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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1955
塔55 10/1 368–375ページ

あなたの誠実を試す

『私の兄弟たちよ,いろいろの試練に会うとき,それをみなよろこびと考えなさい。あなた方の知つているとおり,信仰が試されることにより,忍耐が生み出されるからである。』ヤコブ 1:2,3,新世

1 信仰について説明しなさい。

ヱホバは真の信仰の源であられます。正確な知識に基く信仰は人間を神にむすびつける強い鎖です。しかし普通の鎖と同じく,弱い鎖環のあるとき,鎖はそこで切れてしまいます。それですから,私たちの信仰を調べて試験し,圧迫を加えられても持ちこたえるかそれとも補強する必要があるかないかを見るのは良いことです。ヱホバ神にたいする私たちの信仰は,かたい基礎である聖書の霊感の記録に建てられています。真の信仰は,たんなる軽信や盲目の迷信とは全然ちがうものです。他の人が信じているから,自分も信じようというのは信仰でありません。信仰は感情や感傷の支配をうけず,また利己的,個人的な理由にしたがつて持つのでもありません。信仰の土台は,論理,事実,理性,そして真理です。

2,3 私たちは真の信仰を,どのように得ますか?

2 真のクリスチャンは,世界の出来事を恐れる結果,信仰を持つのではありません。それで,次のように言つたカナダのトロント市のミッチェル大司教の論を認めることはできません。『共産主義は,変装している祝福である。共産主義は人類をキリスト教にならせているからである。』共産主義が神への真の信仰を進めることは,絶対にありません。それに,共産主義に対する恐れで,神の信仰が進むということも絶対にありません。無理強いしても,信仰は得られません。共産主義を恐れてキリスト教信者になることは,神のよろこばれるものでしようか? 人々は,その恐れているものから身を守るためにキリスト教になるのでしようか? 恐れを持つことによつて信仰は決して得られず,それに信仰は恐の上に建てられません。唯一つの信仰があり,その信仰を得るには唯一つの道しかないと聖書は示しています。

3 信仰を得るには,従順に教をうけようとする心が必要です。私たちは,人間や人間の智恵に信仰を持ちません。創造者の無限の知識は,人間の智恵をはるかに凌駕しているからです。神の目から見るとき,この世の智恵は愚かなものと,聖書に記されていますが,それは真実であります。人間の智恵を求めても信仰は得られません。ただ神の真理の言葉である聖書を学ぶことによつて,信仰は得られます。これは真の信仰の基礎です。しかし,知識を得るだけでも,信仰を持つことはできません。神の制度と神の御霊によつて得られる理解が,その知識を補わねばなりません。(コリント前 2:9,10)イエスは,使徒たちの信仰をかたくするため,当時の出来事の意味を語りました。『イエスは,モーセやすべての予言者からはじめて,聖書全部の中で御自分についてしるしてある事がらを説きあかされた。』(ルカ 24:27,新世)イエスの使徒たちにとつて,そのような教訓や匡正は必要でした。使徒行伝 1章6節の示すところによると,使徒たちは,イエスが地上で宣教している期間中に,イスラエルの国が復興するものと思つていました。同様なことは今日でも言えます。私たちの信仰は,従順な気持ちで神の言葉を聞き,そして貴重な同じ信仰を持つ人々の教をうけることによつて,建てられます。

4 信仰の基礎は何ですか?

4 パウロはコリント前書 15章で,信仰のかたい基礎についての例を記していますが,それは復活に関するものです。パウロはまず,キリストの再現を目で見た使徒や500人の兄弟の証言を記して,キリストの復活は真実であると述べています。パウロは,復活についての聖書的な証拠を示すだけでなく,また譬話を用いたり,かつ論じたりして,神の復活の力に信仰を持つことは十二分の根拠を有すると示しています。それで,パウロの信仰は,頭の中で考えたものではなく,感情的に惑わされたものではありません。彼は理性を有していて,しかも信仰を持つていました。私たちも同様に『すべてのことを確め』ねばなりません。そうすることにより,私たちの信仰を強くし,正確な知識のかたい基礎の上に建てることができます。そのような真の信仰を持つとき,まだ見えない事柄にも確信を持つことができます。

5 むかしの人々は,なぜ信仰を持ちましたか?

