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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1960
塔60 12/15 470–473ページ

御霊のしるし

「わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える,互に愛し合いなさい。わたしがあなたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば,それによつて,あなたがたがわたしの弟子であることをすべての者が認めるであろう」。―ヨハネ 13:34,35,新口。

1 (イ)今日の世界にクリスチャン一致が見られると期待するのは,なぜ理に合いますか。(ロ)その一致を見出すことは,私たちにとつてどんな益がありますか。

イエスにとつて,彼の真の弟子のあいだの一致と愛は,独特のもの,彼らを他の者たちから区別するもの,そしてイエスが御父からつかわされ,彼らがイエスからつかわされたことを全世界に証明する特別なしるしになるべきものでした。イエスは彼の将来の弟子たちが,クリスチャン一致に入るように祈り求めました。また,「黄泉の力」は彼の会衆に「打ち勝」たず,かつ「世の終りまで,いつも」彼は御自分の会衆と共にいる,と約束しました。それで,次のことを期待するのは,理にかなつています。すなわち,今日の世界に特定なしるしが見えるはずであり,そのしるしは彼の会衆なる教会を識別する一つの手段になるはずです。このことは,なおさら重大な意味を持つています。というわけはローマ・カトリック教会,東方正教会,そして全キリスト教新教徒世界会議は,ギリシャ語聖書の教会がただ一つの見える教会であることにみな同意しているからです。それで,クリスチャンと自称する教会制度を調べて,どんな一致があるかを調べてみましよう。―ヨハネ 13:35; 17:23。マタイ 16:18; 28:20。

新教徒の教会

2 なぜ新教徒の教会のうち,真の教会と主張できるものがひとつもないのですか。

2 いつぱんにひろく知られているごとく,新教徒の世界においては,初期クリスチャン教会の一致に比較できるものはひとつもありません。新教徒の教会全体としても,またはその一つとしても,国際的なもの,全世界的なものと主張しながら,信仰と制度において一致しているものはありません。明白に分かるごとく,この理由や他の理由の故に新教徒の教会のうちギリシャ語聖書のエクレシヤ,すなわち教会と主張できるものはひとつもありません。

3 新教徒たちは,明白な分裂を考慮して,一つの教会に対する信仰をどのように説明しますか。

3 新教徒の教会は,ニケア信条を容認して,「ひとつの,聖なる,宇宙的,使徒的な」教会に対する信仰を告白します。しかし,信仰に関する他のすべての事柄の場合のように,教会の一致については,きわめて数多い神学的な臆測や理論があります。一致はすこしも要求されておらず,かえつて不利をもたらすものである,と言う人々もいます。宗教革命の時代から,多数の人々はいわゆる「目に見えぬ」教会と,「目に見える教会」を信じました。その信仰によると,目に見えぬ教会とは,あらゆる宗派に属しているすべての誠実なクリスチャンたちによつて構成されているもので,彼らは神に献身しており,彼により受け入れられているものです。これらのものの群れは,人間の目で識別することができません。しかし,それは教会の見える部分である普通会員と対照して目に見えぬものと呼ばれているのです。この見える部分が,キリストの真の弟子であると考えるのはむずかしいことでした。アメリカでは,いわゆる「枝の理論」がふつうです。いろいろの教会は,ヨハネ伝 15章の中のイエスの譬にあるぶどうの枝になぞらえられており,木なるキリストにつながることによつて一致をつくると考えられています。一致は制度内にあるのでなく,霊だけにあるのだ,と他の人々は考えます。さらに他の者たちは,分裂のあらゆる証拠があるにもかかわらず,キリストのなかにすでに存在している一種の神秘的な,超自然の一致を信じているのです。それで,理くつに合わないことは,教会世界会議の報告に,会員教会が「キリストにあつて一致」していると繰り返し述べられていることです。しかも,この一致がどこにあるかということを説明する努力は,すこしもなされていないのです。

