ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目94 2/8 11–15ページ
  • 真理のもとに逃れる

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 真理のもとに逃れる
  • 目ざめよ! 1994
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • エホバの証人との出会い
  • 決定を下す
  • 刑務所に戻る
  • 仮釈放が検討される
  • 自由と新しい生活
  • ほえるライオンから,柔和な子羊へ
    目ざめよ! 1999
  • 真理は犯罪者だった私をどのようにクリスチャンに変えたか
    目ざめよ! 1989
  • 私は刑務所の中で自由を得ました
    目ざめよ! 1987
  • 私は強盗を職業にしていました
    目ざめよ! 1991
もっと見る
目ざめよ! 1994
目94 2/8 11–15ページ

真理のもとに逃れる

エホバの証人と聖書の研究を始めた時,私は脱獄囚の身でした。やがて私は,人を欺くのをやめて真実を明かすにはどうすればよいかという難題に直面します。

それは1974年11月のことです。私は米国ノースカロライナ州ペンダー郡の上位裁判所に出廷していました。容疑には,武装強盗,凶器を用いた脅迫,時速35マイル(約55㌔)制限の区間を時速90マイル(約145㌔)で暴走したことなどが含まれていました。翌月,まだ22歳の私は容疑のすべてについて有罪となり,ノースカロライナ州の矯正施設での30年の刑を言い渡されました。

私はニュージャージー州ニューアークで育ちました。父は警察官でしたが,私はいつも親の悩みの種でした。少年鑑別所や少年院に入ったことがありますし,父が勤務していた警察署に留置されたことまであります。その晩,父に殴られたことは絶対に忘れません。普通の十代の少年なら懲りて生活を改めるはずですが,私は違いました。

私は家出し,友人の家に泊めてもらったり,街頭で夜を過ごしたりしましたが,結局,再び留置所に入れられました。父の意に反して,母は私が釈放されるよう取り計らいました。私のほかに子供を5人抱えていた両親は,軍に入隊させるのが私のためになるだろうと考えました。

軍に入った私は,種々の訓練計画のおかげで,しばらくの間は確かに素行に違いが表われました。でも麻薬に病みつきになり,ヘロイン中毒になってしまいました。ノースカロライナ州フォート・ブラッグに配属されると,やがて親友たちと町から町へと巡っては盗みを働くようになりました。麻薬を続けるためにです。私たちが起こした窃盗事件が新聞やテレビで報じられました。

程なくして私は当局に捕まり,冒頭で述べたように30年の刑を言い渡されました。何年もの間,刑務所の中では色々な細かい規則に逆らってきましたが,結局のところ自分の首を絞めているだけだということを悟りました。それで努めて規則に従うようにしました。警備の緩やかな刑務所に移され,仮釈放されることが目当てです。

10年服役してから,警備の緩やかな刑務所に移されました。その後間もなく,外部通勤受刑者に選ばれました。つまり朝刑務所を出て,夕方一人で帰ればよいのです。ある日,私は仕事が終わってすぐ刑務所に帰らなかったため,その対象から外されました。それでも,警備の緩やかな刑務所にとどまることは許されました。

ほぼ11年服役しても,仮釈放が認められる見込みはほとんどありませんでした。ところが1985年8月のある暑い朝,刑務所の外に出ていたとき,見つからずに逃げるチャンスが開けたのです。私は一緒に服役したことのある友人の家にたどり着きました。一晩休んで服を着替えてから,400㌔ほど離れたワシントンまで車で送ってもらいました。

刑務所には戻るまいと決めていました。したがって,もう犯行を重ねることはできません。最初は職種を問わず日雇い労働に就きました。それから電力会社の仕事が見つかりました。やがて,デリック・マジェットという仮名で出生証明書を取得できました。名前,出生地,生い立ち,家族など,私の素性はすべてうそで塗り固められました。だれも自分のことは知らないから安全だと思いました。こうして3年にわたってワシントンおよびワシントン近郊で生活しました。

エホバの証人との出会い

ある晩,私の住む共同住宅にきちんとした装いの若い男性が二人やって来ました。二人は聖書について話してくれ,私は本を受け取りました。二人はまた訪問すると約束しましたが,私がほかの共同住宅に引っ越したため,以後その二人とは会えませんでした。その後ある朝,仕事に向かう前に立ち寄った喫茶店で,二人組の女性から「ものみの塔」誌に興味はありませんか,と言われました。私は1部受け取りました。以後毎朝,二人は私に会うと聖書について話してくれるようになりました。

話し合いはいつも手短なものでしたが,二人の話に対する関心が高まり,シンシアとジャネットの二人に毎朝会うのが楽しみになりました。やがて,早朝に伝道していた他のエホバの証人とも顔見知りになりました。証人たちは王国会館での集会に出席するよう誘ってくれました。不安もありましたが,行くことにしました。

その午後の時間に聞いた話ほど,聖書を分かりやすく解説する話は聞いたためしがありませんでした。「ものみの塔」誌を用いた聖書研究にもとどまり,質問に答える形で参加できることが分かりました。私は初めて注解し,集会後,会衆のある長老との聖書研究に応じました。