5 信仰についての特別顕著な例の中に,アブラハムがいます。その揺ぐことのない信仰は,神の復活の力に全く信頼して,自分の子を殺そうとさえいたしました。その大きな信仰の故に,彼は義とみなされました。それだけでなく,アブラハムは建て主と造り主が神である将来の都を待ち望んでいました。それと同じく,今日私たちはキリストの御国に期待し,この時代の信仰の人々に平和と幸福をもたらすようにと望んでおります。これは,主の祈りの中のイエスの言葉と一致しています。『あなたの御国が来ますように。天で行われるように,地にもあなたの御意が行われますように。』(マタイ 6:10; 24:34,新世)モーセやエリヤのごとき昔の他の人々は,ヱホバの保護の御業を知つて後に,ますますその信仰を固くいたしました。モーセは,ヱホバに依り頼みつつ,荒野の岩を杖で打ちました。水は溢れ出て,人々と家畜の渇きを医しました。モーセは,経験と知識に基く信仰から,その確信を得ました。(ヘブル 11:23-29)エリヤも同様な信仰を示しました。そして,バアルを卑しめてヱホバを崇めるため,その準備した犠牲を焼きつくす火が天から降るようにと願い求めました。エリヤの信仰は,『希望する事柄についての確証された期待』であつて,ヱホバに信頼し得ると知つていました。今日私たちは,信仰をかたく立てるための奇蹟や兆を求めません。しかし,自分の良く知つている人に確信と信頼を置くように,神の御言葉を研究することによつて神を知り,神への確信と信頼を持つことができます。

信仰の盾

6 どんな戦が将来にありますか? 私たちは,どのようにその戦に備えることができますか?

6 パウロは,エペソ書 6章で『主と主の大いなる御力のうちに強くなりなさい』と示しています。私たちは,サタンの手立に反対して戦つています。サタンは自分に属する天界の悪しき霊の勢力とともに,小羊と地上の残れる者に反対して戦い,その亡びを図つていると聖書に記されています。サタンはいま,ヱホバの新世社会を代表する者たちに全力をかける最後の攻撃を加えようと,その悪鬼の君たちを結集しています。それで,神の全き武具を着けるようにと言われているのです。それは,いまの悪しき日に立ち向うことができ,そしてすべての事を全くなして,しつかりと立ち得るためです。

7 実際の戦争または霊的な戦争で用いる盾の目的は何ですか?

7 パウロは続けてこう述べています。『あらゆるものにまして,信仰の大きな盾を取りなさい。それでもつて,悪しき者の発つ火の矢を消すことができる。』兵士の用いた大きな盾は,木を2枚重ねた大きな長円形のもので,その上に麻布を覆い,それから毛皮が覆つていました。戦いの時に,その盾は兵士を良く守りました。それは殴打を避けるばかりでなく,火のつけられた矢や槍をも避けました。それらの矢や槍には松脂が塗られていて,そして火で燃えながら敵にむかつてなげつけられたのでした。兵士は大きな盾のうしろにかがんで,飛矢から身を守ることができました。今日,信仰の盾はいちばん重要なものです。兵士は戦の合間に,自分の身を守る盾を調べて,瑕疵がありはしないかと注意を払いますが,それと同じくクリスチャンはたえず自分の信仰を調べて強めねばなりません。そうすれば,まさかの時でも自分の身を守ることができます。悪しき者たちは,いつも神の民に反対して,燃える飛火のごとく非難と迫害を投げかけています。それを避けるためには,信仰の守りが必要なのです。―エペソ 6:10-20。イザヤ 59:17。

8 信仰をどのように強く保てますか?

8 またヱホバに祈と願を捧げなければなりません。そうするならば,いかなる時も全き信仰を持ちつつヱホバに奉仕し,ヱホバの御霊と目的に一致し得ることができます。良い兵士のごとく,目を覚ましていて攻撃に備え,そして私たちの良いたよりを大胆にしかも憚るところなく宣べ伝えねばなりません。備えられた手段を用いることにより,信仰を強く保たねばなりません。すなわち,集会に出席して真理を他人に語ることにより知識を新たにし,善と良き業の道に従い,伝道して活潑な奉仕を続け,そして神に祈を捧げることにより神の御霊をうけ,そしてその徳を建てることです。これらのことを為すとき,あなたはサタンの攻撃にもかたく立ち,信仰の厚い盾で身の守りを得ることができます。それは,あなたを守るばかりでなく,見る者たちに勇気を与えます。

必らずしもすべての者は信仰を持たず

9 多くの人の信仰は,なぜ弱いのですか? 彼らには,何が不足していますか?

