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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1967
塔67 2/1 88–95ページ

永遠の命をのぞみ見て奉仕する

「あなたがたは耐え忍ぶことによって,自分の魂をかち取るであろう」― ルカ 21:19

1 正常な人間なら命についてどう感じますか。

正常な人間で死を望む者はいません。年齢,貧富,また健康であると病気であるとにかかわらず,生きようとする本能はきわめて強固です。このことは生活が楽で快適な環境に恵まれた富裕な国について言えるだけでなく,開発が遅れ,苦しく不安定な生活をしいられることの多い国についても言えます。生きることにはあらゆる苦難と問題が伴うにもかかわらず,『生きているかぎり希望がある』とのことわざは今日でも使われています。

2 クリスチャンは永遠の命をどう感じますか。

2 このような状況の下でも生きようとする努力と願いがこれほど強いなら,クリスチャンは永遠の命を求めることに対してさらに強い決意と意欲をもつべきではありませんか。そうです,永遠の命を得ようとする意欲は,長くても100年を越えることのまれな今の命に対する自然の本能とは比較にならぬほど強くてしかるべきです。「神の賜物は,わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」との聖書の約束を読みかつ信ずる者は,人間が望み,心に描く事柄のうち最も偉大な将来の希望を持っていると言えます。―ローマ 6:23。

3 イエスは神の永遠の命の約束に人々がどう応ずると述べましたか。

3 聖書全編を読み通し,病気と争いから解放された,地上の楽園における永遠の命に関するすばらしい記述のすべてを理解するなら,それを疑い,命の与え主エホバを信じない人のいることがむしろ不思議です。しかしイエスはエホバの約束を受け入れ,永遠の命の道を歩む者が,きわめて少ないことを予告されました。「狭い門からはいれ。滅びにいたる門は大きく,その道は広い。そして,そこからはいって行く者が多い。命にいたる門は狭く,その道は細い。そして,それを見いだす者が少ない」― マタイ 7:13,14。

4 (イ)クリスチャン時代以前の神のしもべは永遠の命の約束に対してどんな態度をとりましたか。(ロ)わたしたちの認識がその人々のものより強くなければならないのはなぜですか。

4 永遠の命およびそれに伴って楽園の地で受ける祝福のすべてを真に認識しているなら,『命にいたる道』を見出した者として,いかなることがあってもそれを踏みはずすまいと堅く決意するでしょう。わたしたちは永遠の命をゴール,つまり努力の目標としています。この目標に向かって進むわたしたちは,アブラハム,イサク,ヤコブなど昔の忠実な人々に似ています。これら3人は神の約束をはるかにのぞみ見ていました。「これらの人はみな……まだ約束のものは受けていなかったが,はるかにそれを望み見て喜び,そして,地上〔その土地〕では旅人であり寄留者であることを,自ら言いあらわした。そう言いあらわすことによって,彼らがふるさとを求めていることを示している」。(ヘブル 11:13,14)これら忠実な人々は忍耐しました。彼らは自分の時代においては死なねばならないこと,そして約束の実現を見るには神の復活の約束に待たねばならないことを知っていました。しかし今日のわたしたちはもっと恵まれた立場にいます。わたしたちの周囲には,神の国の支配がすでに始まったこと,その支配によって今の時代のうちにサタンの支配が終わり,「新しい地」と永遠の命がもたらされることの証拠が歴然としています。(ペテロ第二 3:13)ゆえに,昔の忠実な人々が死に至るまで命の道を歩み通したなら,神の新秩序の門口にあるわたしたちはいよいよ忍耐できるはずではありませんか。

