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目ざめよ! 2001
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親に見捨てられたわたしを神は愛してくださった

バーナデット・フィンの語った経験

私はまだ4歳にもならないとき,3人の姉たちと共に修道院に預けられました。当時12歳だったブライディー,8歳だったフィリス,7歳だったアナメイは,私が何週間もずっと父母を求めて泣き叫んでいたことを覚えています。私たちはどうして修道院に預けられたのでしょうか。

私は,1936年5月28日,カトリックの大家族の家庭に生まれました。私たち親子は,アイルランド,ウェクスフォード州ダンコーミックの小さな家に住んでいました。私は8番目の子どもで,7人の兄や姉たちと一つの大きなベッドで寝ていました。すぐ後に生まれた弟と妹は,化粧ダンスの引き出しの中で寝ていました。

父は農場労働者で働き者でしたが,ほんのわずかな稼ぎしかなかったため,家族は食物にも事欠く状態でした。学校へ行く兄や姉たちのために母が小さなお弁当を作ってやれることはごくまれでした。我が家の状況は,アイルランド中にはびこっていた貧困と,当時のカトリック教会の冷酷な支配の影響をまともに受けていました。

私たち家族は,定期的に教会の礼拝に出席していましたが,母は霊的な事柄に関心が深かったわけではありません。もっとも,姉たちは,暖炉の前に腰掛けて宗教文書を幾らか読んでいる母を見かけたことを記憶しています。母は読んだ事柄を子どもたちに幾らか説明しようとしたものでした。

「おかあちゃんはどこなの?」

修道院へ連れて行かれた日のことは決して忘れません。父と母は廊下で一人の修道女と真剣に話をしていました。私は何が話し合われているのか分からず,そこにいた女の子たちと無邪気に遊び始めました。ふと周りを見回すと,驚いたことに,両親の姿はどこにも見当たりません。「おかあちゃんはどこなの?」 私は声を限りに叫びました。冒頭でも述べたように,何週間も泣き叫んだのです。

せめてもの慰めは3人の姉たちでしたが,修道院の別の場所にいたため,あまり会えませんでした。姉たちの就寝時間は私たち年齢の低い子どもたちより2時間遅かったので,私は,寝室へ向かう姉たちの足音が聞こえてくるまで起きていました。足音がすると,こっそりベッドを抜け出して階段の一番上まで行き,姉たちに手を振ってもらいました。私は,その貴重な瞬間を楽しみにして毎日を生きていました。

修道院は,親の面会を勧めていなかったようです。ですから,父や母と会うことはほとんどありませんでした。それで私は非常な疎外感を持つようになりました。事実,両親が面会に来てくれた記憶は一度しかありませんが,その時でも,私は両親に近づいて行きませんでしたし,両親も私に近寄ってはくれませんでした。ただ姉たちの記憶によれば,両親は数回面会に来たようです。

時たつうちに,私は修道院を自分の家族,家,世界と思うようになりました。修道院にいた12年間に外出したのは2回だけです。2回とも近くの田園地帯へ出かけたのですが,いろいろな樹木や動物を見てとても興奮しました。修道院にいた私たちは,こうした時以外,車やバスや商店を見ることなどありませんでしたし,司祭以外に男の人を見ることもめったにありませんでした。

修道院の生活

修道院の生活には,さまざまな面がありました。良い面もありましたが,多くは望ましくないものでした。一人のとても親切な若い修道女は自分なりに最善の方法で,神のことを私たちに教えてくれました。その修道女は,神様は愛情深い父だと言いました。それを聞いた私はうれしくなり,その日から,神を自分のお父さんと考えようと心に決めました。神は実の父より愛情深く親切な方だからです。それからというもの,私は素朴で子どもらしい祈りをささげては,神に多くのことを語りかけました。その修道女が修道院を去ったとき,とても寂しく感じました。

基礎教育は十分受けさせてもらえました。そのことはありがたく思っています。それでも,“通いの生徒”と呼ばれていた少女たちのことを覚えています。それは修道院に授業を受けに来る裕福な家庭の子女で,特別待遇を受けていました。その人たちが来ると,私たちは教室を出なければなりませんでした。修道女たちからはしょっちゅう,あなたたちは孤児ですから立場をわきまえなければなりません,と言われました。