9 今日,ヱホバは,人々の信仰を強めるためにあらゆる御準備をつくられていますが,それにもかかわらず,必らずしもすべての人は信仰を持つていません。事実上,多くの自称クリスチャンの信仰は砕かれています。神に確信を置く鎖の弱い環はこわれました。そのことは,カナダのジエームス・マッギガン枢機官の言葉からも明らかです。『今日の群衆意識に関するかぎり,神は死んだものである。神は,口先きだけで敬う人々に対しても,その人間一生の形成に殆どと言つて良いぐらい全然与らないのである。』あなたにとつて神は死んでいますか? それとも,信仰をもつてあなたは生活しますか? 正確な知識で支持される信仰を持つ人の確信は,揺ぐことがありません。(コリント前 1:4-9,新世)しかし,多くの人の信仰は覆えされました。その信仰は砂の上に建てられているため,危急の時になるとすぐに流されます。この弱い基礎は,多くの真面目な人の信仰をこわしていますが,それはしばしば偽の教えや腐敗した宗教的な行がその理由になつています。

10 平和を得ようとする政治的な運動になぜ信頼しませんか?

10 例えば,今日の全世界で正直な人は政治の努力に信仰を持ち,その努力を通して永遠の平和と世界一致が得られると願つています。しかし,この地に平和をもたらすための人間の企てが,みな失敗するということは,世俗の歴史の再三再四示すところであります。聖書を知る人々は,混乱の原因がサタンであるとすぐに看破します。パウロは,コリント後書 4章4節(新世)で,サタンのことを『この世の組織制度の神』と示しました。それで,政治的な努力や宗教的な努力で世界平和はとうていもたらされることはなく,これらの企ては必らず失敗いたします。聖書の示すところによると,人間が神を度外視して平和を得たと考えるとき,突然の亡びは彼らにのぞみ,地の諸国はこなごなに粉砕され,ヱホバの御国が支配をいたします。そのような人間の企てを信頼する人々は,必らず幻滅の悲哀を感じます。しかし,神の御国に置く信仰はたしかです。―テサロニケ前 5:2,3。ダニエル 2:44。

11 現在の『信仰の癒し』の間ちがいは何ですか?

11 『信仰治癒者』にたいするまちがいの確信は同じく失望をもたらします。真の信仰は,盲目にされたそのような人々の信仰とはちがうものです。そのような一時的な癒しは神のものでないと,聖書ははつきり示しています。(テサロニケ後 2:9)それを行う者たちが,地獄の火,三位一体,魂の不滅性というような神を冒瀆する教理や,また神の言葉に反対する他の事柄を教えるとき,彼らが神からの者であるとか,神の御霊によることは決してあり得ません。今日の人類を正しく癒すものは,「生命の水」によるのであつて,それこそ信仰の源であります。イエスは,このことについてサマリヤの女にこう言われました『私の与える水を飲めば,それはその人のうちで泉となり,永遠の生命にいたる水を湧き出すであろう。』霊と真をもつて崇拝する人々のみが,そのような霊の癒しの水と生命の見込みを得ることができます。(ヨハネ 4:14-24,新世)イエスと使徒たちは地上で宣教をしていたとき,狭い範囲内で忠実な人の体を癒して健康を与えました。しかし,ハルマゲドン後の正義の宿る新しい世では,癒しの業は忠実な人すべてになしとげられます。これは,ほんの僅かな人だけに特別な恩恵として与えられるのではなく,その時信仰を持つすべての人になされるのです。それで,利己的な動機のために,間違いの信仰で迷わされてはなりません。―黙示 21:4; 22:2。

