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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1967
塔67 6/15 367–374ページ

人に親切にする

「いつくしみある者はおのれ自身に益を得」― 箴言 11:17。

1,2 (イ)人に親切にするのに役だつことを幾つか述べなさい。(ロ)親切はなぜ大切ですか。

人から親切にしてもらいたいと思うなら,つとめて人に親切にすることを自分の習慣にしなさい。そのために多少の努力と心づかいが必要であっても,それによって得る喜びは多大です。人の立場にたって考えることに努めなさい。夜,車で帰るとき,立往生したほかの車のために遅れるなら,いらいらして警笛を鳴らしてはなりません。援助を申し出るほうがよほど親切でしょう。あるいは朝の食卓で子供がたまたまミルクびんを倒すなら,子供の無器用さを不きげんにしかってはなりません。つとめてやさしくしなさい。自分がしてほしいと思うとおりに人にしてあげなさい。これが親切の精髄です。

2 親切さは人を元気づけます。わたしたちが親切さを特にうれしく思うのは,親切さの欠けた人に日ごろ多く接しているからです。親に叩かれる子供のこと,またあらゆる暴力事件についてはよく見聞きしますが,親切な行為が新聞の見出しにのることはまれです。わたしたちは人にされるとおりに仕返しする傾向をもっていますから,エホバの戒めを心にとめておくのはよいことです。「わたしが願うのは親切であり,いけにえではない」。(ホセア 6:6,アメリカ標準訳脚注)粗暴なことばをはいて人を怒らせ,あとからわびるより,初めから親切にするほうがはるかにすぐれています。わびたあとにも不親切さは人の記憶に残るからです。

3 なぜ純粋な親切をもつべきですか。どうすればそのことは可能ですか。

3 エホバはわたしたちを非常に親切にされましたが,同じほどに人に親切にするのはわたしたちの願いです。たとえ人から報われなくてもそうしなければなりません。神の霊の助けを得ればこのことは可能です。神に信仰をもたず,それゆえ神の霊の実を持たない人の間に外面的な親切の見られることがあります。しかしそれは往々にして偽善的なものです。相手が背を向ければ,そのへつらいのことばはたちまち不親切に変わります。クリスチャンの親切は儀礼的な薄い上張り以上のものでなければなりません。真の暖かさ,愛,思いやり,エホバの霊による純粋な親切さをもつことはまことのクリスチャンの願いです。時にむずかしい場合もありますが,落胆する必要はありません。わたしたちの弱さを思いやってくださる大祭司イエス・キリストがおられるからです。それで聖書は,「あわれみを受け,また,恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために,はばかることなく恵みの御座に近づ」くことをすすめています。―ヘブル 4:15,16。

みたまの実

4 (イ)どうすれば親切をつちかえますか。(ロ)親切は愛とどんな関係にありますか。

4 聖書は親切さを神の霊の実の一つに数えています。つまり親切さはほかの実と同じくつちかうことのできるものです。(ペテロ第二 3:18)適当に心を配るならその成長をはかることができます。特に今はわたしたちのうちに親切さを育てるべき時です。そのためには神のことばを勉強し,昔の信仰の人々の親切さの模範を学ばねばなりません。またこの御霊の実を発揮する人々と交わり,いま恵みの御座にいますキリスト・イエスの教えと手本に従うことが必要です。エホバはわたしたちに親切さを求めておられます。ミカ書 6章8節はこうです。「〔エホバ〕のあなたに求められることは,ただ公義をおこない,いつくしみを愛し,へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。」〔文語〕それで真に神の子であるなら,私たちは親切な心をもつだけでなく,人に親切にすることを願わねばなりません。ここにいつくしみと訳されているヘブル語はほかのところで親切とも訳されています。聖書の中で親切さと愛とは互いに結び合っています。親切さは愛に由来するからです。神への愛と隣人への愛をもつなら,同時に親切さをももつようになるでしょう。

