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  • 『わたしは天皇のためにこの身を捨てる覚悟でした』

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  • 『わたしは天皇のためにこの身を捨てる覚悟でした』
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目ざめよ! 1992
目92 5/8 14–19ページ

『わたしは天皇のためにこの身を捨てる覚悟でした』

1. 「軍人は忠節を盡くすを本分とすべし。

2. 軍人は礼儀を正しくすべし。

3. 軍人は武勇を尊ぶべし。

4. 軍人は信義を重んずべし。

5. 軍人は質素を旨とすべし」。

これが帝国陸軍に入隊した新兵にたたき込まれた五か条の誓文でした。上官が毎日やって来て新兵ひとりひとりにこの五か条を復唱させ,間違えればびんたが飛びました。特に強調されたのは天皇と国家に対する不屈の忠節心でした。

私が召集されたのは日中戦争さなかの昭和13年(1938年)のことでした。あらゆる機会に,今戦っているのは聖戦であり,13世紀の終わりの元寇の戦いで“神風”が吹いて蒙古軍を敗走させたように,日本の神々は大勝利を与えてくれるという考えを吹き込まれました。

軍事面および“精神面”での訓練を終えた後,昭和14年に私たちは戦場に向かって出発しました。両親は,千人の異なった人々に戦勝祈願と武運長久の願いを込めて一針ずつ赤い糸で縫ってもらった,千人針の腹巻きを贈ってくれました。故国に別れを告げて中国へと向かいながら複雑な気持ちになりました。『これで祖国も見納めになるかもしれない』と思う一方で,天皇のためにこの身を捨てる覚悟を固めていたのです。

中国での悲惨な状況

昭和14年7月,中国大陸特有の猛暑の中で,私たちは中支で掃討作戦に参加していました。30㌔もある完全装備をしての徒歩行軍でしたが,千人針はいつも腹に巻いていました。日に40㌔ほど歩き,一日が終わるころには靴ずれができて足を引きずっていました。まめを刀で破り,そこにサリチル酸を注ぎ込んだものです。それは飛び上がるような痛さでした。それでも,まめが固くなって全く痛みを感じなくなるまでそのような苦行を繰り返しました。

猛暑の中での行軍なので喉がからからに渇きます。クリーク(小川)の茶色い水を水筒に入れ,それにカルキを加えて渇きをいやしました。水分を取るとすぐに汗になって軍服はぐっしょり濡れ,ところどころ塩が吹き出て白くなります。やがて体全体がかゆくなり,痛みも感じるようになりました。ある日上着のボタンをはずして見てみると,シラミがはい回り,卵をたくさん産み付けているではありませんか。シラミを一匹ずつつぶしてゆくのですが,とても追いついたものではありません。シラミに食われていない人は一人もいませんでした。クリークのほとりに来ると,飛び込んで水浴びしました。だれを見ても体中にシラミに食われた湿しんのようなものがありました。水浴びが済むと全員の衣類をすべて熱湯につけてこの害虫を死滅させました。

後に私は上海<シャンハイ>の師団司令部へと転属になり,主計下士官になりました。隊内の経理を担当し,金庫番をする仕事でした。ある日のこと,二人の中国人苦力<クーリー>が金庫を持って逃げようとしているのを目にしました。私は警告を与え,二人に銃を向けて撃ちました。二人とも即死でした。この出来事のせいで,私はその後の人生において長年にわたる良心の呵責にさいなまれることになりました。

シンガポールへ

昭和16年(1941年)の終わりごろ,私たちは完全装備をして乗船するよう命令を受けました。どこへ向かっているかは告げられませんでした。香港<ホンコン>に着くと,自転車や戦車,長距離砲などが積み込まれ,ガス防毒面や夏用の軍服を支給されて再び船出しました。二日くらい経過したころ,『我々はかつて経験したことのない科学戦争に突入する見込みである。全員家族の者に今のうち書き置きをしたためるように』との命令が出されました。私は今まで孝養らしきことを何一つ行なえなかったことを両親にわびると共に,一死報国天皇にこの身をささぐとの遺書をしたためました。