12 多くの人は,間ちがつた信仰を,どのように持ちますか

12 私たちを全く助けることのできないものを信頼していながら報いをうけないからという理由で真の神への信仰を止めてはなりません。多くの人は大賞牌,漆喰の彫像,崇拝物,守護札,死んでいる祖先の巨大な偶像を信じています。生きていて理智を持つ人間は,死んでいて生命の無いものに祈りを捧げ,崇拝すべきでしようか? それは,悪魔崇拝,迷信,そして魔術を信ずるのが愚かであるように,まつたく愚かであります。(イザヤ 8:19,20)私たちの信仰は,御言葉を通して啓示される生ける永遠の神に置くべきです。信仰が神の御言葉通りに正しく導かれないとき,必らず失望を感じます。仕事が得られるようにと神に祈つたり,また危険な時に生命を守つて戴きたいと神に祈る人々は,自分の利己的な欲望に従つて希望を抱いており,神の御言葉の知識を無視しています。そのような人は神の特別な恩恵を期待すべきではありません。ヤコブが説明したとおり,たとえ願つても,もし間違つたものを願うならば,その願はかなえられないでしよう。(ヤコブ 4:3,新世)人が記念牌を着けているとか,聖書を持つているからという理由で,神は関心を持たれません。大切なのは,信仰と献身であり,そしてヱホバのいましめにかたく従うかどうかなのです。神は人の心を見抜くことができます。これらのことを正しく理解しないために信仰を失う人は,知識が不足していて,そして偽りの羊飼に悪く導かれたため,その信仰の亡びをもたらしたのです。

真の信仰を示す

13 つらい時は信仰を弱めますか? なぜ?

13 クリスチャンは災,つらい時,事故,病気,あるいは死をうけても,神への信仰を捨てるべきでありません。聖書の記録を見る時,それと似た事柄がヨブに起つたのを知ります。ヨブは自分の家,財産,子供たちを失いました。そして最後に彼の妻はヨブに反対し,神を詛つて死になさいとすすめました。神はそのような事柄をいたしません。それは,できるならばヨブの信仰を壊そうとしたサタンの仕業でした。ヨブは一言も不平を言わず,ヱホバに頼つて救を待ち望み,そして彼の信仰は報いをうけました。ヨブは救を切望しましたが,しかし耐え忍び得ないほどに試されたわけではありません。ヨブは誠実を保つた人でしたが,同じくヨブの予表したキリストは,死にいたるまで誠実を保ちました。今日の私たちの信仰は,そのような信仰でしようか? 正確な知識に基いているならば,そうでありましよう。ヱホバの助言によろこんで従うならば,私たちはヱホバの保護と導きをうけます。

14 ヱホバはどんな御準備によつて私たちを助けますか?

14 ヱホバは,御自分に仕える者たちに注意を払われています。ヱホバは,その御言葉により私たちを正しい道に導いています。その道に従つて行くことは私たちに益と福利をもたらすものです。ヱホバはその霊によつて,私たちの困る時に力を与え,弱い時に私たちを支えます。ヱホバはその制度により,私たちが彼の御目的と一致し得るように取り計らつておられます。私たちは,兄弟と交ることにより,教訓,矯正,そして励ましをうけます。宣教の奉仕をすることにより,私たちの信仰はつねに試みられ,精錬されます。伝道の野外奉仕で反対に会い,『御霊の剣』を用いて,その反対を克服することを学ぶとき,知識の弱い点は強くなります。他の人を援助して正確な知識を得させることにより,私たちは自分自身を援助しています。ヱホバの示す道に従うならば,私たちの信仰は決して弱くならず,私たちの道は祝福されます。

15,16 (イ)私たちの信仰は誰に置くべきですか? なぜ?(ロ)私たちは兄弟に対して,どんな態度を取るべきですか?(ハ)聖書の例を述べなさい。

15 私たちの信仰はつねにヱホバに持つべきであつて,人間に持つべきではありません。私たちはヱホバに献身していると記憶するならば,他の人が何を為そうと決して躓くことはありません。各人夫々が自分の主人の前に責任を取ります。それで,会衆の集会で,軽く見られているとか,あるいは見落されているということで怒りを感じてはなりません。集会の際の割り当は,自分の希望する程多くなく,また奉仕の特権については見落されているという理由で,怒りを感じてはなりません。愛はそのような小事を忘れさせます。私たちの信仰が円熟しているならば,いかなる時でも兄弟に正しいクリスチャンの態度を取るべきであります。私たちの物の見方が円熟しているとき,たとえ他人は変化していようとも,私たちの気質,態度,そして他人との交りはつねに一定しております。私たちの兄弟は神を愛しています。さもなければ,神に奉仕していないでしよう。それで,兄弟がヱホバに忠実であるならば,私たちは兄弟に確信し,信頼を置くことができます。その信仰と奉仕の故に,私たちは兄弟を愛すべきであつて,個人的な差異などは見のがすべきです。迫害をうけているとき,そのような密接な一致と献身は極めて大切なものです。それは心を入れ変えることであります。平和のときに仲良くして行くことができないならば,危険な時にどうして調和することができますか? さらに,もし兄弟を愛することができず,兄弟の行に忍耐と寛容を示すことができないならば,私たちは兄弟の奉仕している神を真実に愛しているなどとどうして云うことができますか? まつたく,信仰は愛と同じように,私たちを助けて,些細な事柄を見のがします。

