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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
塔64 2/1 94–95ページ

読者よりの質問

● ゼパニヤ書 2章3節は,たとえ真理の中にいて神のみ心を行なっていても,永遠の生命を得ることは確かではないという意味ですか ― プエルトリコの一読者より

この聖句はこう述べています,「すべてエホバの律法を行ふこの地の遜るものよ汝等エホバを求め公義を求め謙遜を求めよ然すれば汝等エホバの忿怒の日に或は匿さるゝことあらん」。

ここで「あるいは」と訳されたヘブライ語は「ウライ」です。このヘブライ語は,確実という意味を全く含まない言葉で,「あるいは」「おそらく」「たぶん」などと訳されています。この言葉は創世記 43章12節において「おそらくは」と訳され,列王紀略上 18章27節において「あるいは」,ヨシュア記 9章7節において「計られねば」,ゼパニヤ書 2章3節において「あるいは」とそれぞれ訳されています。この意味をとって1950年改訳口語聖書はゼパニヤ書 2章3節を次のように訳しています,「すべて主の命令を行なうこの他のへりくだる者よ。主を求めよ,正義を求めよ,謙遜を求めよ。そうすれば,あなたがたは主の怒りの日に,あるいはかくされることがあろう」。

「ウライ」は疑いを表わす言葉ですが,場合によっては希望を表わすこともあります。創世記 16章2節の場合には,明らかに希望を表わしています。「サライ アブラムに言けるは視よエホバわが子を生むことをとゞめたまひたれば請ふ我が侍女の所に入れ我彼よりして子女を得ることあらんとアブラム サライの言を聴いれたり」。アモス書 5章15節の場合にも,この語は希望を表わしています,「汝ら悪をにくみ善を愛し門にて公義たてよ万軍の神エホバあるひはヨセフの遺れる者を隣み給はん」。

ゼパニヤ書 2章3節は,公義と謙遜を求め始めた人が,正しい道を歩み始めたというだけの理由でエホバの怒りの日にかくされる保証はないという事を示しているのです。かくされる可能性があるという意味です。

それでもこの聖句の言葉の組立てをみると,不確実の要素がかなりあります。しかしこの不確実さは神に関してではありません。公義と謙遜を忠実に求める人々を,ハルマゲドンの時に神がかくし得ないという意味ではないのです。決してそうではありません。問題はこうです。つまり神にそうする責務があるという訳ではなく,従つて不確実さはここから生じます。保護されることが私たちの権利でもあるかのように,当然と考えることはできません。すべては神のあわれみ,罪人に対する神の過分のご親切に依存しています。実を言えば私たちが罪のために死ぬのは当然だからです。しかし聖書から見て私たちが神のあわれみを期待できる唯一の道は,まだそうする時があるいま,エホバと公義と謙遜を求めることです。そうすれば神は,私たちが悔改めて行いを変え,神に献身したことを考慮して下さるでしょう。神がおそらくそうして下さることを信ずる聖書的な理由があります。

● マタイ伝 24章7節にイエス・キリストの言われた地震は象徴的なものですか。それは革命のような政治の変動を指すと言えますか。

マタイ伝 24章7節によれば,イエスは終りの時に関するその預言の中で次のように言われました。「即ち民は民に,国は国に逆ひて起たん,また処々に饑饉と地震とあらん」。ここに言われた地震を象徴的に解釈しようとする人は,人類を混乱に陥れる政治的な変動や革命がすなわち地震であると考えています。しかしイエスの預言の文脈を考えるとき,その考えは正しいと言えますか。決してそうではありません。かりにこの地震が政治的,社会的な革命を象徴すると考えた場合,ききんも象徴的なものと考えなければなりません。そのうえルカ伝にある同じ終りの時の預言に述べられた疫病まで象徴的なものになってしまいます。(ルカ 21:11)また戦争も預言されています。それも象徴的なものですか。イエスの預言にある地震を象徴的なものと解釈すれば,そう言わなければなりません。

この時代に起きた戦争は,象徴的などというものではありません。何百万人が殺され,更に何百万人が戦争の苦しみをなめました。またこの時代の人間は文字通りの食糧不足と疫病に悩まされてきました。たとえば世界人口の増加につれて,食糧問題はよほど深刻なものになっています。パーヂュー大学で食糧管理問題を講ずるノーマン・デスロジア教授の言葉を借りれば,「うえをみたすことがまずもっていちばん切実な問題であり,人類がこれにうちかつのでなければ,軍備や宇宙開発の競争は二のつぎの問題でしかあり得ない」のです。それで戦争,ききんと疫病は実際のものです。同様に地震も実際のものです。

1960年3月6日付ニューヨークタイムズに,「ゆれ動く大地」という見出しでウイリアム・ローレンスが次のことを書いています。「毎年10あるいはそれ以上の大地震が世界のどこかで起きる。そのうちいちばん小さいものでも,広島,長崎に落ちた原爆の1000倍以上のエネルギーを放出する。……大きな被害をもたらす地震は比較的に少ないが,小さいものは非常に多い。全部を数えると1年間に100万の地震が起きるものと推定されている」。別の報告によれば「記録に残っているところを見ても,過去2000年間に1000万人が地震のために死んだ」とあります。(1950年8月20日付ニューヨークタイムズ)これを年平均に直せば毎年5000人が死んだことになります。しかし1915年から1949年までの間,地震のために死んだ人は84万8450人に上りました。この35年間について見ると,地震による死亡者は年平均5000人ではなく,2万4241人になります。従ってマタイ伝 24章7節にある地震は,世の終りの時のしるしを作りあげる他の出来事と同じく文字通りの地震です。それは政治的な変動,革命その他人間社会の変革を象徴するものではありません。

[95ページの囲み記事]

「最後に兄弟たちよ。すべて真実なこと,すべて尊ぶべきこと,すべて正しいこと,すべて純真なこと,すべて愛すべきこと,すべてほまれあること,また徳といわれるもの,称賛に値するものがあれば,それらのものを心にとめなさい。あなたがたが,わたしから学んだこと,受けたこと,聞いたこと,見たことは,これを実行しなさい。そうすれば,平和の神が,あなたがたと共にいますであろう」。―ピリピ 4:8,9,新口。

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