4 ルントの信仰と規律の世界会議は,教会について何を言明しましたか。

4 いろいろの群れのなかで,告白的な論議をしても,物事に対する共通の見地に達することはまずありません。しかし,キリストのからだという問題について,1952年スエーデン,ルントの「信仰と規律」と呼ばれる宗派合同運動の世界会議は,その正式な報告で,大多数の人の意見として次のことを発表しました,「キリストのからだなる教会についてパウロが描いたまぼろしは,たんなる比喩ではなく,生ける現実を表わす」。そしてさらに「二つの教会 ― ひとつは目に見える教会,他の一つは目に見えない教会 ― はないということに我々は同意している。ただ一つの教会があるだけだ。それは,地上で目に見える表現を見出さねばならぬ」。

5 監督のギエルツは,キリスト教国の分裂からどんな結論を下していますか。

5 クリスチャン会衆はひとつでなければならないという必要を認識している新教徒の教会は,自分たちがひとつでないという事実に,いたく悲しんでいます。スエーデンの監督ボ・ギエルツは,キリスト教国の分裂について,次のように述べています,「それはたしかに罪である。それは最も致命的な種類の罪,キリストのからだそのものに対する罪である……我々が下さざるを得ない恐ろしい結論は,分裂した教会がもはや真の教会ではない,ということである。……我々が分裂しているかぎり,キリストのからだは血を流している。そして,いつの日に,キリストのからだが血をながして死亡するのか,我々は知らない」。

6 (イ)教会の世界会議とは何ですか。(ロ)新教徒の世界内で,何のために初期クリスチャン教会を認めることができませんか。

6 苦境に陥つている多数の新教徒は,全キリスト教会のあるいは相互の告白的な協議に望みを置きました。そのような協議は,特にこの世紀と共に始まり,1948年には世界教会会議が設立されるにいたりました。それは国際的な制度であつて,大部分の新教徒の教会と東方正教会が含まれています。しかし,ローマ・カトリック教会は含まれていません。しかし,世界教会会議は教会ではなく,それ自体も教会であるとは主張していません。それは,「超 ― 教会」であるとも,「ウナ・サンクタ」すなわち「一つの聖なる」教会であるとも言つていません。むしろ,その目的は「諸教会に生き生きした接触をさせることである」と考えています。この目的を達成し得る能力については,神学者のあいだでも意見は食いちがつています。デンマークの教授レギン・プレンター博士は,次のように述べています,「ともかく,ひとつのことはたしかだ。クリスチャン教会の世界会議は,分離している教会の真実の再結合を,決して表わすものではない。教会の世界会議は,たがいに独立している教会社会の合同に過ぎない。……次のようなことになりかねない,教会の世界会議内の諸教会がたがいに得た新しい接触は,特定な教会社会の間に,前以上に深刻な相互の非難を生ぜしめるであろう。なぜなら,彼らはたがいに非難し得るほど十分良く知り合わなかつたからだ」。献身したクリスチャンたちは新教徒教会でイエス・キリストと使徒たちのからだを認めることができません。その理由は,国家的にも国際的にも,その教えと制度において一致が不足していることにあります。

東方正教会

7 どんなことは,東方正教会内に一致が欠けていることを示しますか。

7 東方正教会は,ひとつの教会ではなく,主として東欧州とバルカン半島にある多数の国立教会です。これらの教会は独立戦争をして,イスタンブールの大主教から独立を得ました。名目上は,ある教会はイスタンブールの大主教を教会のかしらと認め,他の者たちはモスクワの大主教を教会のかしらと認めます。しかし,大主教は他の教会の内部の事柄に口出しできません。フィンランド,ポーランドおよびパリ在住のロシヤ移民居留地の管轄権について,二つの管区のあいだで争いが絶えず行なわれています。神とキリストの教会は,ひとつの国際的な教会であつて,数多くの国立教会ではないゆえ,東方正教会の中には初期クリスチャン教会の一致のおもかげはありません。

ローマ・カトリック教会

8-11 ローマの教会がひとつのからでない,と何が証明しますか。真実の一致についてのどんなきびしい試験に,ローマの教会と他のものは上首尾に通ることができませんか。