5 命の道にしっかり足をつけていなければならないことをたとえで説明しなさい。

5 私たちは,見いだす者が非常に少ない命に至る道に,自分の足をしっかりつけることに最大の関心をもっています。この道を行くことは見知らぬ土地を旅することに似ています。地平線上に目標を見て進み,それから目を離してはなりません。目標から目をそらすなら,道を踏みはずし,たちまち迷ってしまうでしょう。命に対する希望が強いなら,わき道にはいることはありません。パウロはこの希望を錨にたとえ,ヘブル人への手紙 6章19節でこう述べています。「この望みは,わたしたちにとって,いわば,たましいを安全にし不動にする錨であ(る)」。錨が大きな船を固定し,流れ出て岩にぶつかり破船するのを防ぐと同じく,永遠の命に対するこの希望はわたしたちをエホバ神にしっかりとつなぎ,わたしたちが命の道から漂い出るのを防ぎます。しかし錨が動き始めるなら,船は沈んでしまうでしょう。それでわたしたちは,錨である命の希望を失って,信仰の破船を招かないようにしなければなりません。

6 命の希望に対する信仰を守らねばならないのはなぜですか。

6 希望をいつも心に描くように,永遠の命に対する信仰を絶えず建ておこさねばなりません。信仰はいったん心に入れればそのままいつまでも続くものではありません。神の約束に対する信仰によって,わたしたちは永遠に続く神の新秩序というすばらしい将来を見通すことができます。しかし景色ははっきり見える時にのみ美しく見えます。非常にながめの良い家に住んでいる人がいるかもしれません。しかし,窓を洗わないなら,美しい景色もやがて見えなくなるでしょう。景色はまだそこにありますが,その人にはもう見えないのです。美しい景色をいつも楽しもうと思うなら,窓を定期的に洗わねばなりません。

7 信仰の欠如という罪をどうしたら避けることができますか。

7 神の約束に対するわたしたちの信仰についても同じです。それをいつも新たにし,思いかえし,それについて語り,こうして信仰を強くしなければなりません。これを怠るなら,わたしたちの信仰もやがて消えてしまうでしょう。それゆえ,使徒パウロはヘブル人のクリスチャンを強く戒め,信仰を保つべきことをさとしました。「兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には,あるいは,不信仰な悪い心をいだいて,生ける神から離れ去る者があるかも知れない。あなたがたの中に,罪の惑わしに陥って,心をかたくなにする者がないように,『きょう』といううちに,日々,互に励まし合いなさい。もし最初の確信を,最後までしっかりと持ち続けるならば,わたしたちはキリストにあずかる者となるのである」。(ヘブル 3:12-14)命に至る道を行くには忍耐の必要なこと,またそのためには命を絶えずのぞみ見ていなければならないことを決して忘れてはなりません。永遠の命の望みを見失うなら,やがて命そのものをも失う結果になるでしょう。

命ののぞみをくもらすもの

8 (イ)クリスチャンにとって霊の心をもつことはなぜ大切ですか。(ロ)霊的な物の見方を失うなら,永遠の目標を見失う結果になることを説明しなさい。

8 永遠の命ののぞみをくもらせるものに何がありますか。ヨハネによる福音書 6章63節のイエスのことばはこの点で理解を助けます。「人を生かすものは霊であって,肉はなんの役にも立たない」。わたしたちの希望は霊的な希望です。それは偉大な霊者であられるエホバ神に由来するものだからです。肉の欲と世俗的な希望とを育てているなら,霊的な目標を一心に見ることはできません。永遠の命の希望をしっかり保つためには霊の思いをつちかわねばなりません。霊の心をもって霊の生活をすることが必要です。これが目標を一心に見るのに役だつのです。こう考えてごらんなさい。長い道のりを行かねばならない時,歩き疲れたあなたを進ませるものは何ですか。行く手に見える目標ではありませんか。それがまだ遠くにあっても,しだいに近づいてくるのを見て励まされ,つもる疲労を乗り越える力が出てきます。しかし,目標が見えず,それがどこにあるかがわからないならどうですか。目標地点がすぐ次の角を曲がった所にある場合でも,それが見えないなら,疲労を大きく感じ,歩くのをじきにやめてしまいます。今日,霊的な物の見方と永遠の命の目標を見失って,エホバの奉仕に怠惰になる危険が現実にあり,少なからぬ数の献身した人々がそれにまき込まれています。