16 ヨセフは,兄弟に虐待され,あまつさえ奴隷に売られましたが,しかし円熟した物の見方を示しました。兄弟が食物と援助を求めてヨセフのところに来たとき,彼は悪をもつて悪に報いず,善をもつて悪に報いることにより正しい性質を示しました。他の者が何を為したかということは,ヨセフの見方を変えもしなければ,その行に影響を及ぼすこともなかつたのです。ヨセフは兄弟にこう云いました。『汝らは我を害せんとおもいたれども,神はそれを善にかわらせ,今日のごとく多くの民の生命を救うにいたらしめんとおもいたまえり。故になんぢらおそるるなかれ,我なんぢらと汝らの子女をやしなわんと。』(創世 50:20,21)ヨセフは信仰の試験をうけましたが,それで彼の性質が気むずかしくなつて悪くなつたわけでなく,また兄弟に反対するようにもならなかつたのです。放蕩息子の兄は,ヨセフとは違う行をしました。彼は放蕩息子になされた暖い歓迎に不平を云い文句を述べましたが,それは愛よりもむしろ利己主義を示すものでした。しかし,イエスの言葉のように,迷わない99匹よりも,迷つた1匹が戻つてくる方に天には大きなよろこびがあるのです。(マタイ 18:13)それで,兄弟がその行を正しく直すのを見るとき,私たちはいつもよろこぶべきであり,天の父が示すようにそのよろこびを示すべきです。他の人が何を為そうと,ヱホバとヱホバの御目的に対する私たちの確信を決して揺がしてはなりません。

17,18 私たちは,どのように,そしてなぜヱホバの制度に確信を示しますか?

17 今日ヱホバの用いている油注がれた制度に信仰を持つことも大切です。聖書の中で,その油注がれた制度は,時にかなつた食物を供給する『忠実にして慧き奴隷』と記されています。私たちはいままでに受けた霊的の食物と理解に本当によろこんでいます。そして,その結果,私たちの信仰は必らず強くなるはずです。私たちはすべての事を証明し,そして聖書的な知識と信仰の基礎を,善にして真実なるものの上に建てなければなりません。忠実な奴隷級を通して来るそのような理解と知識をうけた後でありながら,全部の事がはつきり分らないという理由で急に悲観的な見方や不信を持つべきでしようか? ダニエルの事を想い起します。彼は霊感をうけて書いていましたが,その記録した事柄を悟ることができませんでした。しかし,その正しい理解については,ヱホバに待ち望むべきであるという態度を取り,決して不平を言わなかつたのです。私たちも同様に積極的な態度を取り,そして消極的な見方を持つたり或は不当な証拠を求めようとはせずに,信仰を働かすべきであります。

18 真理の光は全き日にいたるまで,ますます明く輝き,そしてヱホバは御自分の制度を通じて真理を絶えず明らかに啓示されます。イエスはマタイ伝 7章9節で,次のような話をされました。すなわち,子が父にパンを求めるならば,父は子に石を与えないであろう。同じく私たちが真理を求めるとき天の御父が私たちを迷すことはあり得ないであろう。ヤコブは注意の言葉として,こう書いています。智恵に欠けている者は,神に願い求めなければなりませんが,『しかし,疑わないで,信仰をもつて願い求めなさい。疑う者は,風に吹かれて浪立つ海の浪のようである。全く,すべてのものをヱホバから戴けると考えてはならない。』(ヤコブ 1:5-8,新世)それですから,すべてのものを聖書的に証明し続けなさい。と同時に,制度を通して為されるヱホバの御準備と指示に信仰を働かしなさい。

19 懲めは私たちの信仰をどのように証明しますか? どんな益を受けますか?