5,6 (イ)親切には何が含まれますか。それをどのように示せますか。(ロ)イエスは親切について何と言われましたか。

5 神の霊の実の中で親切は5番目にあげられています。親切は心のやさしさのしるしであり,良いことをしようという願い,人を思いやり人を助けようとする気持ちのあらわれです。神の霊の実の中には愛,喜び,平和,寛容,親切,善意,信仰,柔和,自制があります。これらのものを禁ずる律法はありません。これらはすべて建設的な特質であり,有益だからです。親切さは問題解決の力になります。また良い礼儀と真の魅力は親切にあります。親切さがあれば人を許すのが容易であり,臆せずに正しいことを行なうこともできます。また親切は人をエホバと真理に引きよせる力です。―ガラテヤ 5:22,23。

6 クリスチャンの親切の中にはすべての人に対する思いやり,他人に対する同情心と心づかいが含まれます。親切とは得るために与えることでなく,また家族,友人,一緒に働く人々にだけ思いやりをもつことではありません。見知らぬ人にも親切にすることに努めなさい。政府の仕事に携わる人が1里行くことを求めるなら,その人と共に2里行きなさいとイエスは言われました。親切と思いやりは友人だけでなく,敵にさえ示さねばなりません。「あなたがたは,敵を愛し,人によくしてやり,また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく,あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は,恩を知らぬ者にも悪人にも,なさけ深いからである」― ルカ 6:35,36。

7 どうすれば親切を身につけることができますか。そのことはどんな結果になりますか。

7 親切さは御国の音信に対する無関心さと反対に打ち勝つ良い方法です。クリスチャンが忍耐づよく,親しみ深く,いつも親切であるなら,それはやがて人の心を動かすでしょう。神の霊は人がこのような態度をとるのを助けます。コロサイ人への手紙 3章12,13節は教えています。「あなたがたは,神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,〔親切〕,謙そん,柔和,寛容を身につけなさい。互に忍びあい,もし互に責むべきことがあれば,ゆるし合いなさい。〔エホバ〕もあなたがたをゆるして下さったのだから,そのように,あなたがたもゆるし合いなさい」。〔新世訳〕親切さは一日だけ身につけ,翌日家に置いておくものではありません。親切にすることはクリスチャンの務めです。

8 わたしたちに望まれるのは何を示すことですか。どうすればそれをできますか。

8 それで自問してごらんなさい。親切さをもつように努力していますか。だれかに不親切にされると,ほかの人にも不親切にしますか。自分の感情を家族の者にぶちまけますか。もしそうなら,あなたの子供が犬やねこを意地悪く扱うのを見ても驚いてはなりません。むしろ,不親切が広がらぬようその防波堤となってはいかがですか。始めるべき所は家庭であり,始めるべき人は自分です。「人に望ましいのは,いつくしみ深いことである」のを忘れてはなりません。―箴言 19:22。

家族の間での親切さ

9 家庭内で親切をどのように示せますか。

9 親切さのある家族では父親,母親,子供のすべてが各自の分を果たさねばなりません。夫は自分の妻を当然のものと思ってはならず,機会を求めて妻を激励すべきです。だれかが何か良いことを言うと,ほかの者が,『それがどうしたと言うのだ』などと言う雰囲気がお宅にありますか。妻が夫の勤勉な働きぶりに感謝すると,夫は食事や掃除の面での妻の努力をほめるというほうがどんなに良いでしょう。あなたはそうしていますか。家庭の外では礼儀を守って人を思いやり,身内の者には不親切で,横暴で,思いやりをもたないといった,二重の標準を設けてはなりません。

10 日常生活で自分の家族に親切にする方法をいくつかあげなさい。

10 行ないがことば以上にものを言う場合は少なくありません。それで親切さはことばだけでなく,家庭での行ないでも示すことができます。予期せぬわずかの行ないが喜びと心の一致を生みます。夫が妻に花を贈るのは必要ではなくても,親切なことでしょう。あるいは妻の気分がすぐれぬ場合もあります。食器洗いや子供の世話を助けてもそれほど時間はかかりませんが,妻は贈り物を受ける以上に感謝するでしょう。親切を人への贈り物とすることに努めなさい。