9 霊の思いを失うならわたしたちはほかのどんな危険にさらされますか。

9 霊の思いを失うことはさらに重大な災いを招きます。それはパウロがガラテヤ人への手紙 5章19-21節で述べる肉のわざにまとわれることです。パウロがあげるものの中には,「不品行,汚れ,好色……泥酔,宴楽および,そのたぐい」があります。パウロはさらにこう続けています。「わたしは以前も言ったように,今も前もって言っておく。このようなことを行う者は,神の国をつぐことがない」。人間世界の慣習となっているこれら肉のわざにまとわれるなら致命的な結果を招きます。なぜなら,それは永遠の命の希望を失わせるからです。明瞭で率直な聖書のこの警告があるにもかかわらず,肉のわざに身をゆだねて,献身したエホバの清い民の中から排斥された者が幾千人もいます。これはその者たちが霊の思いを失い,永遠の命を見失ったために起きました。その者たちにはほかのもののほうが願わしく見えたのです。しかし,正義の栄えるなかに受ける永遠の命にまさるものはどこにもありません。いかなるものによっても永遠の命ののぞみを曇らせないことがなんと大切ではありませんか。

10 堕落した人間の肉ではなく,神の霊に生活をゆだねるべきことを聖書から示しなさい。

10 人間の肉が永遠の命ののぞみを曇らせる場合はほかにもあります。パウロは述べました。「肉の思いは死であるが,霊の思いは,いのちと平安とである」。(ローマ 8:6)罪人である人間の肉はわたしたちを完全に支配し,肉の欲を満たすことのためにわたしたちを引きまわし,わたしたちの生活から神の聖霊の働きを消し去ることを求めます。献身したクリスチャンとして,自分の肉の欲を第一にする傾向と戦い,いつも神の御霊によって歩むことを学ばねばなりません。―ガラテヤ 5:16,17。

11 今日,多くの兄弟たちは,命にかかわるどんな重大な決定を迫られますか。

11 肉欲の立場からする議論のあるものは強い力で人を動かそうとします。わたしたちの命そのものが左右されるような事態の起こることがあります。病気になり,輸血をしなければ助からないと言われるかも知れません。わたしたちは血液をこのような目的で使うことがエホバのみむねに反することを知っています。(使行 15:28,29)わたしたちはどのような決定をしますか。3人の忠実なヘブル人,シャデラク,メシャク,アベデネゴと同じように,国家主義的な政府から国家の象徴に敬礼し,その前で偶像崇拝的な行為をすることをしいられた者もあります。それを拒む者は死をもっておどされました。国家間の戦争にクリスチャンの中立を守ろうとして同様な命の危険に面した者もいます。

12 命についてどんな正しい態度をもつことによって,こうした重大な試練を乗り越えることができますか。

12 このような重大な試練を乗り越え,エホバの恵みにとどまるためにどうしたらよいですか。わたしたちが求めているものは何ですか。今の人間の命を救うことですか,それとも永遠の命を得ることですか。もし永遠の命を真に自分の目標としているなら,そしてそれをいつものぞみ見ているなら,エホバの律法を破ってまで今の人間の命を救おうとはしないでしょう。わたしたちにとっていちばん大切なことはエホバに対する忠実さを守ることであり,今の命を守ることではありません。「人を生かすものは霊であって,肉はなんの役にも立たない」というイエスのことばを忘れてはなりません。肉の思いに属してエホバの律法を破ることがあってはなりません。イエスはさらに適切にこう言われました。「自分の命を救おうと思う者はそれを失い,わたしのために自分の命を失う者は,それを見いだすであろう」。(マタイ 16:25)今の短い命ではなく,永遠の命をのぞみ見ているなら,忠実を守り通すことができるでしょう。

13 どんな誘惑に抵抗すべきですか。そのためにどうしますか。

13 あなたは永遠の命を待つことができますか。待てない人が多くいます。その人々はきわめて価値の低い目前のものを求めています。永遠の命を犠牲にしてつかのまの利益に飛びつこうとする傾向に抵抗するには霊的な認識と円熟が必要です。「わたしたちは,見えるものにではなく,見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり,見えないものは永遠につづくのである」。(コリント第二 4:18)霊的な物の見方をつちかい,永遠の命の目標をしっかりと見定め,何ものによってもそれをくもらせてはなりません。