昭和16年12月8日,日本軍の爆撃機が真珠湾を攻撃したのと同じ日の早朝,まだ暗いうちに,タイのシンゴラ(ソンクラー)に敵前上陸が開始されました。a 海は波が非常に荒く,母船から吊りおろされた縄ばしごを3分の2くらい降りたところで,波間を木の葉のように揺れ動く上陸用舟艇に飛び降りなければなりません。しかもずっしりとした完全装備の姿でそうするのです。敵による爆撃に遭いながらも敵前上陸を終え,シンガポールを目指してジャングルの中の進軍が始まりました。

この作戦中,主計下士官としての私の主な仕事は部隊のための糧秣を確保することでした。国内からの補給はあまり期待できない状況だったので,糧秣は現地で調達することになっていました。したがって歩兵と共に第一線に立って進軍し,糧秣庫を探しまわり,軍用にそれらを確保しなければなりません。当時は少しも罪悪感なしに行なっていたものの,実際には大がかりな泥棒のようなものでした。

降伏するよりは死を

タイとマレーの国境付近に位置するアロー・スターでの大激戦で,食糧の詰まった大きな糧秣庫を発見しました。『このすばらしいニュースを後方の経理課に報告しなければ』と考えた私は,英軍から分捕った自動車を部下の一人に運転させて出かけました。上機嫌でドライブをしながらある曲がり角にさしかかると,英国の戦車部隊が目に映りました。道を間違えて200名ほどのインド兵や英兵のいる敵陣に突っ込んでいたのです。万事休す,もし敵中を突破できなければ恥ずべき捕虜になってしまいます。日本軍人として,捕虜になって生き恥をさらすよりは自殺しようと示し合わせ,私は運転中の部下のこめかみにピストルを突き付け,部下は帯剣を抜いて私の腹にあてました。部下にまっすぐ突っ込むよう命じ,機関銃の弾が雨あられと撃ち込まれる中を突っ切りました。無事に脱出したものの,方向が全く分からなくなりました。道がなくなり,自動車を乗り捨て,ジャングルの中を歩き始めました。蛇に襲われ敵に追われながら,二,三日を経てようやく部隊にたどり着きました。着いてみると,部隊では私たちが戦死したものとしてすでに報告をまとめていました。

マレーのクアラルンプールには英軍の捕虜が相当いましたが,彼らは捕虜になることを不名誉な恥さらしと考えていた日本兵とは全く異なっていました。依然として楽天的で,いつの日か立場が逆転すると言っていました。日の出の勢いで進軍していた私たちは,そうした言葉に耳を貸しませんでした。

シンガポール陥落

ほどなくしてシンガポール島の対岸までやってきました。そこには地雷が無数に敷設され,鉄条網が張りめぐらされています。我が軍の長距離砲が沿岸の一角に集中砲火を浴びせて橋頭堡が設けられ,敵前上陸を果たしました。

シンガポール島は比較的小さな島ですが,そこに16万の兵士が入り乱れて戦いました。少しずつ前進するにも友軍の戦死者をまたいでいく有様でした。英軍は我が軍の夜襲を恐れていました。十数人ずつの決死隊が日本刀を抜刀して斬り込むという波状攻撃をかけたのです。決死隊が募られると,十人のうち十人がそれに応じました。天皇のために死ぬのは名誉なことだと考えていたのです。

昭和17年(1942年)2月にマレー半島の側からジョホール水道を渡って上陸した時,敵の誇るチャンギー砲台は,日本軍が海のほうから攻めてくることを想定して,我が軍から,はずれた方角に向けられていました。しかし,砲台がひとたび私たちのほうに向けられると,その砲弾には本当に威力がありました。

敵の砲弾が私たちの前方の通路に大きな穴を開け,軍用車が通れなくなってしまいました。一つの穴の周りに十数名の捕虜が立たされました。銃殺隊の機関銃の狙いがつけられ,火を吹きます。別の十数名の捕虜が,死体を穴の中に入れ,その上に土をかけるように言われます。再び機関銃が火を吹き,今度はその者たちが穴を埋めるのに使われるのです。道路が元通りになるまで同じ過程が繰り返されます。(自分たちが犯した残虐な行為の幾つかを思い起こすのは今となっては辛いことですが,これはその恐るべき戦争のおぞましい現実のひとこまなのです。)この時までに私の良心は,言わば「焼き金によるような印を付けられ」ており,この残虐行為を目にしても全く感情を動かされないほど鈍くなっていました。―テモテ第一 4:2。