8 ローマ・カトリック教会は,教えと制度の面で一致している国際的な教会ではありませんか。ローマ・カトリック教会は,国際的な全教会に対する一律の教義集を備えています。しかし,ローマ・カトリック信徒の信仰は,あらゆる場所で同じということはありません。イタリアのローマ・カトリック信徒が,神とキリスト・イエスについて,および御ふたりが人間のために行なわれることについていだく想像は,異教のヴーヅー教を行なつているハイチ土人のローマ・カトリック信徒のいだく想像とは,まつたくちがうものです。

9 その制度の一致も,多数の人が考えているほどにかたいものではありません。もし,ローマ・カトリック教会が,実際に法王を目に見えるかしらとするひとつのからだであるなら,なぜ全部のカトリック信徒はかしらに従わないのですか。ローマ・カトリックの司祭でもあり著者であるピーター・シンドラーは,スペインとコロンビア内の新教徒にカトリック教会は狭量であつた,という非難に対して教会を弁護したとき,次のように語りました,「なぜ法王は介入しないのか,法王は『介入』しない,とだれが言うのか。結局のところ,ローマに在住している我々は,法王の無能について,すこしく知つている。法王はスペインの独裁者でもなく,コロンビアの大統領でもない。そして,もし,(教会の指導者によつてみちびかれる)地方のカトリック信徒が,多くの場所で法王の指示(たとえば社会回状)を無視するように,自分たちの教会法を無視するなら,法王は力のない者である。」器官がかしらに従わないなら,生きることができますか。

10 もしローマ教会がただひとつのからだであるなら,なぜフランシスコ教団,ドミニコ教団,耶蘇会,その他のようなちがつた教団があつて,別箇のからだのような働きをするのですか。なぜ,そのような教団は,法王と教会の政策におよぼす大きな影響力を得るために,政党のように互に戦い合うのですか。

11 イタリアのカトリック信徒のように,教会員が,極端な右翼から,極端な共産主義者の左翼にいたるまでのあらゆる政党にはいつている場合,その教会は実際に一致しているものでしようか。彼らは,エホバとキリスト・イエスがひとつであるように,ひとつの真実の教会のからだをつくりあげることができますか。ある会員たちを指導する枢機官たちが,国家主義的な理由の故に,たがいにものも言わないという間柄のとき,彼らは国際的にひとつであり得るでしようか。そして,戦争の場合,ローマ教会や他の宗派のものたちは,それぞれの主張する一致を保ちますか。一致を保たないことは,だれでも知つています。彼らはみな,教会としての一致を験すきびしい試験に屈してしまいます。そして,この世的な一致にしばりつけるきずなは,教会の一致とその神にしばりつけるきずなよりも強いということを,彼らは証明します。それで,ローマ・カトリックの国際的な教会制度のうちに,クリスチャン教会の一致を見ることは不可能です。

世に対するしるし

12 (イ)エホバの証者は,真実の一致という彼らの主張を裏づけるどんなものを持つていますか。(ロ)ロマ書 8章35-39節を使用する彼らは,どんな構利を持つてパウロに加わりますか。

12 このような分裂は,私たちを失望させます。しかし,これに反して,真実の一致を持つクリスチャンの国際的な一つの群れが今日地上にあるのを知ることは私たちの心を励まします。それは,真実に国際的な兄弟関係を持ち,愛のきずなにより,信仰と制度の面で一致しています。それは事実です。その事実について,各人自らが確信をもたれるようにおすすめします。次のことを指摘するのは,出過ぎたことではありません。すなわち,国際的なエホバの証者は,「ひとつの心とひとつの魂」であり,「同じ思い」「同じ考え」をいだき,『ひとつのからだ,ひとつの霊,ひとつの希望,ひとつの主,ひとつの信仰,ひとつの洗礼,ひとつの父なる神を持つています。彼らは,愛のきずなによつて,エホバ神とキリスト・イエスに一致しており,また自分の兄弟たちと一致しています。そのきずなは,非常に強いので,戦争をはじめどんな事柄も,それを分裂させることができません。多くの国々にいる証者たちで構成される彼らの国際的な教会制度は,キリスト・イエスの花嫁級の残れる者たちで形成されています。そして,「ひとりの羊飼」の下に,それと一致して「ひとつの群れ」になつている者たちは,「他の羊」の大いなる群衆です。(ヨハネ 3:28-30; 10:16)これらの証者の現代の歴史が示すごとく,彼らは使徒パウロと共々に次のように言えるだけの経験を経ました,「だれが,キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。艱難か,苦悩か,迫害か,飢えか,裸か,危難か,剣か。『わたしたちはあなたのために終日,死に定められており,ほふられる羊のように見られている』と書いてあるとおりである。しかし,わたしたちを愛して下さつたかたによつて,わたしたちは,これらすべての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も,天使も支配者も,現在のものも,将来のものも,力あるものも,高いものも深いものも,その他どんな被造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から,わたしたちを引き離すことはできないのである」。―ロマ 8:35-39,新口。

