救いはまず家族にそれから隣人へ
「もしある人が,その親族を,ことに自分の家族を,かえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであつて,不信者以上にわるい。」― テモテ前 5:8,新口。
1,2 今日の地上の状態は,ノアの大洪水前の状態とどのように比較されますか。
今日の地上の人々の中,次のことを認めている人はいく人いるでしようか。すなわち,彼らは創造主なるヱホバ神の御前に立つているということです。それは,神が大洪水によつて大きな破滅をもたらし,清めのわざを行なつた直前のノアの立場と同じものです。今日,私たちの生活しているこの時代についてイエスは次のように語りました,「人の子の現れるのも,ちようどノアの時のようであろう。すなわち,洪水の出る前,ノアが箱舟にはいる日まで,人々は食い飲み,めとり,とつぎなどしていた。そして洪水が襲つてきて,いつさいのものをさらつて行くまで,彼らは気がつかなかつた。人の子の現れるのも,そのようであろう」。―マタイ 24:37-39,新口。
2 ノアの時の記録は次のように述べています,「ヱホバ人の悪の地に大なるとその心の思いのすべてはかる所のつねにただ悪しきのみなるを見たまえり……暴虐世にみちたりき」。(創世 6:5,11)人間は,神の目的に反対して悪を行ないました。それで,神が彼らを地からぬぐいさることは必要となり,神はそのことを行ないました。今日の世界も悪と暴虐で満ちています。そしてヱホバは悪を行なう者たちに対する処置を取ろうとしておられるのです。大いなる愛の神が,正義のノアとその家族を滅びから救われたごとく,今日でも正義を愛好する人々や家族は,救いを受けることができます。
3 どんな音信を諸国民に伝えねばなりませんか。そして,誰によつて?
3 神のハルマゲドンの戦争による宇宙的な滅びに面しているこの世に,救いの良いたよりを知らせねばなりません。「よきおとずれを伝え,平和を告げ,よきおとづれを伝え,救を告げ,シオンにむかつて『あなたの神は王となられた』と言う者の足は山の上にあって,なんと麗しいことだろう」。(イザヤ 52:7,新口)ヱホバの忠実な民は,よろこびいさんでこの預言を成就しています。そして救いと平和の良いたよりは,いま全世界にのべ伝えられているのです。さし迫つている滅びの警告と救いの道をのべ伝えるために大きな犠牲が払われています。それで,幾百万人という人々は,ハルマゲドンにおける神の刑執行から身を守るのに必要な知識を得ています。諸国民のあいだで,町々で,小さな村や田舎で,この音信は伝道されています。それはマタイ伝 24章14節(新口)でイエスが預言した通りです,「そしてこの御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。
4 隣人に音信を述べようとする熱心のあまり,奉仕者は第一に何を考えることを見落すことがありますか。
4 熱心なヱホバのしもべたちは,最大の努力をはらつてこの生命を与える御言葉を隣人に伝えようとします。聞く耳を持つ人々のあいだで伝道したり,教えたりすることは,時間と力を消耗する活動です。ときどき私たちは隣人を救うことに熱中するあまり,自分の家族の救いについて十分な世話と注意を拡わないことがあります。しかし,実際のところ,各人は先ず自分の家族のことを第一に考えねばなりません。使徒パウロはこの規則を次のように述べています,「もしある人が,その親族を,ことに自分の家族をかえりみない場合には,その信仰を捨てたことになるのであつて,不信者以上にわるい」。―テモテ前 5:8,新口。
5 (イ)誰の言葉に従わねばなりませんか。そしてなぜ?(ロ)家族の頭には,教えることのどんな義務が課せられていますか。