昭和17年2月15日,私たちのほうに数人の部下を引き連れた英軍の高級将校が白旗を掲げて歩いて来ました。「あっ,パーシバル将軍だ!」と戦友の一人が叫びました。私は『勝った』と心の中で歓声をあげました。英国のマレー派遣軍の最高司令官が降伏したのです。私はその歴史的な出来事を目撃したことを今でもよく覚えています。私は日本古来の神々の力添えがあったのだとの確信を強めました。

シンガポール陥落後,ニューギニアを含む様々な地域を転戦しました。その後昭和18年に内地への帰還命令を受け取りました。両親に会えると思うと小躍りせんばかりでしたが,敵の潜水艦のためすぐには出航できませんでした。その時までに戦況は不利なものになってきていました。クアラルンプールにいた英軍の捕虜の言っていた言葉が思い起こされました。確かに事態は逆転しつつあったのです。

広島の惨事を目撃する

やっとのことで内地の土を踏んだ時,私は感謝して神仏に手を合わせました。『自分の身が守られたのは千人針や古来の神々のおかげに違いない』と思いました。除隊するとき,駐屯地の指揮官から子供をつくるよう命じられ,「子供をつくらないなど非国民だ」と言われました。この任務を果たすためにもすぐに結婚しようと心に決めました。親せきの者の世話で見合いをし,昭和18年12月に初子をめとりました。

私が広島市の郊外で看守をしていた昭和20年8月6日に,広島市で原子爆弾がさく裂しました。廃虚と化した市内にいる人々を助けるため,だれかが救助に赴かなければなりません。「本当に決死の気持ちで行かれる方がいれば集まっていただけないか」と上司から懇願されました。初めての子供が妻のおなかにいましたが,軍隊で鍛えられた精神が決死隊に加わるよう私を促しました。私たちは日の丸に「決死隊」と染め抜かれた鉢巻きを受け取りました。

私たちの任務は広島刑務所の囚人を救助することでした。途中渡った川はどれも死体で一杯でした。人々は爆風の熱に耐えきれず川に飛び込んだのです。刑務所に着くと,囚人に応急手当てを施し,トラックに乗せて病院へ連れて行きました。戦時中日本でクリスチャンの中立を保ったエホバの証人の一人である三浦勝夫がその時自分の宗教ゆえにその刑務所にいたことなど,私には知るよしもありませんでした。

神への信仰を失う

1週間後,広島の工兵隊の経理課に出頭することになっていました。車に乗るため道を歩いて行くと,部落の学校のスピーカーから特別番組が聞こえてきました。それはラジオから初めて流れる昭和天皇の声でした。私は直立不動の姿勢でこの詔勅を聞きました。涙が目からあふれて両頬をつたい,体から力が全部抜けるような気がしました。天皇陛下は『堪え難きを堪える』と言われました。屈辱に甘んじて連合軍に降伏するというわけです。決して許されなかった「降伏」という考えが,神なる天皇の口から出たのです。

“神風”はついに吹かず,“神国”日本は敗れ去りました。天皇と国家に対して抱いてきた確信は崩れ去りました。あてどもなく,何の希望もない日々が過ぎてゆきました。まことの神は今まで自分が信じてきたような神々ではないはずだと考え,様々な宗教の門をたたいてみたものの,どの宗教も病気がよくなるとかお金が儲かるといったことを強調する,利己心に訴えるものばかりでした。結局,私は自分なりの宗教を持つようになり,自分の職業を通して隣人愛を示すことが人生の究極の目標だと思い込むようになっていました。自転車の販売をしていたので,安くて良い自転車を売り,親切な態度で迅速に修理するよう心がけました。それまで心の中で神が占めていた場所を仕事が占めるようになりました。

まことの神を見いだす

昭和34年(1959年)の初めごろ,店で仕事をしていると,一組の夫婦がやってきて「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を紹介しました。二人はエホバの証人で,数日後に再びやって来られ,聖書研究を勧めました。日ごろから神について詳しく知りたいと思っていたのですぐに応じ,妻にも毎週一緒に研究するよう勧めました。

