公に宣べ伝えて教える活動を推し進めました。その証拠に,彼らの宣教を阻止するための様々な出版物や映画が作られました。例えば1978年には,「エホバの証人に関する真実」という本が出版されましたが,その目的は序文に説明されているように,「この宗教運動の信奉者たちの間で無神論教育を施すこと」でした。

著者のV・V・コニックは,エホバの証人が葬式や結婚式の際に非常に頻繁に公開講演を行なっていることも指摘しています。「一例を挙げると1973年8月に,クラスノダルスキ地方のクラスナヤポルヤナ村で,同派の二人のメンバーの結婚式があり,約500人が参列した。6人の説教者が話をし,その話は二つのスピーカーによって伝えられた。その後,エホバの証人がいかにして他宗教の人や無神論者と話をするかを示す劇が上演された」。

そうです,東ヨーロッパ諸国のエホバの証人は活動を禁じられていたにもかかわらず,キリストの預言的な命令に従って神の王国の良いたよりを熱心に宣べ伝え続けました。(マタイ 24:14)そしてついに,1989年5月と6月,エホバの証人はポーランドとハンガリーで法的に認可されました。ルーマニアでは1990年4月,ソ連では1991年3月,ブルガリアでは1991年7月に活動が合法化されました。チェコスロバキアでも,証人たちは妨げられることなく活動を行なっています。

幸福な大会出席者たち

こうした背景を知っていると,東ヨーロッパの大会に出席した大勢の人々が涙を流し,抱き合い,拍手し,場内の向かい側にいる人々と互いに手を振り合って,大いに歓喜した理由がいっそう理解しやすくなるかもしれません。

ブダペスト,プラハ,ザグレブの大会は「国際大会」と呼ばれ,他の国々から来る何万人という出席者たちの宿泊施設に関する特別な取り決めが設けられました。ソ連では七つの都市で大会が開かれ,7万4,252人が出席しました。ポーランドでは,12の大会に13万1,554人が集まりました。ルーマニアでは,八つの大会に3万4,808人が出席しました。ブルガリアでは大会を開くことができませんでしたが,約300人のブルガリア人が国境を越えてギリシャのテサロニケに行き,母国語でプログラムを楽しみました。

何万人もの大会出席者のために準備を整え,実際に歓迎するのは,東ヨーロッパの証人たちにとって,たやすいことではありませんでした。考えてみてください。ソ連では,それまでにそういう大会を一度も開いたことがなかったのです。しかも,ブダペストやプラハの証人たちがしたように,何万人ものゲストをもてなすというのは,とてつもない大仕事でした。そればかりではありません。内戦が迫っていて,遠くから爆弾の音が聞こえてくる時に,ザグレブで大会を開くというのです。

これらの大会に関する以下の報告をお読みになれば,あなたもきっと感動するに違いありません。

[7ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

三つの国際大会とソ連の七つの大会の開催都市

ソ連

タリン

キエフ

リボフ

チェルノフツイ

オデッサ

ポーランド

ドイツ

チェコスロバキア

プラハ

オーストリア

ハンガリー

ブダペスト

ルーマニア

ユーゴスラビア

ザグレブ

ブルガリア

アルバニア

イタリア

ギリシャ

トルコ

[地図]

ソ連

アルマアタ

ウソリエシビルスコエ

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