5 それで,家族の世話を見ることはヱホバの原則です。そして,すべての人はヱホバの正しい道に従わなければなりません。ヱホバは次のように言われています,「わが思いは,あなた方の思いとは異なり,わが道は,あなた方の道とは異なつている……天が地よりも高いように,わが道は,あなた方の道よりも高く,わが思いは,あなた方の思いよりも高い」。(イザヤ 55:8,9,新口)家族についてのこの世の道は,ヱホバの道とは異なります。クリスチャンはこの世に従うことができません。ヱホバの民が自分の家族を世話することについて,ヱホバはどのように教えますか。ヱホバは父親に向かつて次のように言われています,「きよう,私があなたに命じるこれらの言葉をあなたの心にとめ,努めてこれをあなたの子らに教え,あなたが家に座している時も,道を歩く時も,寝る時も,起きる時も,これについて語らなければならない」。(申命 6:6,7,新口)「あなたがたは,私がきようあなたがたに命じるこのすべての言葉を心におさめ,子供たちにもこの律法のすべての言葉を守り行うことを命じなければならない。この言葉はあなたがたにとつて,むなしい言葉ではない。これはあなた方のいのちである。この言葉により……あなた方は長く生命を保つことができるであろう」。(申命 32:46,47,新口)これらの言葉は生命を意味します。その言葉は,特に家族のかしらにあてて告げられたもので,子供たちにヱホバの道を教える義務を神の命令として与えます。ヱホバの道は救いにみちびきます。このいましめに注意を払わないことは,わざわいにみちびきます。
6,7 家族内の女性に対する夫の義務は何ですか。聖書はこのことをどのように証明しますか。
6 神の選民に与えられたこの教えは,神の律法の永続の原則を確立します。それは今のクリスチャンにも適用できるものです。クリスチャンの夫は自分の家族を世話して,家族の救いを図るという,神より与えられた第一の責任を持つています。これは家族のすべての成員に適用するのであつて,妻も,母親も,祖母も,男の子供も女の子供も全部が含まれるのです。すべてのものは,救いをいただく平等の権利を持つています。多くの国々で婦人の立場はひくいものとされているゆえ,クリスチャンが神から与えられた原則を守つて,この世の原則を守らないようにすることは,きわめて肝要です。
7 結婚していた使徒ペテロは,神の聖霊の霊感の下に書き,妻たちについて次のように語りました,「夫たる者よ。あなた方も同じように,女は自分よりも弱い器であることを認めて,知識に従つて妻と共に住み,いのちの恵みを共どもに受けつぐ者として,尊びなさい。それは,あなた方の祈が妨げられないためである」。(ペテロ前 3:7,新口)それで,クリスチャンの夫は弱い器に誉を示さねばならぬ,という神からの責任が課せられています。ある国々や場所では,女は誉を受けず,無視されています。女は低い者とあつかわれ,財産のように取り扱われます。ある場合には,奴隷のような待遇を受けます。男は「自分は男性で,彼女は女性に過ぎない」あるいは「自分はかしらである夫であつて,妻は自分に従わなければならない。妻は自分に仕えるべきだ」と考えます。彼女は個性を持つひとりの人間としては認められていません。しかし,このことはクリスチャンの道ではないのです。それは「弱い器に誉れを」与えていることになりません。神の御前にあつて彼女も救いを受ける平等の権利を持つているのです。ヱホバの是認を得る人々は,彼の道に歩かねばなりません。
8 ヱホバ神は,どのように男性と女性を平等に取りあつかいますか。
8 クリスチャンが同じ行為をすることは,男性と女性の両方に要求されます。救いを受ける権利は,妻だけに開かれているのでなく,母親にも,姉妹にも,娘にも,そして家族内の他の女性にも開かれています。使徒パウロは,正しい立場を私たちに示しています,「もはや,ユダヤ人もギリシャ人もなく,奴隷も自由人もなく男も女もない。あなたがたは皆,キリスト・イエスにあつて一つだからである」。(ガラテヤ 3:28,新口)私たちの主イエス・キリストの犠牲にもとづくヱホバの過分の御親切の恩恵は,男性と女性の両方に平等に適用します。ヱホバは男性と女性の両方に御霊を注がれます。ヱホバからの同じ命令は適用します。永遠の生命についての同じ希望はさしのべられています。
9 家族のそれぞれの頭は,どんな重大な質問を自問すべきですか。彼が不注意であるための結果はなんですか。
9 これらの原則から照らし合わせてみるとき,各クリスチャンの家族のかしらは次のことを自問しなさい,「自分の家族の婦人たちは,家庭の仕事に追われてあくせく働いているため,霊的な滋養物を失なつているであろうか」。もしそのようであるなら,婦人たちは霊的に弱くなつて,相続を失うことになります。夫にとつてこれは極めて重大なことがらです。なぜなら,夫はこの危険の責任を負わねばならないからです。妻,母,姉妹,または娘が,夫の不注意が原因で,体を養う食物を取らず,弱くなつて病気になつてしまう,一方,夫は元気で良い健康でいると考えてごらんなさい。それは恥ずかしいことです。その夫は国の法律で罰せられるかも知れません! それであるなら,不注意のために自分の責任にゆだねられている者たちに霊的な病気や死をもたらす夫にたいして,ヱホバの律法はその責任を強く問います。正しいクリスチャンの態度は,あらゆる事で妻に平等に供給しなければならぬ,とパウロは示しました。「あなた方は,それぞれ,自分の妻を自分自身のように愛しなさい」。―エペソ 5:23,新口。