19 懲めにたいして,どのような態度を取るかによつても,信仰は験されます。私たちは神の制度と制度を通して為される処置に信頼を置くことが必要です。清い崇拝の標準を高く保つため,不義の酵母は取り除かれねばなりません。私たちの間ちがいや悪い行が匡正され,懲しめをうけるならば,その懲しめに感謝の気持を持つべきです。『私は正しいが,他の人はみな悪い』と絶対に考えてはなりません。むしろ,制度への信仰と,受けた懲めに感謝を示しなさい。多分,友人が除名されているかもしれません。私たちは制度への信仰をどのように示しますか? 私たちの知つている通り,懲めは正義の心を持つ人を決して害しません。大切なことは,その人が,その匡正に対して,正しい気持ちでどういう態度を取るかということです。それこそ,神の御前と兄弟の前で大切なものなのです。ヘブル書 12章4-13節(新世)は,多くの良い教訓を述べています。それによると,私たちはヱホバからの懲めを軽んじてはならず,ヱホバから匡正される時弱り果ててはなりません。『あなた方は懲めをうけても耐え忍びなさい。神はあなた方を子として取り扱つておられる。父の懲めをうけない子がいるであろうか?』 御父の匡正は,私たちに善をなす故,私たちは『霊的生命の御父』に全く従うべきであります。『たしかに,懲しめは,その当座楽しくなく,悲しみに見えるが,しかし後になつて,それによつて訓練される者は,平和の実すなわち正義を結ぶであろう。』

20 私たちは匡正された時,どんな態度を取るべきですか?

20 正義の実を結ぶということが,懲めを与える真実の理由です。懲めをうける者が,神の御霊と制度の処置に反抗するならば,そのことは為し得られません。懲めをうける人が,『私を懲戒するこれらの僕たちは完全でない。彼らでも間違いをする。』と言い,そして自分自身の間違いを認めるどころか,そのような態度で他の人々を責めるべきでしようか? その人は,真の信仰を示し,かつ謙虚な心持ちで神に祈りつつその匡正をうけいれ,そして神のゆるしを希望するでしようか? その人は自分の立場を直そうと努力しますか? その人の友人は,𠮟責の条件を守つて制度への信仰を保ち,真の友情と智恵を示すでしようか? それとも,全く悪い無分別な交りをすることによつて,その人の悪行を是認しようと努め,信仰の無いことを示すでしようか?

21 どのように私たちの信仰を生き生きとして強く保つことができますか?

21 信仰は,また殆ど気附くことのできないもので,しかも危険な小さな事柄で験されます。反対による試みをうけなくても,この世的ないろいろな機会のために,人は窒息することがあります。せつかく建てた信仰も,なおざりにするため,すぐにくずれてしまいます。多分地位の昇進をうけて,多くの時間を仕事に注がねばならないでしよう。そうなると,集会や,奉仕や,そして霊的な福利のために費す時間は,すくなくなります。その人は,物質的には富んでいますが,霊的には死んでいます。別の人は結婚して,妻といつしよに奉仕しようと思います。しかし,結果はいろいろな事柄に多くの時間を費し,最初に自動車を買い,次に家を建て,そして次には大きくなる家族を養うようになります。その人の動機は強い信仰によらないため,神の奉仕に捧げる時間は殆どありません。その人は,生涯の一番大事なものをなおざりにしています。その人は,婚姻の祝に招かれても,『私は丁度妻を娶りました。土地や家畜を買つたところなので,来られません。』と言う人のようです。(ルカ 14:18-20)結婚していようと独身であろと,ヱホバに捧げる奉仕の重要性を常に念頭に置くべきです。ただ奉仕をすることによつて,ヱホバへの献身を証明するからです。モーセは,古い世のまどわしを避けた人であつて,良い手本を残しました。モーセは神に捧げる忠実な奉仕こそ真の価値を持つものとみなし,エジプトのあらゆる富や快楽を拒みました。(ヘブル 11:24-26)信仰は,愛と同じように,冷くなるということを決して忘れないで下さい。神への真実の愛を表わし続けるならば,私たちの信仰も強いものです。

信仰の業

22 ヱホバへの信頼を,どのように示すことができますか?

22 真の信仰を持つ人は,イエスの残した道に従います。ヱホバに奉仕することと,御国の福祉を進歩させることは,その人の一番の関心事であります。私たちが忠実に神に奉仕するならば,生活の必要品は神により供給せられるであろうとイエスは保証しました。人は働いて家族の必要品を供給しなければなりませんが,しかし大きな納屋を建てたり,先の年のことを心配して将来のために貯える必要はありません。ダビデは,むかし年わかくして今おいたれど,ヱホバの僕が捨てられ,あるいは糧をこいあるくのを見たことないと言いました。イエスは『私たちの日ごとの糧を今日もお与え下さい』と祈るように教えられ,それと同じ点を示されました。神は百合や動物に対して,豊かに物を備えられています。それで,私たちにも豊かに物を備えられます。それを信じますか? それは真であります。それですから,何一つ心配せずに神の奉仕に献身することができます。それを行うならば,他の人を援助して生命を得させるという特権を持つことになり,その奉仕にたいする神の祝福をうけるでしよう。それで,この世の事がらを背一杯負つてはなりません。むしろ,信仰を示し,そして神への奉仕に参加しなさい。

