読者よりの質問
● クリスチャンが輸血で他人の血を体内に入れることは聖書的ではありません。しかし,献身したクリスチャンが手術を受けるときに自分の血のいくらかを取つてから,また体内に戻すことはゆるされますか。―アメリカ合衆国の一読者より。
聖書に述べられている血の取扱う方法によると,血が体内から取られてからは,その血を水をそそぐように地に注いで土でおおわなければなりません。(レビ 17:13,14。申命 12:16,23,24; 15:23。歴代志略上 11:18,19)このわけは,生命が血の中にあるためであり,そのように流された血はヱホバ神の御前で神聖なものと見なされるからです。ノアの大洪水後に述べられた血の神聖さについての契約は,今日でも守らねばなりません。その契約は,自分のものでも他のものでも,動物の血と人間の血の両方に関するものです。その結果,血を取つて貯え,後になつて同じ人に戻すことは,血の取扱いについての聖書の原則を破ることになります。―創世 9:4-6。
しかし,手術のときに出血するなら,そして何らかの手段によつてその血が体内に戻されるなら,それは差しつかえありません。手術中,特定なところか,器官に流れる血を一時的に止めて,器具の中を流すということは聖書的に認められます。なぜなら,血は器具を通して流れて,再び体内に戻つて行くからです。一方,たとえ僅かの時間にせよ血を貯えるなら,それは聖書に反することです。
手術に使用される装置を『始動させる』ために他人の血を用いることは禁ぜられます。もしそうするなら,血は患者の体内に循環して患者の血と混じります。また,時間の間隔を置いて血を取り,装置を動かすための十分の量がたまるまで貯えることは聖書的に禁ぜられます。この問題に直面する人々は,血の取扱い方を確実に知ることができます。そして非聖書的な仕方で行なわれないようにする責任をヱホバの御前に負います。
● 創世記 2章17節によると,『善悪を知るの木の実』を食べると,死の刑罰が与えられる,と述べられています。それでは,なぜ創世記 3章3節に,木にふれることは死にみちびく,と述べられているのですか。―アメリカの一読者より。
創世紀 2章16,17節は,アダムに告げたヱホバの命令です。その記録は次のように述べています,『ヱホバ神その人に命じて言いたまいけるは,園のすべての木の実は,なんじ心のままに食うことを得,されど善悪を知るの木は,なんじその実を食うべからず。なんじこれを食う日には,必ず死ぬべければなり。』アダムは,このことを妻に告げたにちがいありません。なぜなら,蛇に面した彼女は,神のその命令を知つていたからです。次の言葉を述べた彼女は,言葉をつけ加えていたのでもなく,また偽りの言葉を語つたのでもありません。『神……これにさわるべからず……と言いたまえり。』禁ぜられた実にさわることは,それを食べることに進む最初の段階です。つまり,致命的な罪の道にすすむ最初の段階です。もしその実を食べないなら,それにさわる必要がどこにありますか。それにさわるなら,誘惑を感ずるでしよう。それですから,エバはその警告を繰り返し述べて次のように語つたのです,『されど園のなかにある木の実をば,神なんじらこれを食うべからず,またこれにさわるべからず。おそらくはなんじら死なんと言たまえり。』― 創世 3:3。