10 夫と妻が一つの組になつていることは,どのように述べられましたか。一番良い結果は,どのように得られますか。
10 父親の持つ責任のひとつは,すべての者が必要な家族の義務に参加するように取りきめることです。家族内のすべての者が参加するとき,荷を分け合うことになります。この行いは,次のように言うかしらの取る行いよりもはるかに良いものです,「家のことは女共にやらせておけ。それが女の仕事さ」。夫と妻はたがいにくびきを合わせて結ばれた者である,と主イエスは説明せられました。牛はくびきにつながる,つまり組になつていつしよにひつぱります。それで,仕事を成しとげるのです。クリスチャンの夫と妻は,いつしよにくびきにつながれているのですから,家庭の荷と宣教の責任をいつしよに引かねばなりません。すると,研究とか野外奉仕とか集会で夫の方が先に進歩するということは許されません。彼の忠実な妻は,神権的な進歩で夫とともどもに進まねばならないのです。両人はくびきでつながれている夫婦であり,いつしよにならんで引く者だからです。夫よ,あなたの妻はあなたと同じ速度で神権的な円熟に進歩していますか。もしそうでないなら,それはあなたの不注意のためですか。強い者は弱い者を助けねばならないということを忘れてはなりません。使徒ペテロは次のように述べています,「女は自分よりも弱い器であることを認めて,……尊びなさい」。―ペテロ前 3:7,新口。
家を良く治める
11 (イ)家族の頭は,どのような仕方で教えねばなりませんか。(ロ)家族は,どのように小さな会衆のようですか。
11 家のかしらである父親は,霊的な事柄に平等の機会を設けねばなりません。このためには良い制度,良く治められたきちんとした家庭が必要となります。第一番目に肝要なことは,真理を家族に教える準備を設けることです。このようにしてのみ,家族は救いの道を歩くことができます。家族を正しい道に保つために,教えを施す仕方は「諄々と教え」ることである,と神の御言葉の中に述べられています。(申命 6:7,新世)ヘブル語で「諄々と教える」とは,繰り返す,いく度も言う,しばしば反覆して教えるという意味です。それは深い印象をのこすために再びするという基礎の意味から来ます。教える者である父親は,ヱホバ神とキリスト・イエスの知識を家族の前にくり返して語り,熱心にそして誠実をこめて知らさねばなりません。時間,忍耐,そして世話が必要です。自分の家族の福祉と救いに深い関心を持つ父親は,家庭内の良い神権制度のこまかい事柄すべてに注意深く世話をします。ちようど,会衆の僕が会衆の健康に必要な小さな事柄に注意を払うことと同じです。会衆内には,研究や読書や,祈りや,集会や,野外奉仕,病気している者や年老いた者たちを訪問すること,そしてその他のための準備が設けられています。家庭でもそのようでなければなりません。その責任は家族のかしらにかかつています。家族は小さな会衆のようです。良い家族は,良い会衆をつくります。良く治められているクリスチャンの家庭は,健全なクリスチャン活動の基礎です。家族の全員が研究し,読み,集会に出席し,そして祈りをする時間を設けねばなりません。良い賢明な父親はこれらのものをそなえます。そして,自分の家を良く治めます。
12 計画はどのように助けとなりますか。
12 このためには,家族のための予定が必要です。父親は先ずその予定を守らねばなりません。父親が自分自身をこらしめるという模範は,家族の他の者にたいする正しい指導となります。この予定は,十分に平衡のとれた神権的な計画に家族全員が参加するものでなければなりません。その中には,家族の研究,家族の朗読,集会の出席,野外奉仕の参加,個人研究,そして特に一致した祈りをささげるための集まりがなければなりません。この活動全部を取りきめる家族のかしらは,自分の家族を救うために確かに援助の手をさしのべています。
13 家族のかしらはどんな質問を自問しなければなりませんか。何が要求されていますか。どんな目的のために?