やがて私は,それまで自分の信じてきた事柄がなんら実質のないものだということに気づくようになりました。救いをもたらす立場にいない者に情熱的に身をささげていたことの愚かさを悟るようになったのです。詩編 146編3節と4節の聖句を読んで,自分の心の中に幾らかなりとも残っていた天皇に対する愛着がぬぐい去られました。そこにはこう書かれています。「高貴な者にも,地の人の子にも信頼を置いてはならない。彼らに救いはない。その霊は出て行き,彼は自分の地面に帰る。その日に彼の考えは滅びうせる」。戦時中,天皇と国家に対してひたむきにささげていた忠節心は,偉大な宇宙の主権者,命の根源者であられるエホバ神に向けられるはずのものだったのです。

しかし,ただ一つ心の重荷となっていることがありました。それは中国での,そして特にシンガポールでの戦闘で自分が犯した流血の罪のことでした。自分のように血にまみれて汚れた人間が偉大な宇宙の主権者に仕えることなど,どうしてできるでしょうか。この葛藤は,私たちの住む岩国市で1960年に巡回大会が開かれたときに解決されました。その大会を主宰するためにこの町を訪れていた宣教者のエードリアン・トムソン兄弟と奥様のノーリン姉妹に泊まっていただいたのです。その機会にシンガポールでの経験に触れ,心に懸かっていた事を夢中になって話しました。「私は多くの流血の罪を犯しました。果たして神に是認される資格があるでしょうか」とトムソン兄弟に尋ねました。それに対して兄弟はただ一言,「あなたは西暦1世紀のローマの士官コルネリオが歩んだ道を歩んでいるのです」と言われました。この言葉で,最後まで胸につかえていたものが下り,翌日私は妻と共にバプテスマを受けました。―使徒 10:1-48。

至高の神に忠節に仕える喜び

これまでに自分が仕えた他の神々すべてをはるかに超越した宇宙で最高のお方,エホバにお仕えできる喜びをご想像ください。そして,イエス・キリストの兵卒として霊的な戦いに携われるのは実に大きな特権です。(テモテ第二 2:3)まず家族の中で神への忠義を表わすようにしました。バプテスマを受けてからほどなくしてのことですが,父が母にこんなことを言っているのを耳にしました。『富治も仏壇を拝んでくれないし,墓も守ってくれない』。お分かりのように,日本人は自分の子孫が死後に自分をまつってくれることを愛の表われとみなすのです。その言葉を聞いて,何としても父に真理を知らせなくてはと思いました。父は私と聖書を研究するようになり,1961年の秋に,私の娘の英子,息子の章展と共にバプテスマを受けました。末の娘の雅子もその後に続きました。母は自分の宗教を持っており,初めのうちは研究しようとしませんでしたが,数年後には私たちと共にエホバに仕えるようになりました。

1975年に私は,正規開拓者として全時間宣教に携わっていた妻に加わりました。それ以来,イエス・キリストの兵卒として会衆の第一線で奉仕させていただいております。少し疲れ気味の時などは,天皇や国家に対して示したあの情熱を思い起こし,こう自分に言い聞かせます。『天皇や国家に対してあれほど献身の念を持って仕えたのなら,偉大な宇宙の主権者にはそれよりはるかに大きな熱意を持って仕えるべきではないだろうか』。すると,これしきのことでと再び力を得られるのです。(イザヤ 40:29-31)私は,もはや五か条の誓文などにより,いや応なく人間に仕えさせられるのではなく,正確な知識に基づき,心からの献身の念を抱いて至高の神エホバにお仕えしています。その方は私たちの魂を込めた忠節心を受けるに値する方なのです。―広中富治の語った経験。

[脚注]

a 真珠湾攻撃はハワイ時間の1941年12月7日に行なわれましたが,日本とタイでは12月8日でした。

[15ページの図版]

戦時中の広中富治

[16ページの図版]

シンガポールでの戦闘の際,消火にあたる自警団

日本軍に降伏するパーシバル将軍

[クレジット]

The Bettmann Archive

[17ページの図版]

1945年に原爆が投下された後の広島

[クレジット]

USAFの写真

[18ページの図版]

妻と私 ― 人生を変えた本,聖書と共に

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