11 親切な話し方について聖書は何と述べていますか。

11 妻は家族内に親切な気持ちを育てるのに大切な役割をもっています。聖書の述べる希望を夫がまだ認識していない場合でも,妻は親切に模範を見せることにより夫を真理に導けます。箴言 31章26節は良い妻について,「その舌にはいつくしみの〔おきて〕がある」〔新世訳〕と述べています。これを例外とするのではなく,妻の従うべき原則とすべきです。これは口を開く前に考えるという意味です。そして夫もこのおきてを守ろうとするでしょう。家庭にこの原則があるなら問題をときほぐす親切さの力を見ることができるでしょう。エペソ人への手紙 4章32節は簡明に,「互いに親切にしなさい」と述べています。(新世訳)親切に話すことは大切です。アブラハム,ロト,そしてエホバさえ「どうぞ」ということばを使っていますが,これを単なる形式と見てはなりません。親切の大切さが考慮されているのです。―創世 18:3,4; 19:2; 22:2,新世訳。

12 子供に親切を示すにはどうしたらよいですか。

12 幸福な家族をつくるには子供に対する親切さも大切です。この特質を持つ人となるように子供を育てなさい。そして子供はあなたのするとおりに行なうことを忘れてはなりません。それで子供が学校でよく勉強し,野外宣教でよく働くなら,そのことをほめなさい。家庭の日々の聖句の討議で良く注解する場合も同じです。親は子供をいらだたせてはなりません。親が家族の活動を親切に組織するのは良いことです。そうすれば子供は自分に求められていることを知り,神権的な良い計画に従って霊的に建て起こされます。計画どおり勉強に備えて予習をし,割り当てられた家の仕事を果たすという点で子供にも激励が必要であり,またこらしめの必要な場合もあるでしょう。しかし親切さと感傷もしくは放任とを混同してはなりません。青少年の非行は誤った親切さから生まれています。子供の遊び友だち,集会の出席,集会での行儀,神のことばの勉強のしかたなどについて親が気を配らないのは子供に対する親切ではありません。それは子供をわがままにさせることであり,世の風に吹きまわされるのをほっておくことです。親は自分のことをかまってくれないと子供は考えるかもしれません。未熟さのゆえに,子供はきびしい監督を喜ばないかもしれません。賢い人はしっ責を受けるとそのことのゆえにしっ責してくれた人をいよいよ愛するようになりますが,同じことは子供にも言えるでしょう。ほしがるものを何でも与えて子供を甘やかす親がいます。しかしアメリカ,アイダホ州のある学校での調査によると,全優の生徒で自動車を持っている者はいませんでしたが,落第した者の83パーセントは自動車を持っていました。自動車を与えた親はそれが子供への親切であると思ったことでしょう。しかし教育的な観点から言えばそれは親切ではありませんでした。

13 自分に親切にして祝福を受ける道について述べなさい。

13 最後に,自分自身にも親切でありなさい。勉強と奉仕の良い計画を実行しなさい。そのため,次の日のさわやかな活動に備え,テレビを消して床につかねばならない場合もあるでしょう。またそれは,物質上の心づかいを減らし,霊的な宝のためにより多くの時間を費やすことを意味しているかもしれません。こうして自分に親切である人は満足と心の平安を得,その日一日の祝福を心から喜ぶでしょう。こうしたことが個人個人および家族全員の幸福に寄与します。―ルカ 12:19-21。