13 クリスチャン家族のかしらは,めいめい次のことを自問してごらんなさい,「私の神権的な家族の予定はどこにあるのか。夫である私は,この前のいつ家族を聖書研究に連れて行つたか。私の家族は,この家で聖書を定期的に読んでいるか。私たちは定期的に集まつて,過分の御親切にみちる御くらに祈りをささげるという貴重な特権を用いているだろうか。そして,神権的な奉仕を行なうための知恵と力を求め,たがいの救いを得ようと努めているだろうか」。これらのことをすでに行なつているクリスチャン家族は,それから得る祝福を良く知つています。まだそうしていない人々は,これらの敬虔な行ないに注意を払う方が良いでしよう。良く治める家族のかしらは,家族の活動に計画を立てることがのぞましいと知つています。しかし,それを効果的に行なうためには,自分自身と家族の両方に対するこらしめが必要です。ヱホバ神は,御自分の子たちの益をはかるために教えたり,こらしめたりします。それですから,地的な父親は自分の子を教えてこらしめなければなりません,「いつたい,父に訓練されない子があるだろうか。だれでも受ける訓練が,あなた方に与えられないとすれば,それこそあなたがたは,私生子であつて,ほんとうの子ではない。……すべての訓練は,当座は,喜ばしいものとは思われず,むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば,それによつて鍛えられる者に平安な義の実を結ばせるようになる」。(ヘブル 12:7,8,11,新口。)ヱホバは教育と訓練によつて御自分の子供たちを救いの道に歩ませています。それはヱホバが愛を持つておられるからです。それで,人間である両親も,子供たちを救いの道に歩みつづけさせるため教えを与え,訓練を施します。
14,15 (イ)いつ,そして誰によつて教えは始まらねばなりませんか。(ロ)こらしめを行う正しい仕方と悪い仕方は何ですか。
14 子供の教育と訓練は,きわめて幼い時に始まらねばなりません。母親が教育を施すことは,生命を与える訓練計画で大きな役割を持つということを忘れてはなりません。母親は幼い子供の心に正しい原則をそそぎこみます。子供の年齢は,物事をまなぶ年齢です。それで,子供が若いときにヱホバ神とその御言葉に尊敬を持つように教えなさい。子供を正義の道に訓練するため母親と父親の両方が十分に協力することは必要です。―テモテ後 1:5。
15 こらしめは愛の中に行なわれねばなりません。苛酷,いばり散らすこと,圧制的な態度,どなること,短気,頭ごなしに抑えつけること,― これらは良い家庭のこらしめの中にあつてはなりません。むしろ,理性,親切,忍耐,理解,幸福,断乎とした態度,そして愛を用いなさい。次のことを留意しなさい,すなわちヱホバは愛の御心を持たれている故,いろいろの事柄を教えたり説明したりすることに貴重な時間を用いられたということです。同じく,家族も愛の中に取り扱いなさい。
16 なぜクリスチャンの家庭に生まれるだけでは十分でありませんか。それ以外の何が要求されていますか。
16 子供たちに注意深い聖書の訓練を与える必要性を,十分認識していない人々がいくらかいます。クリスチャンの家庭に生まれるなら,それで十分だというような考えがあります。そして,時折り「私の息子は真理のうちに生まれました」。と言う言葉を聞きます。真理のうちに生まれた者はひとりもいません。なぜなら新しく生まれた子供の心は白紙のようだからです。ダビデ王は次のように言いました,「私の母は罪のうちに私をみごもりました」。(詩 51:5,新口)クリスチャンの家庭に生まれることが必要であるだけでなく,訓練を与えることは必要です。なぜなら,献身したクリスチャンの子供は「きよい」と考えられているからです。(コリント前 7:14,新口)若い奉仕者テモテに与えられた良い教育は,幼児であつたときに始まりました。「しかしあなたは,自分で学んで確信しているところに,いつもとどまつていなさい。あなたは,それをだれから学んだかを知つており,幼い時から,聖書に親しみ,それがキリスト・イエスに対する信仰によつて救にいたる知恵を,あなたに与えうる書物であることを知つている」。(テモテ後 3:14,15,新口)正義のうちに訓練し,こらしめを与え,そして教育を与えてのみ,子供の心をヱホバ神との個人的な関係を持つ点にまでみちびくことができるのです。