どのように永遠の命ののぞみを保つか

14 エホバとの関係においてわたしたちはどんな原則を銘記すべきですか。

14 エホバは命の与え主です。「いのちの泉はあなたのもとにあり」。(詩 36:9)命の泉であるエホバから離れるなら,永遠の命の望みを保つことはできません。「すべてエホバの律法を行ふこの地のへりくだるものよなんぢらエホバを求め(よ)」と述べたゼパニヤは,エホバを第一にしてこの点を明らかにしています。(ゼパニヤ 2:3,文語)ダビデも詩篇 16篇8節でエホバを第一におき,この大切な真理を言い表わしています。「われ常にエホバをわが前におけり」,文語。

15 (イ)献身についてどんなことを忘れてはなりませんか。(ロ)エホバにしっかりつき,いつもエホバを自分の前におくためにどんなことが役だちますか。

15 これこそエホバに対するわたしたちの献身の意味です。わたしたちは一つの宗教や人間,もしくは組織に献身したのではありません。宇宙の至上主権者,創造者なるエホバ神に献身したのです。つまりわたしたちは献身によってエホバときわめて親密な関係にはいりました。それゆえ,献身した者のすべてには祈りによってエホバに近づく特権があると同時にそうする務めもあるのです。ヤコブの手紙 4章8節はこう述べています。「神に近づきなさい。そうすれば,神はあなたがたに近づいて下さるであろう」。祈りによってエホバを絶えず自分の前におかないなら,わたしたちは自分の献身の誓いを果たすことができません。なぜなら,絶えず語り合わないでいて,人と親密で暖い間柄を保つことはできないからです。家族の者が互いに語り合うことをやめれば,何が起きるかは明らかです。その関係は崩壊してしまいます。わたしたちとエホバとの関係においてこのようなことが起こるのを許すなら,永遠の命ののぞみを守るという面で致命的な結果になるでしょう。

16 今日祈りの必要なことはどのように指摘されていますか。祈りにはどんな働きがありますか。

16 この事物の制度の完全な終わりが近づくにつれ,各人が絶えずエホバに祈ることはいよいよ大切になります。ペテロは述べました。「万物の終りが近づいている。だから,心を確かにし,身を慎んで,努めて祈りなさい」。(ペテロ第一 4:7)そうです,この祈りの特権をおろそかにすることがないように,十分注意しなければなりません。それによってわたしたちは偉大な命の泉であられるかたに近づけられるのです。祈りはエホバへの献身に目ざめさせ,霊の思いをもたせます。また祈りは,エホバの恵みに対する感謝を深め,神のしもべとして永遠の命を目ざすことの価値をいよいよ悟らせます。

17 勉強と熟考は心を正しいことに向けるのにどう役だちますか。

17 勉強と熟考もエホバに近づき,真理を見失わないために必要です。わたしたちの勉強計画の中で顕著な地位を占めるべきものは聖書を読むことです。毎日,聖書のことばを熟考する時間をとらねばなりません。それは聖書の正しい原則を思考の基本とするためです。わたしたちはこの点で自分を調べることができます。こう自問してごらんなさい。「特定の計画について考えていない時,自分の心はどんなことに向くだろうか」。そのような場合,心はいつもエホバおよびその目的を考えることに向くべきです。磁石の針は一時的に右か左に振れても,すぐにもどって北をさします。同じように,わたしたちの心はエホバとそのみことばとに帰らねばなりません。こうすれば時代の騒乱を恐れる必要はありません。わたしたちは印刷した紙面から神のことばを学び,それを心の奥深くに収めます。人間は書物を破壊することができますが,わたしたちの心に触れることはできません。それゆえ,いかなる災やくがわたしたちの身に臨んでも,それによって永遠の命ののぞみが消し去られることはありません。

18 「主のわざ」をいつもたくさんもつのはなぜ良いことですか。エホバの見える組織はこの点でわたしたちをどのように助けますか。

18 エホバが地上の見える組織をとおして与えられるご援助にも感謝しなさい。その組織に堅くつき,それと共に奉仕するなら,強い保護を得ることができます。この組織はただエホバの仕事を行なうために存在する唯一の組織であり,また真実の意味で働く人々から成る組織です。それはイエスの強調されたとおり,仕事がきわめて緊急なものであるからです。「わたしたちは,わたしをつかわされたかたのわざを,昼の間にしなければならない。夜が来る。すると,だれも働けなくなる」。(ヨハネ 9:4)時おり,エホバへの奉仕において求められていることが自分には多すぎ,すべての仕事を果たせないと感ずることがあるかもしれません。しかし,そのような見方をするかわりに,こう考えてみてはいかがですか。わたしたちの時間をあふれるほどの奉仕の特権で満たしてくださるエホバはご親切なのです。エホバの奉仕で忙しいことはわたしたちの身の守りとなるからです。それによって,この世の事柄に時間と心を使うひまはなくなります。世の事柄を追いまわせば非常に多くの時間が失われることは明らかです。仕事であっても娯楽であっても,この世の事柄はわたしたちの時間のすべてを奪おうとしています。しかし,それは永遠の命を与えません。それゆえ,ご親切なエホバが見える組織を通してわたしたちの生活を奉仕の仕事で満たしてくださることに感謝すべきです。パウロはそのことをこう言い表わしました。「だから,愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず,いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては,あなたがたの労苦がむだになることはないと,あなたがたは知っているからである」。(コリント第一 15:58)罪に陥るのは主のわざをほとんどしていない人であり,主のわざを多くもち,それを喜んでしている人ではありません。エホバの奉仕においてたくさんの仕事があることは,永遠の命の目標を見つづけるための大きな助けとなるのです。

19 命の目標をいつも見定めるために喜びはどんな役割を果たしますか。

19 エホバの奉仕においてたくさんの仕事をもつ人はそれを行なうことに大きな喜びを見いだします。「よろこびをいだきてエホバにつかへ,うたひつつその御前にきたれ」。(詩 100:2)心から喜んでする仕事なら長くできるのではありませんか。そうです,喜びは忍耐する力です。喜びのゆえにイエスは苦難に耐えました。パウロはヘブル人への手紙 12章2節でこう述べています。「彼は,自分の前におかれている喜びのゆえに,恥をもいとわないで〔刑柱〕を忍び,神の御座の右に座するに至ったのである」。エホバの奉仕におけるこのようなすばらしい喜びを知っているかぎり,わたしたちが不活発になったり,怠惰になってやめたりすることはありません。そして今喜びをもつためには,神の新秩序で永遠に生きるというすばらしい喜をびいつも自分の前におかねばなりません。イエスが自分の前におかれた喜びのゆえに刑柱と死とを忍びとおされたと同じように,わたしたちも自分の前途にある障害のすべてを乗り越えねばなりません。喜びの欠如は霊的な病気のしるしであると言っても過言ではありません。そして喜びの欠如は永遠の命の目標を見失ったためである場合が少なくありません。

永遠の命をのぞみ見ながら奉仕を続ける

20 アブラハムのすぐれた模範はどのようにわたしたちの励みになりますか。

20 命の道を選び,いかなる犠牲を払ってもそれを守ろうと決意しているわたしたちは,神の召しに喜んで答えたアブラハムなど,昔の忠信の人々の模範から大きな慰めと激励を得ます。エホバはカルデアのウルで安楽に暮らしていたアブラハムを召し,知らない土地に行って奉仕することを命ぜられました。これは彼の信仰の大きな試練となりました。生活の仕方を完全に変え,それ以後は遊牧者として家畜を追って暮らさねばならなかったからです。では,アブラハムはなぜこれに従いましたか。それは彼が信仰と先見の人であったからです。「彼は,ゆるがぬ土台の上に建てられた都を,待ち望んでいたのである。その都をもくろみ,また建てたのは,神である」とパウロは述べています。(ヘブル 11:10)アブラハムははるか前途に神の国を見,それを迎えたのです。彼はエホバの約束が自分の生涯中に成就しないことを知っていました。しかし,それによって約束に対する彼の信仰が動揺することはありませんでした。175年の地上の生涯を閉じるまで,彼はエホバへの忠実を守りました。それは彼が永遠の命をのぞみ見て奉仕していたからです。

21 アブラハムやモーセのどんな正しい見方をわたしたちの手本とすべきですか。

21 パロの王宮で育てられ,そこで教育を受けたモーセも,ただ神の「羊」の牧者として仕えることのために,高い地位と栄光と富とを自らすすんで捨てました。彼にこれをさせたものは何ですか。ヘブル人への手紙 11章26節はこう述べています。「それは,彼が報いを望み見ていたからである」。そうです,彼は神の新秩序に対する望みを決して失いませんでした。アブラハムとモーセはエホバの召しに答えました。それはふたりが,どこであっても,またどんな仕事であっても,エホバに奉仕することを望んでいたからです。何をし,どこに行くかということはふたりにとって大きな問題ではありませんでした。彼らはただ,エホバに仕えてそのみこころを行ない,やがて永遠の命の祝福を受けることを願っていました。

22 自らすすんで奉仕することは永遠の命をいつものぞみ見るためにどう役だちますか。

22 このすぐれた心の態度はいつの時代においても神の真のしもべすべてに共通なものです。私たちは物事をすすんで行なうこの精神を常に培い,エホバに仕える機会を絶えず求め,奉仕のいっそうの特権に備えて自らを訓練することにいつも努めるべきです。パウロはテモテに述べました。「もし人が監督の職を望むなら,それは良い仕事を願うことである」。(テモテ第一 3:1)私たちはこのような特権をどのように望むことができますか。勉強,奉仕,また経験をとおして円熟性を高めること,みたまの実を培うこと,エホバの組織をとおして来る召しのすべてにすすんで答えることなどによって,聖書的な資質を増し加えるべきです。そうした特権がさしのべられる時,重荷としてではなく,忠実な奉仕に対する豊かな報いとしてそれを受け入れるべきです。

23 エホバを第一にする人は今日どのように祝福されていますか。

23 永遠の命の望みに加えてエホバ神は,神の奉仕にすすんで応じる者に対して,今この時代においてもすばらしい報いを備えておられます。この点に関するペテロの問いに答えてイエスは言われました。「よく聞いておくがよい。だれでもわたしのために,また福音のために,家,兄弟,姉妹,母,父,子,もしくは畑を捨てた者は,必ずその百倍を受ける。すなわち,今この時代では家,兄弟,姉妹,母,子および畑を迫害と共に受け,また,きたるべき世では永遠の生命を受ける」。(マルコ 10:29,30)今日,幾千人もの忠実な開拓者またほかの人々は,イエスのことばの真実さを実証しています。心からの愛をもって働いたこの人々は,エホバの幼い小羊を見いだして養いました。今その羊たちの家はそうした開拓者たちに開放され,開拓者は家族の一員のごとくに迎えられています。確かにこの人々には何百もの家,母,兄弟があり,しかもその前途には永遠の命があるのです。

24 聖書のことばは永遠の命をのぞみ見ながら奉仕をつづけるのにどんな励みとなりますか。

24 エホバの組織に6カ月いる者にも,あるいは(ある人のごとく)60年いる者にもひとしく求められるのは奉仕を続け,忍耐することです。時おり,迫害,病気,家族の反対,あるいは自分が伝道しようとする人々の単なる冷淡ささえもが,あなたの忍耐力を大きく試みることがあるでしょう。ヤコブのことばを忘れてはなりません。「試練を耐え忍ぶ人は,さいわいである。それを忍びとおしたなら,神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう」。(ヤコブ 1:12)パウロも,忍耐してエホバへの奉仕を続けることをすすめています。「わたしたちは,善を行うことに,うみ疲れてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる」。(ガラテヤ 6:9)エホバの約束をいつもはっきりと心に描き,何事があっても命の道から目をそらさないなら,わたしたちはエホバの望まれるかぎりいつまでも,永遠の命をのぞみ見ながら奉仕をつづけることができるでしょう。そして,そのことにはすばらしい報いがあるではありませんか。「あなたがたは耐え忍ぶことによって,自分の魂をかち取るであろう」― ルカ 21:19。

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