23 信仰を示し得るいろいろな方法を述べなさい。

23 集会へ定期的に来ることにより信仰を示すことができます。しかも集会へ来ることにより,霊的な健康を守り,かつ知識の弱いところを強めます。誠実は,小さな割り当てを熱心に行い,そしてヱホバの制度を通して与えられる責任をよろこびつつ果すことに示されるのです。これは小事に忠実であつて,その結果もつと多くの特権がつけ加えられます。また,私たちのもたらす真理に人が反対する時でも,失意落胆しないことにより信仰を示します。私たちは忍耐強く,かつ巧みに行い,聞きたいと望む人々に音信をもたらします。私たちは,友人や仕事の知り合いの人に自分の持つ希望を語り,信仰を示すことができます。聖書の例の示すところによると,あらゆる種類の人々は伝道に参加しました。そして嘲笑して反対した人々にも伝道したのです。ノアの時の人々は,彼の警告の音信に注意を払わなかつたにもかかわらず,彼は『正義の伝道者』として知られていました。ヨセフはエジプトにいてもヱホバを崇めたため,エジプト王は彼の信仰を認めました。ダニエルはバビロン政府の高位に即いていたにもかかわらず,自分の持つ信仰を絶対にかくさず,またその信仰を恥ずかしく思うことはなかつたのです。さらに近くはキリストの例があります。彼は全時間をヱホバの奉仕に献身するとともに,弟子たちにもヱホバ奉仕の献身をすすめ,伝道の重要性を示しました。今日ヱホバの証者は家の屋根より自分の信仰を人々に知らせるとともに,御国について語つていますが,その誠実さと熱心さは人々に良く知られています。―マタイ 10:27。

24,25 聖書はどんな反対を予言していますか? それにもかかわらず,真理はどのように拡まつていますか?

24 あなたは自分の信仰を友人に知らせますか? あなたは献身の約束を忠実に果していますか? ヱホバになした誓を忠実に果していますか? イエスが全クリスチャンに与えた任務,つまり,御国のこの良いたよりを全世界に伝道せよという任務を,あなたは果していますか?(伝道之書 5:4,5。イザヤ 61:1,2。マタイ 24:14)たとえ自分の家族の反対をうけようと,信仰を減少してはなりません。人の最悪の敵は,自分の家の者であろうとミカ書 7章6節は示しています。娘は母に,息子は父に反対するかもしれません。イエスはそのことをこう説明しました。たとえ一緒に生活し,一緒に働いているにしても,信仰のある無しにしたがい,この古い世の組織制度の終りにあつて,ひとりは取られ,他のものは捨てられます。(マタイ 24:40,41)家族のきずなによつて,たとえ験されることがあつても,信仰は私たちを守り,私たちを救います。

25 信仰は山をも動かし得るとは私たちの知るところですが,その信仰でもつて私たちは活動しますか? 真理を聞きたくない人の場合,無理強いに真理を与える必要はありません。それは豚に真理の真珠を与えるのと同じです。しかし,私たちは自分の持つ信仰を人々に知らせるべきです。そうするならば,望む人は聞いて学ぶことができます。そうするとき,私たちはパウロの言葉を言うことができます『彼らには聞えなかつたのであろうか。実際に,「その声は全地に行き亙り,その言葉は地の隅々にまで及んだ。」』(ロマ 10:18-21,新世)パウロは又こう言いました。『あなた方の信仰は,全世界で語られている。』(ロマ 1:8,新世)今日では全くその通りです。というのは,ヱホバの忠実な証者は,全世界160の国々で,真理の音信を,耳をも聾せんばかりに宣明しているからです。そのように私たちの信仰を示して,他の人にその信仰を知らせるならば,ヱホバの御心をよろこばすことができます。そして,善意者を生命に導くよろこびを得ます。―ゼカリヤ 8:23。

26 救を得るのに,信仰だけが必要ですか?