会衆内での親切

14 会衆内で人に親切にするどんな方法がありますか。

14 霊的な兄弟や姉妹にも親切にしなければなりません。神のことばからの音信のゆえに自分の家族と心が離れている場合でも,クリスチャン会衆にはその100倍の兄弟や姉妹がいるのです。(マルコ 10:29,30)これらの兄弟にいろいろな方法で親切にできます。立ち寄って病気の人を慰め,会衆内の年老いた開拓者においしいごちそうを届け,あるいは病気の姉妹の家事を助けることができます。新しい人が宣教学校の話を作るのをやさしく助ける人もいます。ある兄弟は車いすに乗る病弱の姉妹を連れて行くため,遠まわりして集会に行きます。関心のある人や友人を集会にさそうため車で遠くまで行く人は少なくありません。こうして親切にしてもらう人は出費の分担を申し出て感謝を表わすことができます。初期クリスチャン会衆のドルカスは「数々のよい働きや施しをして」人に親切にしていたので,人に覚えられ,豊かな祝福を受けました。―使行 9:36-42。

15 パウロとペテロはクリスチャンのしもべにどんな助言を与えていますか。

15 どこの会衆においても,しもべたちが親切さをつちかうことは大切です。テサロニケ人に手紙を書いたパウロは,自分がしもべとして,『彼らの間で,母がその子供を育てるように,やさしくふるまい,父がその子にするように,神のみこころにかなって歩くことをさとした』と述べました。(テサロニケ第一 2:7,11,12)これは会衆に対するしもべの態度を良く物語っています。エペソ人への手紙 3章2節でこの使徒は,「わたしがあなたがたのために神から賜わった恵みの務」について述べています。パウロは自分が神の恵みを受けたとおりに,他の人々とくに異邦人に恵みを施す責任もしくは務めのあることを知っていました。ペテロも述べました。「奉仕する者は,神から賜わる力による者にふさわしく奉仕すべきである」。(ペテロ第一 4:10)監督は訓戒し,けん責し,忠告を与えねばならないかもしれませんが,そのすべてを優しく行ないます。親切さは人を引きつけ,不親切さは人を遠ざけることを知っているからです。

16 集会ではどんな点で親切にできますか。

16 クリスチャン会衆内の人には皆,他の人に親切にする機会があります。数人の子供をかかえた姉妹が思いどおりに子供を制御できない場合もありますが,そのようなことに気持ちをいらだてるよりは,そばにすわって子供の世話を助けるほうがよいでしょう。いつも集会に遅れるのは自分にも他の人にも親切なことではありません。それは人の注意をそらせ,自分でも大切なものを得そこないます。また,やむなく遅れる場合には,できるだけ人の妨げとならぬよう,うしろの席にすわることができます。親切な兄弟は老人をきびしくとがめたりしません。むしろ父親に対するごとく話しかけるでしょう。また若い人々はあたたかいことばをかけ,すすんで援助を申し出て,年老いた人々に親切にできます。―テモテ第一 5:1-3。

親切の目的

17,18 なぜ見知らぬ人にも親切にすべきですか。

17 時おり,ほかから来る講演者あるいは巡回のしもべやその妻をもてなす機会があります。ヨハネの第三の手紙 5-8節で,老齢の使徒ヨハネはそうした人々をこころよく迎えるべきことを教えています。よい行ないは神から出ているからです。親切をまくなら親切を刈り取るでしょう。イエスの弟子の一人に冷たい水一杯を与えることさえエホバによく覚えられます。(マタイ 10:41,42)聖書は見知らぬ人に親切にした人の例をたくさんあげています。エリヤはザレパテのやもめに親切に迎えられました。(列王上 17:8-24)この貧しいやもめは飢饉の時にもかかわらず手元にあった食べ物を残らずこの預言者に与えましたが,結果として豊かな祝福を受けました。エホバはやもめの粉と油を絶やさず,のちにむす子を生き返らせました。

18 使徒行伝 28章2節でパウロは難船してマルタ島に上陸したときのことを述べています。「土地の人々は,わたしたちに並々ならぬ親切をあらわしてくれた」。島の人々は雨と寒さをおして見知らぬ難船者を迎え,火をたいて一行をもてなしました。それで彼らは神のことばの中に良い記録を残しています。パウロが霊的な祝福を残して彼らの親切に報いたことは疑いありません。(使行 28:30,31)わたしたちも見知らぬ人に親切にすべきです。ヘブル人への手紙 13章2節(新世訳,1950年版)は述べています。「見知らぬ人に対する親切を忘れてはならない。それによって,ある者は知らずしてみ使いをもてなしたからである」。