修道院にはたくさんの規則がありました。その中には道理にかなったものもあり,子どもたちはたいてい,なぜそれらが必要かを理解できました。振る舞いや行儀などに関して,ためになる規則でした。私はそうした規則を通して教えられたことを決して忘れませんでしたし,それらはこれまでの人生に役立ってきました。しかし,ささいなことを問題にした不当に思える規則や,人を当惑させ打ちのめすような規則もありました。そうした規則の一つに,おねしょをしたら罰するというものがありました。また,夜トイレに行きたくなったら罰するというものもありました。

ある日,階段を上りながら隣の子に話しかけると,修道女に呼び戻され,おしゃべりをしたということで罰せられました。どんな罰だったでしょうか。アイルランドの厳しい冬の間じゅう夏服で過ごさなければならなかったのです。私は病弱で,よく喘息や扁桃腺を患っていました。とても具合が悪くなり,修道院にいた少女の多くがそうであったように,結核にかかってしまいました。隔離部屋に寝かされましたが,治療は受けられず,私の親友を含め何人かの少女が亡くなりました。

規則にちょっと違反しただけで,ひどく打ちたたかれた人もいました。ある女の子は生徒全員が出席する集会の時,私たちの見守る中で修道女に2時間以上もたたかれました。私たちは皆泣いていました。公平を期すために申し上げますが,修道女が皆そのように意地悪だったわけではもちろんありません。ですが,無力な子どもにどうしてあれほど厳しくなれるのか,今でも頭を悩ませます。私には決して理解できないと思います。

月日が流れ,やがてブライディーとフィリスは修道院を出て行き,アナメイと私が残されました。私たち二人は互いに,世界中で一番大切な人でした。アナメイは,いつか両親がやって来て私たちを修道院から連れ出し,修道女たちに絶対見つからない場所へ連れて行ってくれるという話をいろいろとして,私を慰めてくれました。アナメイが修道院を出て行ったとき,胸が張り裂けそうになりました。私が修道院を出たのは,それから3年後のことです。

修道院の外の暮らしを学ぶ

16歳で修道院を去ることは,恐ろしい経験でした。修道院の壁の向こうの生活について何も知らなかったので,本当に戸惑いました。バスに乗った時のこと,バス代を払うよう言われましたが,バス代とは何か全く分かりませんでした。お金も持っていなかったので,すぐバスから降ろされ,目的地まで歩かなければなりませんでした。またある時には,バスに乗りたかったのですが,バスは1台も来ませんでした。バス停に行かなければならないことを知らなかったのです。

しかし,多少の虚勢やはったりによって自分が何をすべきかが分かるようになりました。私はなんとか単純労働の仕事に就くことができましたが,数か月働いた後,母に会いに実家へ戻ることにしました。実家には初めて会う弟や妹がいました。そのころには,私の兄弟は全部で14人になっていました。私の寝泊まりできる部屋はなかったので,両親は,私がウェールズへ行って姉のアナメイと暮らす手はずを整えてくれました。父は姉のところまで送ってくれましたが,すぐに帰って行きました。

私はほとんど無一文でしたが,何とか生きてゆくことができました。その後,1953年に英国のロンドンへ引っ越し,そこでローマ・カトリックの平信徒で成る福祉団体,「マリアの軍団」に加わりました。ところが,その人たちと一緒に働いてとてもがっかりしました。霊的な面があるものと期待していたからです。私は霊的なことを話すのが大好きでしたが,「マリアの軍団」での仕事は世俗的で,霊的な話し合いをする時間など全くないように思えました。

ロンドンで暮らしているとき,兄たちの友人だったパトリックと出会いました。私たちは互いに愛し合うようになり,1961年に結婚しました。最初の二人の子どもアンジェラとスティーブンはロンドンで生まれ,その後,私たちは1967年にオーストラリアへ移住し,そこで3番目のアンドリューが生まれました。私たちはニュー・サウス・ウェールズ州のボンバラという田舎町に落ち着きました。

ついに霊的食物を得る

オーストラリアに着いて間もなく,ボンバラの我が家に,ビル・ロイドという若い男性が聖書について話すためにやって来ました。幾つか質問したところ,直接聖書から答えてもらったので胸が躍りました。ビルの述べる事柄に真理の響きを感じたものの,ビルを引き留めて,もっと聖書からの説明を聞くために,ビルといろいろ議論しました。後日,ビルは聖書と雑誌を何冊か持って来てくれました。