26 信仰を持つだけで救われると考える人もいますが,しかし信仰を験して試験し,業によつて証明することは是非必要であると多くの聖句は示しています。信仰は正確な知識に基かねばならず,そして十二分に表明されねばなりません。ヨハネ黙示録 2章25,26節(新世)はこう述べています『ただ,私の来るまで,自分のもつているものをしつかりと保ちなさい。そして勝利を得る者,私の行に最後まで従う者に,諸国民を支配する権威を与える。』神は感傷的な御方であつて,妥協をしたり,その御言葉を変えたり,また永続する信仰と愛を示さない人々に特別な御準備を設けられる御方であるなどと考えてはなりません。神はその正義の御要求を変えません。いま信仰を持つていても,もしその信仰が弱まつて無くなるならば,私たちの救はあり得ません。

27 『一度の救は永遠の救』ということは真ですか? 聖句を言いなさい。

27 真理に進歩して神の子という尊い関係を持つようになり,そして正確な知識を有して神の御霊をうけるに至つても,もし神への信仰がくずれてなくなるならば,その人は神の子ではなく,排斥者です。その人は,父のために働くことを約束しながら,その約束を果さなかつた子のようです。その人は,自分の言葉と誓に対して忠実を守らなかつたのです。(マタイ 21:28-31)ヘブル書 10章26節(新世)には,こう書かれています。『真理の正確な知識をうけた後になつても,故意に罪を犯すならば,罪のための犠牲はもはやあり得ない。』ヘブル書 6章4-6節(新世)は明白にこう述べています。『かつては啓発をうけて,天の自由の賜物を味い,そして聖霊をいただいて神の正しい言葉と将来の組織制度の力を味いながらも,しかも堕落して行つた者たちが,再び悔い改めに立ち返ることは不可能である。彼らは神の子を新しく刑柱にかけて,公けの恥にさらしている。』そのような人は信仰を持つていて神より祝福されましたが,しかし神の子になることを否認して,棄てられました。信仰を働かして強めて行くならば,そのような状態にならないでしよう。私たちはいま,ハルマゲドンにおける大いなる試験の時に近づいています。私たちは何らかの積極的な行為によつて,自分の持つ信仰を示さねばなりません。ヱホバに対する私たちの献身が生温いか,あるいは信仰が不足していて行動しないならば,私たちは棄てられるでしよう。―黙示 3:10,16。

28 人は神の奉仕に参加するのに,なぜ失意落胆すべきではありませんか?

28 これでもつて,信仰の弱い人や,まだ良く理解していない人でも,失意落胆すべきではありません。むしろ知識と神への信仰を強め,奉仕をますます多くなして神に誉を捧げるべきでありましよう。イエスの御説明の言葉によると,芥種一粒ほどの信仰があるならば,その信仰は山をも動かし得ます。(マタイ 17:20)あなたの心をたえず新にして神の御言葉に専心し,神にたいする信仰の鎖を強めつづけなさい。たえず用いて,束縛のない光り輝くものにしなさい。その悪い箇所を調べて,それから直しなさい。それについてパウロはこう書きました。『あなた方は信仰を持つているのかどうか,いつたいどういう者であるのかを調べ吟味し続けなさい。』― コリント後 13:5,新世。

29 信仰のほかに,神は私たちに何を要求していますか?

29 私たちの信仰が深く根差していて,しかも正確な知識に基くものであるならば,信仰の小さな種子は生長して繁茂するでしよう。そして冷い無関心とか,熱い迫害で影響をうけることはありません。私たちがこの信仰を養うとき,それは生長し続け,ヱホバより豊かに祝福されるでしよう。その信仰は,ペテロ後書 1章5-11節(新世)に示されている他の性質と密接な関係を持つています。私たちは多くの努力を払つて,信仰に徳を加え,徳に知識を,知識に節制を,節制に忍耐を,忍耐に敬虔を,敬虔に兄弟愛を,そして兄弟愛に愛を加えねばなりません。『これらのものがあなた方に備つて,豊かになるならば,私たちの主イエス・キリストの正確な知識について,活動しない者,実を結ばない者にはならないであろう。……兄弟たちよ,それであるから,ますます励んで,あなた方の召と選びを確かなものにしなさい。これらの事を行い続けるならば,決して失敗することはない。』それですから,ますますはげんでヱホバに信仰を保ちなさい。クリスチャンに降りかかる試錬にくじけることなく,むしろ神の力と御言葉に頼り,そして神に信頼しなさい。

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