19 どうしたら神の恵みをいたずらにしていないことを示せますか。

19 今日のエホバの民について特に目だつのは,真理を分け与えることによって人に親切にしている点です。使徒は述べました。「わたしたちは……あなたがたに勧める。神の恵みをいたずらに受けてはならない」。それでわたしたちの願いは,『この務がそしりを招かないために,どんな事にも,人につまずきを与えないようにし,かえって,あらゆる場合に,〔親切〕と聖霊と偽りのない愛と,真理の言葉と神の力とにより,神の僕として自分をあらわす』ことです。(コリント第二 6:1-7,〔新世訳〕)どのような立場におかれても,わたしたちは自分が神のしもべであることを示せます。それは神のことばについての知識と患難に対するわたしたちの態度だけでなく,親切をも含むみたまの実を発揮することによります。

20 イエスは宣教において親切をどのように示されましたか。

20 親切を示すのは神にならうことです。真理を伝道したイエスはこの点で顕著な手本を残されました。浸礼者ヨハネがイエスをさして神の小羊と呼んだ時,ヨハネの弟子二人はイエスについて行き,イエスがどこに泊まっているかを尋ねました。イエスは二人に一緒に来て見ることを勧めました。その日の残りをイエスと共にすごしたアンデレはその兄弟シモンに,「わたしたちはメシヤにいま出会った」と言いました。イエスは神のことばを語って彼らをもてなし,親切にされたのです。―ヨハネ 1:41。コリント第二 8:9。

21 今日,宣教の面で親切をどのように示せますか。

21 エホバの証人は今日,返礼を求めずに命のたよりを人に伝え,繰り返し訪問し,聖書研究を司会することによって,いつも親切を示しています。この仕事に携わる私たちは親切に話すことに努めます。つまり巧みに,また礼儀正しく応答し,家の人が何を言おうとするかをゆっくり聞きます。失礼な態度をとる人にきついことばや皮肉で答えることは容易です。しかしエホバが親切を求めていられることを忘れてはなりません。穏やかな答えが家の人の心を真理に開いたことは一度ならずあります。未熟な人は不快な答えかたをするかもしれませんが,円熟した人はそれが神の親切さを反映しないことを知っています。

22 真理を控えるのはなぜ親切ではありませんか。

22 もとより,親切に話すことと真理をあいまいにすることとを混同してはなりません。親切な話し方で要点をはっきりさせることができるからです。イエスは牧師級に対して強力な話し方をされましたが,羊のような人々に対してやさしく,忍耐づよく話されました。初めは相手の気を悪くさせても,真理を差し控えるのは親切ではありません。盲人に施す手術は痛いかもしれませんが,視力を回復したときの喜びは,その痛みを補ってあまりあるのです。それで,身体的な病気の人にも霊的な病気の人にも親切さはうれしいものであり,真理に耳を傾けさせる力をもっています。老齢のアイルランド人の母親と住む一婦人と研究を始めたあるエホバの証人は,そのような経験をしました。母親は非常に反対し,証人に家に来ないようにと言いました。娘はその伝道者の家に行って勉強を続けました。母親はこのことをいっそう嫌い,証人が勉強のために家に来ることを再び許しました。再び家をたずねた姉妹は花を携えて行きました。老人は自分がなおざりにされるのを寂しく思うことがあると考えたからです。それ以後,老婦人は真理に関心をもち始め,やがてこう言いました。「わたしは意地悪でした。それでもあなたは親切にしてくれました。わたしはもう年とって死ぬだけだと考えていましたが,今では新しい命の希望がわいてきました」。こうして,親切さが真理に対する見方を変えるのに役だったのです。

23 エホバの子であることをどうしたら示せますか。

23 エホバは悪い者にも感謝しない者にも雨と太陽と食物と住居を与えて親切にしておられます。それでわたしたちも,いま真理を退ける人にも親切にすることができます。それによってわたしたちは自分がこの制度の子でなく,エホバの霊の実をもつエホバの子であることを示せます。(マタイ 5:43-46)大会でのエホバの証人の親切な行為はすばらしい証言となり,エホバの誉れとなっています。ニュージーランドのある食堂の主人は言いました。「これほど礼儀正しく,親切で,思慮ぶかい人々を見たことがありません」。

24 親切は何を含んでいませんか。なぜ?