17 家族でいちばん良い交際相手は誰ですか。有益な習慣はどのようにだめになりますか。
17 しかし,あなたの家族を救いにみちびくこの有益な習慣も,悪い交わりをするときにだめになります。「まちがつてはいけない。『悪い交わりは,良いならわしをそこなう』」。(コリント前 15:33,新口)家族生活を良い健全な交わりで満たすことにより悪い交わりを避けなさい。両親よ,自分自身の家族と共々に交わりをする時間を設けなさい。夫よ,あなたは自分の妻と子供たちと共にいなければならない,ということを記憶しなさい。また,健全な娯楽も家族のために設けられねばなりません,そうしないなら悪い形式の遊びを求めるようになるでしよう。
18 クリスチャンの両親は,どんな生活の目標を子供たちの前に置いて彼らの救いを図らねばなりませんか。
18 あなた方両親が子供たちをみちびいている生命の型は,子供たちを救いにみちびくようなものですか。あなたの子供たちの心にきざみつけられている希望と野心は何ですか。この古い世で重要な地位を持つことは良い,という考えで一杯になつていますか。それとも,新しい世での重要な役割を果す,というすぐれた希望で満ちあふれていますか。古い世という破産している制度を支持するよう子供たちを教えていますか。それとも真理と正義のために生活して天と地の大いなる創造者に感謝の賛美をささげるように教えていますか。今日の子供たちにとつて,次のうちどちらの方が重要ですか。金銭をためて銀行の預け高を多くするのと,ヱホバの是認をうけて生命を救われることの中どちらですか。あなた方の子供たちは,何を目標に訓練をうけていますか。全時間の宣教奉仕は,最高の神からの贈物,大きな特権としてさしのべられていますか。他の者に伝道することによつて救いが来るということは,子供たちの心に銘記されていますか。そのように教えられる子供たちは,生命を救う者となり,子供自身に祝福をもたらすだけでなく,他の者たちにも祝福をもたらします。これらの諸点に十分の注意と思慮をめぐらす両親は,隣人だけでなく自分の家族をも救つています。
分裂している家族
19 反対している夫を持つ妻には神の言葉は,どんな指示を与えていますか。これはどのように適用しますか。どんな希望がともないますか。
19 結婚配偶者のひとりはヱホバの御こころを行なうために献身しているが,他のものは献身していない家庭は多くあります。その両人のくびきは,不釣合のものです。献身したしもべは結婚配偶者の救いについて深い関心を持つでしよう。信者である妻は,自分の夫を救うために努力を惜しみません。それは大きな心痛をもたらすしごとになることでしよう。夫は怒りを感じて反対し,妻が神の言葉について夫に語つてもいけないし,子供たちに語つてもいけない,と命ずることでしよう。妻は何をしますか。使徒ペテロは,明白な指示を与えました。彼は妻たちに次の言葉を述べています,「たとい御言葉に従わない夫であつても,あなたがたのうやうやしい清い行ないを見て,その妻の無言の行ないによつて,救に入れられるようになるであろう」。(ペテロ前 3:1,2,新口)妻が言葉で伝道しても夫を救に入れることができないときは,その行いによつて夫を救に入れることができます。妻の行いは,いちばん力づよいものです。決して希望を失なつてはなりません。使徒パウロの書いた言葉を記憶しなさい,「なぜなら,妻よ,あなたが夫を救いうるかどうか,どうしてわかるか」。―コリント前 7:16,新口。
20 不信者の妻に対する夫の必要な態度は何ですか。彼が真理を受けいれたことは,結婚の関係を変えましたか。
20 信者の夫と不信者の妻という場合でも,同じ思いやりが払われるでしよう。使徒パウロの言葉は次のようにつづいています,「また,夫よ,あなたも妻を救いうるかどうか,どうしてわかるか」。(コリント前 7:16,新口)非常な巧みさと愛が必要です。夫は忍耐づよく,やさしくそして寛大でなければなりません。ヱホバの崇拝者になつたとしても,結婚の責任が取りのぞかれるわけではありません。かえつて,結婚の責任はつけ加えられるのです。妻には物質の必要物を与えるだけでなく,いつしよになつてその相手にならねばなりません。クリスチャンの夫は,自分の崇拝にまつたく没頭してしまい,妻のことをすつかり無視する,というようなことがあつてはなりません,
