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目ざめよ! 1999
目99 4/8 25–27ページ

クセルクセスの悲痛な敗北

ギリシャの「目ざめよ!」通信員

何も知らない旅行者は,温泉や硫黄のガスを噴出する間欠泉のほうに興味をそそられますが,この地点で「熱い門」という意味のテルモピレーと呼ばれるその海岸平原が,かつては通行不能に近い細長い土地であったことを知れば驚くかもしれません。しかし,この場所で,また少し南のサラミス島で,聖書預言の驚くべき正確さを示す具体的な証拠を見いだせるということに気づくと,もっと興味をそそられることでしょう。

実際,昔を振り返って,預言の成就という観点から考えてみると,これらの場所に関連した,聖書のダニエル書にある特定の預言の詳細には驚かざるを得ません。それら詳細な点は,聖書が神の言葉であることの納得のゆく証拠となります。ダニエル 11章には,一つの目覚ましい例があります。その預言的な情報は,「メディア人ダリウスの第一年」,つまり西暦前538年ごろ,ダニエルに伝えられました。(ダニエル 11:1)しかし,そのとき啓示された事柄が成就するのは,何世紀も後のことでした。

ダニエル 11章2節は,あるペルシャの王についてこう預言していました。「見よ,なお三人の王がペルシャのために立つ。そして第四の者は他のすべての者に勝って大きな富を集めるであろう。そして,その富において強くなるとすぐ,彼はすべてのものを奮い起こしてギリシャの王国を攻めるであろう」。

キュロス2世,次いでカンビュセス2世,さらにダリウス1世が統治した後,その後を継いだ『第四の王』は,実のところクセルクセス1世であり,聖書のエステル記に出てくるアハシュエロスだったようです。この王は実際に,『すべてのものを奮い起こしてギリシャの王国を攻めた』でしょうか。それはどんな結果になったでしょうか。

クセルクセス ― 果断な征服者

クセルクセスは,父ダリウスの軍隊がマラトンで敗北した後の事態に対処しなければなりませんでした。a それで,治世の最初の数年を費やして帝国内の反乱を鎮圧し,また「その富において強く」なりました。

しかし,クセルクセスの脳裏にはずっと,野心的な廷臣たちが勧めるギリシャ征服の企てがありました。そこでクセルクセスは,西暦前484年から3年をかけて,ペルシャの支配下にあったすべての太守領や州から兵士を召集し,かつて地の表を行進した最大級の軍隊と呼ばれるものを編成しました。信じ難いことですが,ギリシャの歴史家ヘロドトスによれば,クセルクセスの地上軍と海軍の総兵員数は231万7,610人に達しました。b

その間に,ギリシャ人は独自の方法で準備を進めました。ギリシャ人は船乗りを職業とする民族でしたが,海軍力は不十分でした。しかし今や,ペルシャ人襲来の脅威を感じ,また“木の壁”で防戦するようにというデルフォイからの神託に応じて,アテネは海軍を組織し始めました。

国営のラウリオン銀山は大鉱脈が発見された場所で,アテネの著名な政治家テミストクレスは,200隻の三段櫂船の艦隊を整えるために同銀山の収益を全額使うよう民会を説得しました。スパルタは,初めは多少ためらったものの,その後ギリシャの30ほどの都市国家から成るギリシャ連合の結成に率先しました。

その間にクセルクセスは,他国を侵略して壊滅させ得る軍隊をヨーロッパに向かわせていましたが,それは決して容易なことではありませんでした。移動中,食物は沿道の諸都市で調達しなければならず,全軍の兵士すべてが1日に1回食事を取るだけでも金400タラントの費用がかかります。何か月も前に使者を派遣し,王の食卓に供するための穀物や家畜や家禽なども用意しました。テントに泊まれたのはクセルクセスだけで,軍隊のほかの兵士たちは戸外で眠りました。