24 最後に,家庭においても会衆においても正しいことを確固として守ることは親切です。親切は弱さではありません。親切は悪を見のがすことではありません。そうしたあやまった親切が少年やおとなの非行を生んでいます。そして監督が親切をはきちがえて正しい原則を守らないなら,会衆内にも霊的な非行が生まれるでしょう。神のみ旨に反する行ないを人にすすめるのは決して親切ではありません。それで,だれかがエホバの道からさまよい出るとき,忠告あるいは当然のこらしめを差し控えるのは親切ではありません。あるときペテロはイエスにまちがった助言をしました。自分はまもなく苦しめられて死ぬとイエスが言われたとき,ペテロは「主よ,とんでもないことです」と言いました。しかしイエスは「サタンよ,引きさがれ」と言って,これを退けられました。(マタイ 16:22,23)ペテロはしっ責されましたが,それは当然でした。ペテロが親切と思ったことばはエホバの目的にかなっていませんでした。それで,親切さは真理およびエホバへの愛と結びついていなければなりません。

25 サタンは親切を妨げるため何をしていますか。

25 サタンは分裂を起こさせ,クリスチャンの家庭やクリスチャン会衆の不和によって神の霊の働きを妨げようとしています。個人的ないざこざやささいな議論で起きるエホバの会衆の分裂はエホバの霊の流れを止め,宣教の実を不毛にします。しかし,イエスの弟子は互いの愛で知られ,愛は弱さと不完全さ,そして多くの罪をもおおいます。しかし,エホバの新しい事物の制度で生きる希望をもつ人すべては,人をそそのかし,神の過分の恵みを放縦の口実に変えさせようとする者から会衆を守ることにも心を配らねばなりません。―ユダ 4。

26 親切が人との交わりに役立だつことを述べなさい。

26 親切であれば人との間柄を円満にできます。興奮し,緊張を高めるよりも,エホバの霊を働かすべきです。やさしく,親しみぶかく,あわれみある態度は親切さと結びついています。そして不快な感情をつくろうより,初めから親切にするほうがすぐれていることは明らかです。それで,自分の家族に争いや愛の欠けた傾向,あるいは粗野な話し方があるならば,みたまのこの実をつちかうことに努めなさい。家族の中に真理に反対する人がいても,クリスチャンの親切な態度は荒海に流す油のような力を見せるでしょう。

27 クリスチャンにとって親切が非常に大切なのはなぜですか。

27 わたしたちが命の希望をもつのはエホバの過分の恵みによります。それでわたしたちは同じ親切を人に示さねばなりません。(エペソ 2:5-8)野外宣教で御国の実を結ぶことに努めるわたしたちは,神の霊の実を結ぶことにも努力すべきです。これをするなら,神のいつくしみのおきてに従っていることになります。わたしたちはそれを自分の舌だけでなく,心にもおかねばなりません。そのときいつくしみのおきてはわたしたちの新しい人格の一部となるでしょう。それによってわたしたちの問題を解決し,人を許すことは容易になります。親切は建設的な特質であり,人を動かして親切な態度で応じさせます。わたしたちの親切なことばと行ないは人をエホバに引き寄せることができます。みたまのこの実を発揮するなら,エホバに対する希望と確信が失望に終わることはありません。それでエホバと共に歩もうとするわたしたちは,親切を愛しましょう。不親切な世にあっても,エホバは親切を求めておられるからです。親切は人を命に導きます。―ローマ 2:4; 5:2。

[371ページの図版]

他の人への親切な心づかい

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