私はすぐに聖書の知識の点で進歩しました。そのうえさらに大切な点として,学んでいた真理の価値を認めるようになりました。自分の生活について気持ちが落ち着かなくなりました。周りの人を欺いていることで罪の意識を持つようになりました。その人たちは今や私の友人なのです。研究は続けました。私の素性を知る人がいない限りやっていけるだろうと思っていたのです。でも私の研究司会者は,家から家の宣教に参加することを話題にし始めたのです。

そのころ起きたある出来事を通して思い知らされたことがあります。それは,自分の現状について手を打たなければ,宣教にせよ,その種のどんな活動にせよ,自分は到底参加できないということです。私が車に給油していたときのことです。後ろから近づいてきたある人に両肩をがっしりとつかまれました。冷や汗が出ました。ついに当局に捕まったかと思ったのです。それが刑務所での以前の親友だと分かり,ほっと胸をなでおろしました。彼は私が脱獄したことを知らずに私を本名で呼び,根掘り葉掘り質問してきました。

脱獄して以来,その時ほど怖い思いをしたことはありませんでした。でもふとある考えがよぎりました。家から家の宣教を行なっている最中に,自分の素性を知っている人に会うことがないだろうか。人を欺いて生活しているのに,エホバへの奉仕のために出て行って真理を語ることなどできるだろうか。どうすればいいのだろう。人を欺きながら研究を続けるべきか。それとも研究をやめて引っ越すべきだろうか。すっかり困惑した私は,しばらく出かけて考えるしかありませんでした。

決定を下す

私は旅に出ました。車でのんびり遠出するのは,落ち着いて考え,何をすべきかを決めるための助けをエホバに願い求める上でまさに必要なことでした。ワシントンへの帰路に就くころ,ようやく決定を下すことができました。それは人を欺く生活をやめて真実を語るという決定です。でも実行するのは決定するよりさらに難しいことでした。シンシアのことをかなりよく知っていたため,彼女に秘密を打ち明けました。シンシアは,私がエホバのみ前で物事を正す必要があることをはっきりさせ,会衆の長老たちに話すよう勧めてくれました。

彼女の言う通りだと思い,そうすることにしました。でも法律上何をすればよいかが不確かだったので,地元の弁護士に電話で身の上を説明しました。弁護士は,ノースカロライナ州の弁護士と連絡を取るよう勧めてくれました。彼らはその州の手続きを知っているからです。それで私は弁護士についての情報を得るために南へ向かいました。

ノースカロライナ州ローリーに着くと,刑務所まで車を走らせました。刑務所はある大通りに面しています。車を止めて腰掛け,丈の高い鉄条網,武装した看守が見張りに就く監視塔,柵の中で歩き回る受刑者といった様子を見つめました。そのような刑務所で私は11年も服役していたのです。これは容易ならぬ決定です。

それでも私は電話帳から弁護士を選びました。電話をかけ,最初の弁護士に話したときと同じ情報を知らせました。弁護士はあれこれ質問しませんでした。ただ手数料を知らせ,準備できしだい連絡してくれれば予約を入れると言うだけでした。私はワシントンに帰ると,研究司会者のもとに直行しました。

司会者と奥さんと娘は,私にとって家族のような存在でした。ですからその晩,司会者の家に着いてからも,なかなか話を切り出せませんでした。でも話し終えると胸の中がすっきりしました。彼らは控え目に言ってもびっくりしていました。とはいえ,ショックから立ち直るとたいへん同情し,支えになってくれました。

次にする必要があったのは,弁護士に支払う費用を貯めること,そしていつ自首するかを決めることです。日付は1989年3月1日に決めました。あと数週間しかありません。仕事を辞めて自由な最後の日々を満喫したいと思っていましたが,弁護士に支払う費用が必要だったのでそれは無理な話でした。

脱獄したのに,お金を貯めて刑務所に戻ろうとしているのは甚だ皮肉に思えました。時折,ただすべてを忘れてやめてしまおうかという考えも脳裏をよぎりました。しかし3月1日は,あまりに早く訪れました。司会者と,もう一人の聖書研究生がローリーまで付き添ってくれました。私たちは法律事務所に行き,私が投獄された罪と刑期について,また自首しようと思っている動機について話し合いました。次いで弁護士は治安判事の事務所に電話を入れ,私がどこに行ったらよいかを尋ねました。すると治安判事は,私を刑務所に連れ戻すためすぐに出向くと回答してきました。

私はそんなに早く戻る心づもりができていませんでした。その日は弁護士と話し合うために来ただけで,翌日にでも出頭すればいいだろうと思っていたのです。でも決定はなされ,私たち4人は刑務所にゆっくり車で向かいました。『これは現実なのだろうか』と考えたことを覚えています。そしてふと気づくと,私たちは正門に到着しており,弁護士が看守に私の身分を明かす様子が耳に入ってきました。