その大軍はまず初めに,アジアとヨーロッパを隔てる狭い海峡,ヘレスポント(現在のダーダネルス海峡)を渡らねばなりませんでした。舟を連ねて一対の浮橋を作ったにもかかわらず,それがあらしで崩壊したため,激怒したクセルクセスは,ヘレスポントの海の水をむちで300回打つこと,また鉄の焼き印を押して,足かせを掛けることを命じ,さらに,技師たちを打ち首にしました。ヘレスポントには改めて一対の橋が架けられましたが,軍隊がその橋を渡り終えるのに丸1週間かかりました。

テルモピレー ― 大敗の場となった,狭く細長い土地

西暦前480年の半ば,ペルシャ帝国の軍隊は,艦隊に付き添われるかたちでテッサリアの沿岸地方を南下しました。ギリシャ連合軍は結局,テルモピレーで抗戦することに決めていました。そこは狭く細長い土地で,当時,本土の山が浜辺から15㍍足らずの所にそそり立っていました。c

ペルシャ軍は,その細長い場所を通らなければなりません。そのためには,幅の狭い縦隊にならざるを得ず,一握りの屈強な敵兵がいるだけで進軍を阻まれてしまいます。スパルタのレオニダス王配下の7,000人のギリシャ人から成る前衛部隊は,テルモピレーに近い海峡のそばに陣取りました。一方,ギリシャ海軍の270隻の戦艦は,アルテミシオン沖で待機し,ペルシャ艦隊への襲撃の機をねらっていました。

クセルクセスは,配下の大軍をもってすればギリシャ軍を敗走させることができると確信して,8月上旬,テルモピレーに到着しました。ギリシャ軍がなかなか屈服しないのを見たクセルクセスは,敵軍を一掃するためにメディア人とシシア人の部隊を派遣しましたが,それらの部隊は大損害を被りました。クセルクセスが派遣した,太守ヒダルネス配下の“不滅隊”(精鋭戦闘部隊)も同様でした。

“悪夢”という名の人物エフィアルテース

ペルシャ軍の前進が阻まれたかに思えた矢先,テッサリア人の強欲な農夫エフィアルテース(ギリシャ語で“悪夢”の意)が,ペルシャ軍を,丘陵を越えてギリシャ軍の背面に回れるように案内しよう,と申し出ました。翌朝,ペルシャ軍はギリシャ軍を背後から攻撃しようと迫って行きました。破滅の危機に気づいたスパルタ軍が猛然と防戦したため,せき立てられて攻撃したペルシャ軍の中には踏みつけられて死んだり,海に落ちたりした兵士が少なくありませんでしたが,結局,レオニダス王と,彼と共にいた1,000人ほどの部下はみな殺されてしまいました。ヒダルネスはスパルタ軍の後衛に迫りました。

ペルシャ軍はペルシャ艦隊の残りの戦艦と共に,アテネ軍を激しく追撃しました。クセルクセスは進軍してアッティカに侵入し,前進しながら町々を略奪し,焼き払いました。アテネ人は近くのサラミス島に避難し,ギリシャ艦隊はアテネとサラミス島の中間にとどまっていました。アテネのアクロポリスは陥落するまでに2週間かかりましたが,アクロポリスを守っていた人々はすべて殺され,その聖所は破壊され,略奪され,焼き払われました。

サラミス ―“木の壁”が功を奏する

ギリシャの戦艦はテルモピレーの近くで,すでに数回ペルシャ艦隊と激戦を交えていましたが,勝敗はまだついていませんでした。その後,地上軍が退却したため,ギリシャ艦隊は南方へ退いていましたが,今度はサラミス湾に再び集結し,そこでテミストクレスがある戦術をとることを計画しはじめました。

