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  • 目ざめよ! 2014
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目ざめよ! 2014
目 14/2 12–13ページ
コンスタンティヌスの銅像

歴史のひとこま

コンスタンティヌス

コンスタンティヌスは,歴代のローマ皇帝の中で初めてキリスト教を奉じた人です。同皇帝はそうすることにより,世界史に非常に大きな影響を与えました。それまで迫害されていたキリスト教を受け入れて,キリスト教世界が形成される道を開いたのです。こうして,いわゆるキリスト教は,歴史の動向に影響を及ぼす「社会的また政治的な最強の勢力」となった,と「ブリタニカ百科事典」(英語)は述べています。

なぜ古代のローマ皇帝のことを気に留めるべきなのでしょうか。キリスト教に関心のある方なら,政治や宗教に関するコンスタンティヌスの決定が,今この時代に至るまで多くの教会の信条や慣行に影響を及ぼしてきたことを知る必要があります。その点について調べてみましょう。

教会 ― 公認されて利用された

西暦313年,コンスタンティヌスは西ローマ帝国を支配しており,東ローマ帝国はリキニウスやマクシミヌスの支配下にありました。コンスタンティヌスとリキニウスは,キリスト教徒を含め,すべての人に崇拝の自由を与えました。コンスタンティヌスは,自分の帝国をキリスト教によって統一できると考え,その宗教を保護しました。a

そのため,コンスタンティヌスは,諸教会が論争によって分裂していることに,がく然としました。それで,何としても合意に至らせるために,“正しい”教理を確立して受け入れさせようとしました。司教たちが皇帝の好意を勝ち取るには宗教に関して妥協せざるを得ず,妥協した者たちは税の免除や寛大な支援を受けました。歴史家のチャールズ・フリーマンは,「キリスト教教理の“正しい”解釈を受け入れる者は,天国に行けるだけでなく,地上での莫大な資産を手に入れることができた」と述べています。聖職者たちはそのようにして,俗界の有力者となりました。歴史家のA・H・M・ジョーンズによれば,「教会は保護下に置かれたが,同時に支配下にも置かれた」のです。

「教会は保護下に置かれたが,同時に支配下にも置かれた」。―歴史家,A・H・M・ジョーンズ

どんなキリスト教か

コンスタンティヌスと司教たちが手を組んだ結果,キリスト教と異教の融合宗教が出来上がりました。それ以外のものにはなり得ませんでした。皇帝の目指していたものが,宗教上の真理の探求ではなく,宗教の多元的共存だったからです。コンスタンティヌスはそもそも,異教帝国の支配者でした。どちらの宗教陣営をも喜ばせるために,「自分の行動と行政一般において故意にあいまいな」立場を取った,とある歴史家は書いています。

コンスタンティヌスは,キリスト教を支持すると唱えてはいましたが,異教にもかかわっていました。聖書で非とされている,占星術や他の占いを行なっていたことなどはその一例です。(申命記 18:10-12)また,ローマにあるコンスタンティヌスの凱旋門には,同皇帝が異教の神々に犠牲をささげている様子も描かれています。さらに,太陽神をあがめ続けて,種々の硬貨にその象徴を鋳込ませ,太陽神の祭儀を奨励しました。晩年には,イタリアのウンブリアにある小さな町に,自分と自分の家族のために神殿が建てられ,そこで祭司たちが仕えるよう任じられるのを許すことさえしました。

コンスタンティヌスは,“クリスチャンになるための”バプテスマを先延ばしにし,西暦337年に亡くなる少し前に受けました。同皇帝がずっと受けなかったのは,帝国内のキリスト教勢力と異教勢力からの政治的支持を保つためであった,と多くの学者は考えています。確かに,その生涯に関する記録やバプテスマが遅かった事実から,キリストに対する信仰が誠実なものであったかどうかは疑わしい,と言わざるを得ません。とはいえ,コンスタンティヌスの公認した教会が,政治的また宗教的に強力な組織,キリストに背を向けて世を受け入れた組織となったことは確かです。しかしイエスは,弟子たちに関して,「わたしが世のものでないのと同じように,彼らも世のものではない」と言っていたのです。(ヨハネ 17:14)今や世のものとなったその教会から,無数の宗派が生じました。

こうしたことすべてから,どんな教訓を学び取れるでしょうか。どの教会の教えも,うのみにするのではなく,聖書に照らして吟味すべきである,という教訓です。―ヨハネ第一 4:1。

a コンスタンティヌスがキリスト教をどれほど誠実に信じていたかについては,大いに議論されてきました。なぜなら一つとして,ある文献によれば,同皇帝が「その治世の晩年になっても異教の祭儀を許容していたように思われる」からです。

概要

  • 西暦306年に西ローマ帝国の皇帝となり,西暦324年から337年までは東ローマ帝国と西ローマ帝国の両方を統治する単独の皇帝だった。

  • 自分が戦闘でキリスト教徒の神の支援を得ることを夢か幻の中で保証された,と主張した。

  • ある軍事上の勝利を神によるものとし,「ローマで最も人通りの多い場所にある」自分自身の彫像の手に,十字架の形をした槍を持たせるよう,「直ちに命令を下した」。―歴史家,パウル・ケレステシュ。

  • ポンティフェクス・マクシムスつまり大神官という異教の称号を保持し,自らを帝国内のすべての宗教を統括する大君主と考えた。

コンスタンティヌスの凱旋門

コンスタンティヌスの凱旋門は,同皇帝の戦勝記念

  • 「良い皇帝 ― 良いクリスチャン ― だとしても,神の恵みを失うか権力を失うかのいずれかを選ばざるを得なくなるものだ。帝位に就いたばかりのコンスタンティヌスは,決して権力を手放すことも権力を保持するための罪を犯すこともやめなかった」。―紛争解決と公的問題の分野の教授,リチャード・ルーベンシュタイン。

  • 「コンスタンティヌスが,少なくとも生涯の終わりにはクリスチャンであった,ということは疑えない。ただし,それは同皇帝のキリスト教信仰の質を問わなければの話だ」。―古典文学と歴史学の教授,パウル・ケレステシュ。

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