刑務所に戻る

門が開き,別れのあいさつをする時となりました。私は弁護士と握手しました。次いで司会者,それに仲間の研究生を抱き締めて別れを告げました。門の反対側に入るなり私は手錠をかけられ,囚人服に着替える場所まで連れて行かれました。囚人番号21052-OSは,以前私に付けられていた番号と同じです。

そこは警備が緩やかな刑務所だったため,私は数時間もしないうちに警備が厳重な刑務所に移されました。所持品として,聖書と「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本を持つことしか許されませんでした。一緒に過ごすことになった受刑者の中には,前から顔見知りだった人がいました。彼らは私が捕まったのだろうと考えました。でも私がエホバの証人になりたいために自分の意志で戻って来たことを説明すると,皆は口々にそんなばかげた話は聞いたことがないと言いました。

司会者から最後に言われたことの一つは,「研究をやめてはならない」という点でした。それで私は,聖書や『永遠に生きる』の本を読んだり,以前近くに住んでいた,事情を知る友人に手紙を書いたりしてかなりの時間を過ごしました。私が手紙を送ったエホバの証人には,ジェロームと奥さんのアーリーンも含まれました。それは,感謝の言葉,それにエホバの証人と共に交わったころの心境をつづった簡潔な手紙でした。

ジェロームからすぐに返事が届きました。エホバの証人の巡回大会で自分が行なう話で,手紙を用いてもよいだろうかという問い合わせでした。私は承諾したものの,どんな結果になるかは見当もつきませんでした。私の生い立ちを知っていたエホバの証人はほんの一握りでした。それでジェロームが私の手紙を読み上げ,ブライアン・E・ガーナーという本名を述べてから,「通称デリック・マジェット」と付け加えた時,多くの人は驚きました。しかし次は私が驚く番でした。兄弟姉妹からの励ましの手紙がどっと押し寄せてきたのです。私が集会に出ていたペットワース会衆からだけでなく,他の会衆の人からもです。

やがて私は中央刑務所から,ノースカロライナ州リリントンにある,警備のさほど厳しくない刑務所に移されました。そこに落ち着くなり,宗教的な集まりに関する情報を問い合わせました。うれしいことに,毎週水曜日の晩に所内の教室でエホバの証人の司会する集会が開かれていることを知りました。私を援助するためだけでなく,その刑務所の受刑者で聖書の真理を学びたいと願う人すべてを援助するため,証人たちが愛を示し,支えとなり,努力してくれたことは決して忘れません。集会を司会していた長老の一人は,私が以前に研究していたことを知って,中断していた箇所からすぐに研究を引き継いでくれました。

仮釈放が検討される

数か月が過ぎ,仮釈放審査委員会の審査を受けることになったと知らされました。私は以前に脱獄し,しばらく前に戻った身でした。それでも法律の上では,仮釈放審査委員会の審査が行なわれるか,少なくとも私の件が考慮されたという通知を受け取る必要がありました。仮釈放が検討されることを友人たちに知らせました。再度どっと手紙が押し寄せました。私のところにではなく,仮釈放審査委員会のもとにです。

1989年10月に,仮釈放審査委員会から,私の件を審査するという通知が届きました。私は胸の躍る思いでした。でも委員たちが訪れる予定の日には,だれも姿を見せませんでした。代わりにいつ来るかという知らせもありませんでした。非常にがっかりしましたが,あきらめずにエホバに祈りつづけました。数週間後の11月8日,仮釈放審査委員が刑務所に来ていることが,私と他の二人の人に知らされました。私の審査が最初に行なわれるということでした。

事務所に入ると,書類の入った二つのファイルが目に入りました。一つは1974年にさかのぼる私の記録です。二つ目のファイルの中身は分かりませんでした。私の件について幾らか討議された後,仮釈放審査委員の一人が二つ目のファイルを開きました。そこには,私に関する嘆願状がぎっしり詰まっていました。委員会は,私が脱獄してからそれほど多くの人と接した経緯を知りたがりました。それでエホバの証人との出会いについて手短に話しました。次いで退室を求められました。

自由と新しい生活

部屋に呼び戻されると,「条件付き即時釈放」が相当という委員会の決定を知らされました。私は喜びを抑えきれませんでした。9か月服役しただけで,釈放が認められたのです。書類の発行にしばらくかかり,1989年11月22日に出所しました。今回は走る必要はなく,歩いて出ました。

1990年10月27日,釈放から1年足らずで,エホバ神への献身の象徴として水のバプテスマを受けました。現在,ワシントンで奉仕の僕として,エホバに幸福に仕えています。1992年6月27日,私はシンシア・アダムズと結婚しました。

私はエホバ,妻と妻の家族,それにこのような愛にあふれた世界的な組織に加わることができるよう援助してくださった兄弟姉妹すべてに感謝しています。―ブライアン・E・ガーナーの語った経験。

[13ページの図版]

私はこの刑務所で11年服役した

[15ページの図版]

妻のシンシアと共に

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする