新世社会の子供達を育てる
『私が今日あなた方に命令する此等の言葉は,あなた方の心に留めておかねばならない。そして,此等の言葉をあなた方の子等に反覆して教え家で坐る時も,路を歩む時も寝る時も,起きる時も,あなた方は此等の言葉を語らねばならない。』― 申命 6:6,7,新世。
1 どの点で,人間とヱホバはは意見を異にしますか?
歩みを定めるのは,歩く人にあるのではないと,ヱホバは申して居ります。人間はその歩みを定めることが出来ると人々は言います。人々は,それで神の指示を拒絶して,人間の指示を受け容れますので,混乱と紛糾にはまり込んで仕舞い,結局には神は真であると証明して居ります。人間に正しいと見える道であつても,しかしそれは,終りには死の道であるとヱホバは申して居ます。人間にとつて正しいと見える道を,人間は長い間取つています。しかしその道は,戦争,飢饉,病気,そして死に導いて居ます。人間にとつて正しいと見える道は,神にとつては,間違いに見えます。人の歩く道は,神の指示する道ではありません。―シンゲン 14:12。エレミヤ 10:23。
2 子供の訓練に関して,近代の人達はどんな誤つた愚かな考え方をしますか?
2 人にとつて正しいと見える道が,死に終るならば,子供にとつて正しいと見える道は,一体何処に終るでしようか? 歩みを定めるのは,歩く人にないならば,ヨチヨチ歩きの子供にどうしてその歩みを定めることが出来ますか? しかし,現代の子供は自分自身の歩みを定め,自分自身の道を選ぶべきであると,現代の人は言います。だがその現代の人の歩みは,ますます混乱に落ち込み,そしてその道の終りは,破滅の溝に入ることなのです。この方法は『自己節制』と言われています。そして,非常に熱心にこの方法を主張している一人の人は,このように書いています。『自己節制に,両親の渋面や,怒りの言葉があつてはならないのは,明瞭なことである。幼児は,どんなことでも,何時でも許されて認められるべきである。……子供の一番の目的は,愛せられることである,そして叩いたり,お説教をしたり,渋いいやな顔をするならば,子供は愛せられていないと感ずるのである。……子供に恐れの気持を与えることは,許すことの出来ない罪である。私は急いでこう申しましよう,すなわち恐れは,必ずしも叩くことや,怒鳴ることを意味するのではない。はつきり悪いですよ,と言わない多くの母親達も,「駄目よ」という顔付きだけで子供に恐れの気持を生ぜさせるのである。』懲しめは,子供を抑制し,子供をじらし,子供の個性の発展を阻止すると彼等は主張して居ます。
3,4 私達の時代に,ぞつとするどんな特別の犯罪がありますか?
3 しかし,これから述べる例は,その発展を阻止されるべきであつた或る個性についてです。15歳の少年は,10歳の少女を刺し殺しました。何故? その少年はこう答えました。『殺そうという抑え切れない衝動を突然に感じたから。』16歳の少年は,金鎚で人を殺しました。その理由は,『誰であつても構わない,誰かを殺したいという気持を突然に感じたから。』別の16歳の子は3人の姉妹と,その兄弟にピストルを打ち,殺しました。その子はこう言いました。『誰かを殺すことは,どんな気持になるだろうと思つたから。』15歳の少年は,彼の一番の親友を,リバイバル・テントの集会の時にナイフで刺し殺したと警官に語りました。その理由は,『親友が,歌の本で僕を打つたから。』16歳の,少年は眠つている間に足をクスぐられたからというだけで,その友達を殺しました。バスケットの試合を見に行くのに,母親が家族の自動車を使わせなかつたからというので,10歳台の一人の少年は,猟銃を取り,その母親を殺し,11歳の弟と6歳の妹を殺し,自動車に乗つて,試合を見に行きました。ライフル銃を持つていた二人の兄弟は,遠い所から一人の人を溺れさせ,それからその傷ついた人のところに近づき,代わる代わりに,その人の体に銃を打ち,そして最後に直射程のところから,その人の頭に弾丸を打ち込みました。また別の10歳台の少年は,週末になつて殺人をしようと出掛けて行きました。彼の犠牲者は叫びました。その少年は,叫び声を我慢して聞くことが出来ません。『どうもしようがない』と,彼は平然と5人を殺しました。
4 昨年の7月,ニューヨークの新聞の表紙の見出しに,『ナイフで争う少女ギャング団の戦争は,未然に防がる』というのがありました。その報告はこう述べています。『氷割,ナイフや,肉屋のナイフを用いる少女ギャング団の戦いは回避された。警官隊が,知らせに応じて行つた時には,戦闘の戦列はすでに形成されてあつた。』少年についての争いの結果,闘うということになつたのでした。10歳台の者達の間で,ギャングの戦争があると聞いても,一寸信ぜられないですが,しかし,本当のことです。反対し合うギャング団は,予め約束して置いて出会い,鉄砲,ナイフ,棍棒,そして『モロトフ,コックティル』と知られている自家製のガソリン爆薬すらも用いて戦うのです。ギャング団が戦つた或る一つの場合に,一人の少年は自動車の前部の緩衝器に縛りつけられ,それから運転手のいない車は坂を下つて行き,下のところで車が潰れた時に,その少年は殺されました。また,10歳台の者で成り立つている一つのギャング団は出会い,戦いが始まりました。弾丸は5発発射されました。5人の子供は倒れました。その中3人は傷を受け,二人は死にました。
5 近代の方法によつて結ばれた実を考えて見る時,どんな結論にある人は到着しますか?
5 人は,原子の抑制を得ることが出来ますが,しかし彼等の子供達の抑制を得ることは出来ません。児童心理学者は,子供に抑制を与えることに反対し,抑制の無い進歩的な方法を支持します。だが,心理学者の言う方法に従つて育てられる子供に,どうして犯罪が増加するのですか? 児童心理学者達の植えた訓練の理論がそんなにも良いはずならば,刈り取つた果は,何故そんなに悪いのですか? 少年犯罪の記録について,少しだけは述べられましたが,それだけであつても,果は腐つているということが判ります。最近に,指導的なニューヨークの新聞は,10歳台の犯罪とギャングの戦争について一と続きの記事を載せ,懲しめを全く必要としないという子供教育の進歩的な方法が始まつたことに注意して,次のように述べました。『それら10歳台の者が,戦い合うという犯罪の多いことからして,こう結論せざるを得ない。すなわち,懲しめが足りないために,多くの子供達は,振舞いについての正常な標準を認めようとしないのである。』ジェー,エドガー,フーバーは,少年犯罪の原因を調査して,原因の9割は,両親の懲しめが足りないと述べて居ります。ブルックリン裁判所の一人の裁判官は,痛烈な論評を述べて居ります。『或る若者達には,薪の小屋が必要であると,私は思う。しかし,それは,今では流行していないようである。恐らく天才を駄目にして仕舞うからというので子供を打つてはならないと,今言われている。』
6 近代の方法の代りに,何が入れ代るべきですか?
6 しかし,害われない天才は多く出て来たでしようか? それどころか,少年犯罪の記録的な収穫を苅つては居りませんか? 良い木は善い実を産出して,腐つた実を産出しません。恐らく,児童心理学者の植えた理論は,良い木ではなく,腐つた木でありましよう。腐つた木は,切り倒されねばなりません。現代の方法は,根こそぎ取り除かれ,その代りに正しい両親の懲しめが植えられねばなりません。歩みを定めること,また助けなしで正しい途を選ぶことは,両親にも子供にもありませんので,その両親の懲しめとは,人間にとつて正しいと見えるようなものではありません。ヱホバ神に求めなさい! 彼は,両親と子供両方を正しい道に導かれます。その言葉を通して,彼は両親を導きます。神によつて教訓を受けたその両親を通して,彼は子供を導きます。ですから,ヱホバに信頼しなさい。自分自身に依存してはなりません。このことについて,ヱホバを認めなさい,そうすれば,彼はあなたの途を導くでありましよう。―シンゲン 3:5,6。マタイ 7:16-20。
7 両親には,どんな責務がありますか? そして,どのようにその責務を果すことが出来ますか?
7 両親に対して,ヱホバはこのように申して居ます。『私が今日あなた方に命令するこれらの言葉は,あなた方の心に留めて置かねばならない。そして,これらの言葉をあなた方の子供に反覆して教え,家で坐る時も,路を歩む時も,寝る時も,起きる時も,あなた方は,之等の言葉を語らねばならない。』― 申命 6:6,7,新世)両親は教育する義務があり,子供達は聴き学ぶ義務がありました。この教育には,時間とか,場所について,制限は置かれていません。適当な時には何時でも,都合の良い時には何処であつても,状態がどんなであろうと適当な場合であるならば,教育を与えねばなりません。またこれに加えて,両親は特別な時を設けて,子供達と家庭研究をすべきです。その時とは,朝食の時に聖句を論議することでありましよう。または日中か夜に,協会の書物の1冊か,聖書の1章か,ものみの塔の補助的な記事か,『すべての事を確めよ』の中の論題を研究するか,あるいは会衆の集会で提出された諸点を再検討することでありましよう。
8 子供達と集会に関連して,何が為されるべきであり,何が為されてはいけませんか?
8 子供達は,これらの集会に是非出席し,静かに坐つて居るべきです。子供達が出席することは,神の命令であることに気をつけてください。『男も女も,小さな者も,そしてあなた方の門の中にあつて一時的に住まつている者も,すべての民を共に集めなさい。それは,彼等が聴くためであり,またあなた方の神ヱホバを恐れ,この律法のすべての言葉を守り行い注意を払わねばならないことを知るためである。』(申命 31:12,新世)小さな者達は,両親から分け離されてはなりませんでした。また特別の教育を受けるために,ある日曜学校に追いやられるということではなく,一つの会衆に居らねばなりませんでした。それは『彼等が聴くためであり,そして彼等が学ぶためであります。』何について,子供達は聴かねばなりませんでしたか? 子供達のために特別に書かれ,理解出来るように単純にされた律法でしたか? いいえ,子供達は,レビ記のような複雑なことがらを聞きました! 子供達は,聴いて学びました,そして理解出来なかつた時,彼等は後で両親に質問をしました。今日,子供達を防音室に入れて仕舞つて跳ね廻つて遊ばせてはいけません。また子供達にオモチャを与えて遊ばせ,集会に出席させないことは賢明ではありません。子供達の出席を命じているヱホバの目的は,『彼等が聴き,そして学ぶため』であります。若しも,イスラエルの小さな者達が,レビ記を聴いて学ぶことが出来たならば,今日の子供達は,レビ記よりも軽い資料を聴くことが出来,学ぶことが出来ます。この道は,人間にとつて正しくは見えないかも知れません。しかし,神にとつて,その道は正しいのです。
両親の手本は重要
9 子供達に,模倣する特質があることを,イエスはどのように示しましたか?
9 語つたり,読んだりする教育は,多くこのことを成し遂げます,しかし手本によつてなされる教育は,もつと多くのことを成し遂げます。好もうと,好むまいと,両親は子供達の手本となります。手本に対して,子供達は非常に敏感です,そしてその手本に模倣しようとする傾向を生まれながらに持つています。次のように言われた時に,イエスはこの事を示しました。『この時代の者を,誰に比較しようか? それは子供達が市場に坐つていて,その遊び友達に呼びかけ,「私達は笛を吹いたのに,あなたたちは踊らなかつた。私達は歎き悲しんだのに,あなたたちは悲しみに打たれなかつた。』と言うのに似ている。』(マタイ 11:16,17,新世)イエスの時の時代の人達は,全然協力しようとせず,彼等を満足させることは不可能でした。丁度,他の子供達が笛を吹いた時に,それに応じて踊ろうとせず,仲間の者が歎いた時に,それに答えて歎かなかつた遊び友達のようでした。しかし,大切な点はこうです,すなわち,遊んでいた子供達は大人を模倣していたということです。大人は,結婚式の時に音楽や踊りをしました。また葬式をする時には,非常に歎き悲しみの声をあげました。この遊びい於いて,子供達は大人の行為を模倣していました。
10 何について,両親は確かにするべきですか? 両親は何を期待することが出来ますか?
10 両親としてあなたの行為は,模倣するに価値あるようなものに,是非しなさい。家庭で,あなたは聖書と,聖書の研究を助ける本を規則的に研究しますか? あなたの区域にある書籍研究,会衆のものみの塔の研究,奉仕会そして宣教学校の集会に出席しますか? あなたは静かに坐つていて,聴き,そして機会が与えられる時に,註解を申しますか? あなたの子供達を連れて,野外奉仕に規則的に従事しますか? あなたが家から家への業,再訪問の業,そして家庭聖書研究の業をする時に,子供達はあなたを注意して見ていますか? あなたが効果的な提供をするのを聞いていますか? 子供達が若しあなたのことを良く注意して見ているならば,子供達が,遊び仲間と家から家への奉仕を遊んだり,人形と研究を司会したり,または空想上の聴衆に向つて研究生の話しをしているのを見たところで驚いてはなりません。そのような遊びをするようにと,或る両親は子供達を励まして居り,良い結果を得ています。
11 子供達を訓練して,新しい世での生命を得させるのに,両親に対する第一の要求は何ですか?
11 とにかく,子供達には模倣しようとする性質があることを考える時に,あなたの子供達を訓練して新しい世に住むようにさせるための最初の重要なことは,あなた自身を訓練して,新しい世に入るようにすることです。あなたの子供達がしてもらいたいと望む道を,あなたが行うことです。あなたの子供達にしてもらいたい道に,あなたがなることです。子供達は,あなたに模倣するようになりましよう。これは,神権的な活動に関して真であるばかりでなく,個人の活動に関して特に真であります。あなたの道徳の標準が高く,またあなたの原則が良くそしてあなたが親切で礼儀正しく,すべての人に思いやりがあるならば,あなたの子供達はそれらの方向に向つて傾き寄つて行くでしよう。もしあなたが静かで,尊敬を受けるに足り,正直で,恵み深く,誠実で愛の心を持つならば,これらの性質はあなたの子供達に伝わつて行くことでしよう。
12 どんな厳しい質問でもつて,両親は自分自身を調べることが出来ますか?
12 あなたが,同じ年頃の少年少女の時に何をしたかと,子供に語つても,それは殆ど価値の無いものです。子供は,子供の時のあなたを見ませんでした。子供は今のあなたを見ています。子供の時に,あなたが何をしたかなどは,そう重要ではありません。今あなたは何をするかということは重要です。重要なのは,子供のときにあなたが何をしたかではなく,大人としてあなたが何をするかということです。あなたは二組の原則を持つていますか? その二組の原則の中,一つの原則はお説教の原則で,他の一つは行うための原則,或はまたその一つの原則は,あなた自身のためのものであり,他の原則はあなたの子供のためというようなものですか? 勿論,子供達がしてはならないようなことを,大人はすることが出来ます,しかし支配する基礎的な原則は,大抵同じです。集会中,あなたは小声で話しをしますか,そしてあなたの子供が騒しいことをする時に,子供を叱りますか? 大きな大会の集会中に,あなたは歩き廻りますか,それでいて,あなたの子供が地方の会衆で歩き廻る時に,あなたは懲しめますか? 他の人について語つてはいけないと子供に言つた後,あなたは噂話をしますか? 子供に偽りを言つてはならないと語りながら,あなた自身偽りを言いますか? 子供に対するあなたの約束を破りながら,子供は,あなたに対する約束を守るようあなたは,期待しますか? あなた自身に要求することよりも,もつと多くの事をあなたは子供に要求しますか?
13 両親が,言葉と行為で矛盾しているならば,どんな結果になりますか?
13 あなたの舌よりも,あなたの行為はもつと大きく話しあなたの手本はあなたの言葉よりも多く言うということを決して忘れないでください。若しあなたが原則を実行するならば,あなたは原則についてとやかく言う必要は無い様です。或る事柄は,小さなことに見えるかも知れません,しかしそれらの事柄が,あなたの子供に教え込もうとしている原則を犯すならば,それらの事柄は害をします。あなたは矛盾して居り,信頼するに足りないと,子供は考えるかも知れません。そして,子供もまた原則を無視することが出来ると感ずるでしよう。あなたの訓練と教訓は一致して居なければなりません。さもないと,子供はどうして良いか判らず,あなたが一つの事を言う時に,あなたはそれをするのか,またあなたが約束する時,その約束を実行するのか,或いは又あなたが脅す時に,あなたは本当にその脅しを行うかどうか,子供には確信が持てなくなるでしよう。あなたが言いながら,行わないならば,あなたは偽善的なパリサイ人のようです。パリサイ人について,イエスはこう言いました。『彼等は話すが,行わない。』(マタイ 23:3,新世)パリサイ人の言つたことは皆正しかつたのですが,彼等のしたことは皆間違いでした。子供は,不誠実と偽善を見つけ出して,それらを好みません。しかし,子供はまた,利己的な利益からそのような不誠実と偽善を模倣します。それですから,両親の方々,あなたが小さなパリサイ人を欲しないならば,あなたは大きなパリサイ人になつてはなりません。
14 現在の年少者犯罪に対して,何故主として両親に責任があるのですか?
14 現在の年少者犯罪の多くに対して,両親の手本は責任があると非難されて居ますが,それは全く当然なことです。ニュー・ヨーク市の一人の著名な裁判官は,犯罪を引き起す二つの要素を指摘しました。(1)高官たちが,犯罪者と親しくし,犯罪者を保護すること,(2)両親の導きが不足している。犯罪の問題を討議したある青年達の討論会は,『家庭に於ける両親の失敗と,人々の多くの者が,道徳の規定を破つていることを強調した。』一人の教育家は次のように述べました。『年上の者が子供達に教える道徳と,それら年上の者がする実際の生活は違つていることは……アメリカに於ける犯罪の増加を助長しているのである。』大人は小説を書いたり,喜劇や映画を作つたり,テレビジョンを行つたり,音楽を作曲したり,宣伝を出版したりして,多くの事柄の中で,性・不道徳・窃盗・殺人・暴力そして戦争というようなもので人々の心を一杯にして居ります。これらは,堕落した肉の腐つた果ですが,若い者達の心に刻み込まれます。しかし,若い者の心も,年を取つた者の心も,ヱホバの霊の良い果に心を向けねばならぬと,聖書は申しています。私達の深いところにある考えも,遂には言葉と行為で表現されるというのは,ヱホバの律法であります。(ガラテヤ 5:22-24。ピリピ 4:8。マタイ 12:34,35)悪い考え方が,正しい考え方で取り除かれないならば,悪は遂に表面に出て,私達を罪の中に沈めるでありましよう。
育成の時期に訓練する
15 神を恐れる両親は,何について非常に懸念しますか? しかし,どんな有利な点を彼等は持つていますか?
15 この古い世は沈んでいます! 古い世自体沈んで居ります。古い世は,不潔を播いて,不潔を苅り取ります。古い世は神を嘲笑していますが,それは必ず罰せられるでしよう。(ガラテヤ 6:7,8)しかし,私達が道徳と忠実の走路を航海して行かねばならないのは,犯罪に満ちた人類の汚れた海の只中であります。そして,誠実な心を持つ両親の最も心配に思うことの一つは,その子供達が家庭の港から出て行く時に,このような海の中で沈みはしないかということであります。全くパウロの言いましたように,『悪い交際は,有益な習慣を害う。』ということは本当に真であります。(コリント前 15:33,新世)しかし,子供達が生まれる時に,真理に入つている両親は,祝福された利益を持つています。子供は,この世との交際をする前に,その両親と交際します。最初の数ヶ月の間,その両親だけが,子供と交際します。そして,子供が学校に行く前の初めの数ヵ年の間,その両親は子供と多く交際をいたします。両親が子供とする交際が良いならば,悪い交際が子供を攻撃をする前に,それは良い習慣を築き上げるでしよう。そして,悪い勢力が,その子供に向つて,攻撃を加えてくる時には,子供はそれらの攻撃を斥けることが出来ます。智慧は守りであり,そして智慧を持つ者の生命は生き長らえるということを記憶しなさい。―伝道の書 7:11
16 どんな偽りの考え方のために,或る両親はこの有利な点を失いますか? この考え方は偽りであると,聖書はどのように証明しますか?
16 しかし,多くの場合,両親はずつと後の年まで神権的訓練を遅らすというような間違いをしますので,貴重な利益を失つて仕舞つています。小さな子供の心は,基礎的な真理や原則を理解することは出来ないと,両親は考えて,神の智慧の守りなしで,その子供を送り出し,この世の交際をさせてしまうのです。幼児の心は,短い期間の中に複雑な言語を学ぶという事実を,両親は忘れているように見えます。複雑な言語を短期間に学ぶということは,大人にとつては難しく,大変なことです。幼児が一つの言語を学ぶならば,何故その言語を清い語にしないのですか?(ゼパニヤ 3:9。詩 148:12,13)神権的な教えを何年も遅らせて,程度の低い知識が子供の頭を一杯にしない前に,何故神権的な教えを最初,心に入れさせないのですか? テモテが幼児であつた時に,彼の母親と祖母は,彼を教えて全く間違えなかつたではありませんか? エモテの母も祖母も,聖書を用いたのであつて,簡単な子供の本を用いませんでした。聖書は,テモテの頭の力以上ではありませんでした。テモテは,聖書を知ることが出来ました。後になつて,テモテの幼年の時の訓練について,パウロは良いことであると認め,そしてこのように言いました。『幼児の時から,あなたは聖なる書きものを知つて居る。その聖なる書きものは,あなたを賢明にさせ,救いを得させるものである。』(テモテ後 3:15,新世)集会に出席しても,小さな子供達は何も得ることは出来ないと或る人は言うかも知れません。しかし,『彼等が聴き,そして学ぶために』子供達を連れて行きなさい,とヱホバは申して居ます。若い時に,創造者について聞かないならば,どうして子供達は,若い時に創造者を記憶することが出来ますか? ―伝道の書 12:1。
17 神権的な訓練を,一生の初期に始めることは,何政良いことですか?