テミストクレスは,ペルシャ海軍の中核を成す300隻のフェニキアの戦艦が,小型で頑丈なギリシャ軍の三段櫂船よりも大型で,しかも操船しやすいことを知っていました。ギリシャ海軍の380隻に比べ,ペルシャ艦隊の船はおよそ1,200隻を数えていましたし,ギリシャ軍の水兵はペルシャの戦艦の水兵ほど経験がありませんでした。しかし,サラミス島とアッティカ海岸の間の水道は狭く,50隻の船が並んで航行できるほどの広さしかありませんでした。もしギリシャ軍がペルシャ軍をこの漏斗状の水道におびき寄せることができれば,ペルシャ軍の船の数や機動性の優位は意味をなさなくなるはずです。テミストクレスは,ギリシャ艦隊が逃げる機会を得ないうちに攻撃すべきだという,欺きの知らせをクセルクセスに伝えさせてこの戦いを早めたとされています。

そして,実際にそうなりました。ペルシャ艦隊は,どの戦艦も交戦に備えて万全の態勢を整え,こぎ手はみな位置に就き,槍兵や弓の射手から成る戦闘部隊も持ち場に就いて,アッティカの先端部を迂回し,その水道に向かって航行しました。勝利を確信していたクセルクセスは,その海戦を悠々と観戦できるよう王座を山の上に据えていました。

悲痛な敗北

ペルシャ軍は狭い水路に集まってしまったため,大混乱が生じました。すると突然,サラミス島の高台からラッパの音が響き渡り,ギリシャの艦船が隊列を組んで押し寄せました。ギリシャの三段櫂船はペルシャの艦船に体当たりして船体を砕き,また敵の船同士が衝突し合うようにしました。ギリシャ軍の兵士は,大打撃を受けた敵の船に乗り込んで剣を振るいました。

アッティカの海岸の砂浜には,砕けた木材やばらばらになった死体が散乱しました。この大災難の直後,クセルクセスは,残った船舶を集めて本国へ引き揚げました。その年の軍事行動は終わりましたが,かなりの規模の軍隊を義理の兄弟マルドニオスの指揮下に残して越冬させました。

サラミスの海戦におけるこの敗北は,聖書の熱心な研究者にとって,昔から事前に示されていた事柄でした。つまり,ダニエル書の預言の「雄のやぎ」であるギリシャが,ついには,「二本の角を持つ雄羊」であるメディア-ペルシャに対して覇権を握ることになっていたのです。(ダニエル 8:5-8)さらに重要なこととして,聖書預言は,支配権をめぐる人間のむなしい闘争が,最終的には王イエス・キリストの支配によって終わることを神の僕たちに保証しています。―イザヤ 9:6。ダニエル 2:44。

[脚注]

a 詳細については,「目ざめよ!」誌,1995年5月8日号の「マラトンの戦い ― 世界強国の屈辱」をご覧ください。

b 古代の戦闘の場合,こういう例はあまりにも多いのですが,ペルシャ軍の兵員数についてはまだ論争が続いています。歴史家のウィル・デュラントはヘロドトスが推定した兵員数に近い人数を引き合いに出していますが,ほかの参考文献に出てくる数は,25万人から40万人まで様々です。

c そこは,土砂などが沖積して海岸線が変化し,今日では幅2.4㌔ないし4.8㌔の平たんな広い沼沢地となっています。

[25ページの囲み記事/写真]

三段櫂船 ― 凶器のような船

西暦前5世紀のエーゲ海を制覇したアテネ人の強みは三段櫂船にありました。その船は細長い形をしており,目的地へ向かうときは帆走しましたが,海戦の際にはオールを使って進みました。それぞれのガレー船には少数の兵士の一隊が乗り組みましたが,ねらいは敵船に乗り移ることよりもむしろ,170人のこぎ手の力で船を進ませて三段櫂船の先端に付けた金属の衝角で標的に体当たりし,敵船を航行不能に陥らせることでした。

[クレジット]

Hellenic Maritime Museum/Photo: P. Stolis

[26ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

クセルクセスの軍隊

ヘレスポント

テッサリア

アルテミシオン

テルモピレー

アッティカ

マラトン

アテネ

ラウリオン

サラミス

スパルタ

[クレジット]

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