21 夫は,使徒パウロの従つた原則をどのように自分の妻に適用することができますか。もし自分の妻を信仰に入れたいと希望するなら,彼は何をしてはなりませんか。彼はどんな質問を自問しますか。
21 自分の妻を真の崇拝にみちびき入れたいと希望する夫は,使徒パウロが救おうとつとめた人々に対してとつた原則に注意を払うことは良いでしよう。「ユダヤ人には,ユダヤ人のようになつた。ユダヤ人を得るためである。……弱い人には弱い者になつた。弱い人を得るためである。すべての人に対しては,すべての人のようになつた。なんとかして幾人かを救うためである」。(コリント前 9:20,22,新口)パウロは人々の状態に適合して行きました。彼は人々の問題にたいして同情し,思いやりの態度を示しました。彼は愚かでもなく,弱い者でもありませんでした。人々は間ちがつていると,彼は知つていましたが,彼らの確信に対しては尊敬の態度を持ちました。パウロ自身は,ユダヤ教から来た者であるので,彼が救おうとしていたユダヤ人を馬鹿にしようともせず,あなどらず,また狭量の行いをしませんでした。人々の理解を良い方向にみちびくことによつてのみ,彼らの生命を救える,とパウロは知つていました。同じように,夫は馬鹿にしたり,寛容を示さぬ態度を取つてはなりません。もしそうするなら,妻をますます遠ざけてしまうことになります。夫は次のように自問すべきです,「もし自分がこれと同じ立場にいるなら,どのようにしてもらいたい,と思うだろうか」。このことを決意したなら,妻をそのように取りあつかいなさい。愛を行使しなければなりません。パウロは次のように述べています,「愛は寛容であり,愛は情深い……いらだたない……すべてを忍び,すべてを信じ,すべてを望み,すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない」。―コリント前 13:4-8,新口。
22 奉仕者たちに面している問題のいくらかは何ですか。彼らは何をしなければなりませんか。
22 自分の家族を愛したくない人はひとりもいないはずです。ところが,会衆内のある僕たちは,会衆の活動とか,委員の会合や野外奉仕であまりに忙しいため,自分の家族と共にすごす時間がありません。その僕たちは安易にもこう言います,「私の家族の救いをたしかにするため,いろいろと考慮と世話を払わねばならぬことは重々承知している。私は自分の妻と家族を愛しており,隣人が救われるように家族が救われるようにと欲している。しかし,私は宣教の仕事に忙しくて,家族の為の時間というものはほとんどない。しかし,家族は真理に入つており,私がいつしよにいなくても不平を言わない」。実際のところ,時間についてのあらゆる要求を平衡にかける,という事柄ではありませんか。このはかりでは,あなた自身の家族のために正しいおもりを掛けなさい。会衆の活動に全時間をついやして,兄弟たちや隣人を救うことに援助の手をさしのべながら,自分の家族の救いに注意を払わない,というようなことはヱホバ神がのぞまれないことです。自分の妻と子供たちは,まず第一の責任です。使徒パウロもこう述べています,『もしある人が,自分の家族をかえり見ない場合には,不信者以上にわるい」。―テモテ前 5:8。
23 彼が設けねばならぬ第一の備え物は何ですか。そして,何を目標にしなければなりませんか。
23 それですから,兄弟がまず自分の家族の者の救いをはかることは,はるかに良いのです。物質をそなえることだけでは十分でありません。必要なものをそなえるために,家族の救いにみちびく霊的な福利をまず考慮しなければなりません。私たちはみな神の新しい世に住みたいとのぞみます。家族を互に密接にむすびつけなさい。ヱホバを恐れる家族の成員は,みな互に助けあつて正しい側にいなければなりません。ハルマゲドンの大きな戦は近づいています。家族全員が救われることを目ざしなさい! あなたがこれらのことをするとき,大きな幸福と平和はあなたの家庭に与えられる祝福となるでしよう。
[14ページの図版]
奉仕の義務
家族の責任