17 ヱホバの言葉にたいする私達の反応と印象によつて,恵みまたは怒りの粘土の器のように,ヱホバは私達を造られます。(ロマ 9:20-24)粘土が新しければ新しい程,容易に造ることが出来ます。粘土が長く置かれるならば,ますます粘土は固くなります。私達が若い時にヱホバの言葉がもたらされるならば,年を取つて,私達自身の仕方が決まつて仕舞うまで待つよりも,そのヱホバの言葉に一致し形造られることは容易でありましよう。そして若い者は柔軟です,そして若ければ若い程良いのです。謙遜の手本として,イエスは子供を用い,イエスの追随者は子供のようにならなければならぬと言いました。(マタイ 18:1-4)幼児は,しつかりと安定せず,指導が必要です。そのことは,『この子いまだ悪を捨て,善をえらぶ事を知らざる前に……』とイザがそのような時を指し示した時に述べられています。(イザヤ 7:16。エペソ 4:14)年の若い時は,育成の期間です,そして,良いにしろ,悪いにしろ育成は行われます。両親は,正しい原則に基いて良い方に育成しなければなりません,さもないと,悪い影響は悪い方に育成をするでありましよう。それで,怠けた両親達が,そろそろ神権的な訓練を始めねばならぬと考える時には,子供達はその訓練に強く反対するようなことになります。―シンゲン 19:18。
18 どのようなことが判つて,幼児のうちに訓練を与えることは賢明であると証明されましたか?
18 年少者の犯罪が,非常に多くなつて来たということを嘆いて,或る新聞の社説は,次のように述べています。『犯罪を予防しようとするには,学校に行く前の年頃の子供達に,我々は接し,始めなければならないと,専門家は現在同意している。』年少者犯罪について,今まで為された研究の中で最も大がかりの研究は,10年もかかつて居ますが,その研究の結果,子供が犯罪になるか,どうかを決定するのは,主として家庭生活にあるというのが大きな発見でした。その調査によると,家族の生活が健全であるならば,子供が犯罪者になる割合は,100人の中に僅か3人ですが,もし両親と子供の関係が悪いならば,子供が悪くなる機会は100人の中98人であるということが判りました。時折りに,或る例外はあるかも知れませんが,シンゲン 22章6節の一般的な規則はいつも真です。『子をその道に従いて教えよ,然らばその老いたる時も,之を離れじ。』
19 悪いこの世の交際が,子供達に及ぼす影響について心配する両親達に,どんな経験談は慰めを与えますか?
19 ここに一つの実際の経験談があります。家族の力の及ぶ保護を離れて行く時,子供達がこの世の悪い交際で害われはしまいかと心配する両親にとつて,この話しは慰めを与えるものでありましよう。一人の証者は,ブルックリンで一人の婦人と研究を司会していました。その婦人の4歳になる男の子は,研究を聴いていました。父親は反対しました。父親の言うには,その子が21歳になるまで待つて,それから宗教についてその子に決定をさせなさい,というのでした。数日後に,学校の先生がその婦人の家に来て,彼女がヱホバの証者の一人であるかどうかを尋ねました。いいえ,ただヱホバの証者と研究しているだけです,と婦人は答えました。それで,先生は,婦人の男の子が一群の子供達に攻撃されているのを見て,その攻撃を止めさせ,そしてその理由を知つたことを語りました。子供達は,近所にある肖像を神であると,その小さな男の子に認めさせようとしました。その肖像は,宗教的なものではありませんでしたが,子供達は宗教的な訓練を受けていたものですから,その肖像を神と考えていたのでした。その4歳の男の子は,拒絶してその肖像を神として認めませんでした。そして,子供達に肖像は見ることも出来なければ,聞くことも出来ず,話すことも出来なければ,動くことも出来ない,神などではあり得ない,だからそれを神と呼べないと,その男の子は言いました! こう言つたためにその子は暴力で襲われました。その子の父親が,このことを聞いた時に,少年が聖書研究に坐つていたことによつて,そんなにも多くのことを学び知つたということにびつくりしました。少年達の暴力に対してびくともせず降参しなかつた,という少年の勇気に非常に感心しましたので,その父親は自分の考え方を変え,少年は続けて研究に加わつても良いと言いました。―エレミヤ 10:5。ヘブル 2:18,19。