13 エホバの証者の一致は,どんな事柄を思い起こさせますか。それは何のしるしですか。そして誰のためですか。

13 エホバの証者の世界的な一致は,いろいろなことを思い起こさせます。もし,第1世紀の初期教会の国際的な兄弟の交わりが,真実に驚嘆すべきものであり,たしかに聖霊のつくりだしたものであるなら,また他の者たちが幾世紀ものあいだ試みて成功し得なかつたことを,神が御自分の教会でなされたのであるなら,この混乱にみちる20世紀に第1世紀と同じ兄弟の交わりが存在しているということは同様に驚嘆すべきことであり,神の御霊なる目に見えぬ活動力が独特な仕方で表わされているということを証明します。イエスの言葉によると,そのような一致は偶然のことではありません。それは,エホバがイエスを愛するように一致した者たちを愛しており,彼らがイエスの弟子であることを世に示すしるしです。「わたしは,新しいいましめをあなたがたに与える。互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように,あなたがたも互に愛し合いなさい。互に愛し合うならば,それによつて,あなたがたがわたしの弟子であることを,すべての者が認めるであろう」。―ヨハネ 13:34,35,新口; 17:23。

14 最初のクリスチャンたちが,自分たちの教会こそただひとつの真の教会であると指摘するのは,なぜ不適当でありませんでしたか。

14 最初のクリスチャンたちは,ただ一つの真の教会,「神の会衆」に属している,と確信していました。そのことを疑うことは,聖霊に対して罪を犯すことです。御霊のしるしは彼らの上にありました。もししるしが見えないなら,それは価値のないものです。最初のクリスチャンたちが,自分たちの教会こそそのしるしを持つたただ一つの教会と指し示すことは,不適当でしたか。ユダヤ教のユダヤ人の教会に関連して,クリスチャンたちがこの御霊のしるしに人々の注意を引き,イスラエルの分裂した家に神の御霊がのぞんでいない,と示すことは,真実に謙遜な態度ではないと言えますか。そうではありません。むしろ彼らには光を枡の下においてはいけないという責任が課せられていました。「光を人々の前に輝かし,そして,人々があなたがたのよいおこないを見て,天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。―マタイ 5:14-16,新口。

15 油注がれたクスチャン会衆がその一部である新しい世の社会こそ,真実に神のものであるとエホバの証者が指摘することは,クリスチャン美徳に欠けることですか。

15 それで,全世界にわたるエホバの証者の愛の一致には,明らかに御霊のしるしがともなつています。このことは,キリストのからだの油注がれた成員である証者たちが,ただ一つの真の教会に属している,と確信する理由のひとつです。そして,「他の羊」の者たちは,一致している新しい世の社会内で,油注がれた者たちと交わつているので,これこそ本当に真の崇拝が行なわれる神の制度である,と確信しています。そのことを疑うのは,御霊に対して罪を犯すことではありませんか。これこそ御霊のしるしを示す,唯一の制度であるという事実に,彼らが世の注意をひくことは出過ぎたことですか。そうではありません。神の一致した民の見える会衆を切望している正直な心の人々の益のために,そして神とキリスト・イエスの栄光のために,彼らは,たとえ独りよがりと考えられても,その光を枡の下に置いてはなりません。

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