私は,その雑誌をとても楽しく読みましたが,驚いたことに,雑誌の発行者は三位一体を信じていないことが分かりました。パトリックが雑誌を読んだら信仰を損なうかもしれないと思い,それらを隠しました。私は,今度ビルが来たら雑誌を返そうと心に決めましたが,次の訪問でビルは,一つの神格を有する三つの位格という教理が聖書の教えに全く反していることを示してくれました。イエスは神のみ子であって,み父であるエホバ神によって創造されたゆえに初めがあること,また,み父はイエスより偉大であることが,すぐにはっきりと理解できました。―マタイ 16:16。ヨハネ 14:28。コロサイ 1:15。啓示 3:14。

やがて,カトリック教徒として教えられた他の事柄も間違っていることが分かりました。例えば,人間に不滅の魂があることや,火の燃える地獄で責め苦を受けるというようなことなど,聖書は教えていません。(伝道の書 9:5,10。エゼキエル 18:4)そうしたことを知った時の解放感は本当に素晴らしいものでした。ある日,私はうれしさの余り台所じゅうを踊り回りました。ずっと愛していながら,決して知ることのできなかったみ父をとうとう見つけたのです。私の霊的な飢えは満たされるようになりました。さらにうれしいことに,パトリックも,新たに見いだした信仰に対して同じ熱意を示しました。

ビルは,別の田舎町テモラで開かれるエホバの証人の大会に私たちを誘ってくれました。何百キロも離れていましたが,喜んで招待に応じ,金曜日の夕方にはテモラに着きました。土曜日の朝,家から家の伝道に参加するために,人々がグループになって大会ホールに集まりました。パトリックと私は期待に胸をふくらませました。かねてから,伝道したいと思っていたからです。ところがビルから,お二人はまだ喫煙しているので,伝道には出られません,と言われました。それでも,ビルが行ってしまうと,パトリックと私は別のグループに加わりました。そのグループの人たちは,私たちをエホバの証人と思い,一緒に連れて行ってくれました。

私たちは間もまく,良いたよりを宣べ伝える業に携わる資格を得るために満たさなければならない聖書的な要求を学びました。(マタイ 24:14)パトリックと私は,ついに喫煙をやめ,1968年10月にエホバへの献身の象徴として水のバプテスマを受けました。

信仰の試練

聖書の知識が増し加わり,エホバとの関係が深まるにつれ,神の約束に対する私たちの信仰は揺らぐことのない安定したものになりました。しばらくして,パトリックは,オーストラリアの首都キャンベラにあるエホバの証人の一会衆の長老に任命されました。私たちは,エホバの精神の規整をもって子どもたちを育てるよう最善を尽くし,十代の子どもを持つ親がよく経験するさまざまな問題に対処しました。―エフェソス 6:4。

悲しいことに,息子のスティーブンは,18歳の時に交通事故で亡くなりました。悲嘆しましたが,スティーブンがエホバの崇拝者になっていたことは大きな慰めでした。私たちは,エホバが記念の墓にいる人たちを復活させてくださる時に再びスティーブンと会いたいと心から願っています。(ヨハネ 5:28,29)翌年の1983年,私も娘のアンジェラのように全時間奉仕を行なうようになり,以来ずっとこの奉仕を行なっています。聖書に基づく希望を人々に伝えることは,人生に対して積極的な見方を保つ助けとなり,心の痛みを軽減するのに役立っています。とてもうれしいことに,最近,姉のアナメイがウェールズでエホバの証人と聖書を学び始めたことを知りました。

1984年,パトリックは,その当時正体不明とされていた病気にかかりました。その後,慢性疲労症候群と診断されました。パトリックはやがて,世俗の仕事をやめ,クリスチャンの長老という奉仕の立場から退きました。幸いパトリックはある程度回復し,現在,会衆の任命された僕として再び奉仕しています。

私は幼いころに,自己鍛錬や自己犠牲,簡素な生活の仕方,わずかな物で満足することを学びました。でも,なぜ私たち4人は修道院に預けられ,ほかの11人は親元にいたのかということが,いつも心に引っかかっていました。両親が亡くなって久しくなります。二人は私が十分に理解することなどできないような状況のもとで最善を尽くしてくれたのだ,私はそう考えて自らを慰めています。当時は,難しい決定を迫られる厳しい時代だったのです。それでも,両親が命という贈り物を与えてくれたことや,二人が考え得る最善の方法で世話してくれたことに感謝しています。そして何よりも,父親のような気遣いを示してくださったエホバに心から感謝しています。

[22ページの図版]

新婚のころ

[23ページの図版]

子どもたちが幼かったころ

[23ページの図版]

現在のパトリックと私

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