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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1968
塔68 5/1 281–284ページ

またおいでくださることをお待ちしています

毎年エホバの証人とその友は,昔のユダヤ人の暦でニサン14日にあたる日に全世界で会衆とともに集まって「主の夕食」を記念します。今年その記念の夕食は4月12日の晩に行なわれました。あなたも出席されたことでしょう。

「ものみの塔」誌の読者である大ぜいの人が,毎年,記念式に出席します。1967年には全世界で219万5612人がこの聖なるつどいに参列しました。今年の報告はまだまとまっていませんが,大ぜいの人が出席したことは確かです。しかし気がかりなことが一つあります。昨年について見ると,記念式に出席した人のうち,会衆の他の集会に一度も出席しない人が100万人もいるのです。他の集会も,クリスチャンの生活の中で同じく重要です。聖書は「主の夕食」をとり行なうことを命じているのと同じく明確に,他の集会に出席するようにすすめています。(ヘブル 10:23-25)一つの集まりに来て他の集会に出席しない人が大ぜいいるのは,なぜですか。

ただ1回出席すればクリスチャンに対する要求をはたしたことになり,それで救いが得られると考えている人が多いことは明らかです。それらの人は,主の夕食で強調される一つの大切な点すなわちクリスチャンが定期的に集まることの必要を見すごしています。

西暦33年に主の夕食が初めて行なわれた直後の出来事は,この必要をよく示しています。使徒たちがその晩に2階の部屋とエルサレムを去り,翌年まで集まることを考えなかったとすれば,多くの機会を逸したことでしょう。イエス・キリストの復活,ガリラヤにおいてイエスにまみえたこと,イエスの昇天,五旬節における聖霊の降下,異言の奇跡を知らずにすごしたに違いありません。しかし崇拝のために集まることを怠らなかった人々は,機会を逸しませんでした。

イエスの復活後,キリストの弟子たちはユダヤ人を恐れたので戸を堅く閉ざして集まっていました。彼らは集まり合うことの必要と重要さを認識していたゆえに,危険をおかしても集まっていたのです。このようにしていたある時,復活後のイエスが不意におとずれました。それは彼らのしていたことがイエスに是認された証拠です。堅く閉ざされた戸をとおしてイエスがはいって来られたので,弟子たちは大変驚きました。使徒トマスはその場にいませんでした。彼はその集まりに出席していなかったのです。そこで兄弟たちはトマスが何を逸したかを彼に告げて言いました。「わたしたちは主にお目にかかった」。トマスは不信の態度で応じ,わたしは信じないと答えています。「わたしは,その手に釘あとを見,わたしの指をその釘あとにさし入れ,また,わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ,決して信じない」。明らかにトマスの信仰は強いものではありません。

8日後にイエスの弟子たちがふたたび集まっていた時,この度はトマスもいました。聖書は次のように述べています。「戸はみな閉ざされていたが,イエスがはいってこられ,中に立って『安かれ』と言われた。それからトマスに言われた,『あなたの指をここにつけて,わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで,信じる者になりなさい』」。(ヨハネ 20:24-27)トマスの信仰はたちなおりました。これが集まりの目的です。すなわちそれは信仰をたちなおらせ,信仰を保たせます。わたしたちは,不信仰からわたしたちを救い出してたちなおらせるキリストの力に今でも信頼できます。キリストは次のことを約束されたからです。「ふたりまたは三人が,わたしの名によって集まっている所には,わたしもその中にいるのである」。(マタイ 18:20)イエスの名によって集まるなら,イエスはわたしたちのまんなかにおられます。

集会の目的

集会にいつも出席して参加するのは,信仰を表わす行ないです。それはキリストが主であるというわたしたちの信仰を公に言い表わすうえに肝要なことのひとつです。使徒パウロは,それをすべきことを次のように述べています。「自分の口で,イエスは主であると告白し,自分の心で,神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら,あなたは救われる。なぜなら,人は心に信じて義とされ,口で告白して救われるからである」。(ローマ 10:9,10)トマスは復活したキリストを見たとき,確かに公に言い表わしました。「わが主よ,わが神よ」と,トマスは叫んでいます。しかしイエスはトマスに言われました。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は,さいわいである」。(ヨハネ 20:28,29)イエスが主なるキリストであるという事実を,今日,信仰によって言い表わす人はほんとうに幸いです。

集会は,かわいた人が集まってきて水を飲む泉のようなものです。クリスチャンは霊的にみずからを新たにし,教訓を受けるために集まります。イエスは集まりの席で多くのことを教えられました。イエスの次の命令が与えられたのは,復活後の集まりの一つにおいてでした。「エルサレムから離れないで,かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい…あなたがたは間もなく聖霊によって,バプテスマを授けられるであろう」。(使行 1:4,5)集まった弟子たちに対して,イエスは奉仕の教訓を授けられました。「あなたがたは……地のはてまで,わたしの証人となるであろう」。(使行 1:8)それらの集まりに出席していなかったとすれば,貴重な特権を失ったことでしょう。

イエスの昇天後も弟子たちは定期的に集まっていました。彼らは,ある二階の部屋に集まって祈りに専念していました。イスカリオテのユダに代わる者としてマッテヤが選ばれたのも,集会においてでした。120人の会衆に聖霊がそそがれたのも,彼らが集まっていた時です。―使行 1:12-14,24-26; 2:1-4,46,47; 4:31。

ゆえに記念式の晩に家に帰るなり,あとは翌年の記念式までクリスチャン兄弟の間に姿を見せないとすれば,それはキリストや使徒たちのしたことと一致しません。

まちがった考え

年に1度,主の夕食に姿を現わせば,それで神の是認と生命が得られるという危険な考えに気をつけてください。言うまでもなくそれはまちがった考えです。1度の集会でわたしたちの霊的な必要がみたされるわけではありません。それは1回の食事でからだの必要をみたすことができないのと同様です。イエスのことばはそのことを明白にしています。「人はパンだけで生きるものではなく,〔エホバ〕の口から出る一つ一つの言で生きるものである」。(マタイ 4:4,〔新世訳〕)永遠の命を得るには,神とキリストに関する知識を常にとり入れねばなりません。(ヨハネ 17:3)集会によって,わたしたちはこの流れに絶えず接することができるのです。

ある人々はこう言います。「わたしは聖書を持っています。集会に行かなくても自分の家で聖書を勉強できます」。もっともな話のようですが,はたしてそうでしょうか。何週間たっても聖書は閉じられたままであり,聖書を読んで真剣に考えることをしない場合がなんと多いのでしょう。時間をきめて聖書を個人的に研究し,それを怠らない人は,今日きわめてまれです。

家で個人的に聖書を研究するのはとても良いことであり,やめたり怠ったりすべきではありませんが,たとえ計画どおりにきちんとやっても,それで霊的な必要がすべてみたされると思うのはまちがいです。他の人々との交わりによってのみ,その必要が満たされる事柄もあります。たとえば,ある人はヨハネの福音書 5章37節のことばを,どうしても理解できないでいました。ある日,集会でその聖句が読まれ,説明されました。理解が心にひらめきました。「まだそのみ声を聞いたこともなく,そのみ姿を見たこともない」。イエスのこのことばは,すべての人に対してではなく,イエスの近くの者たちに言われたものです。この理解は集会でひらめきました。そのことは箴言の次の句を思いおこさせます。「鉄は鉄をとぐ,そのように人はその友の顔をとぐ」。(箴言 27:17)これは集会の重要さを裏書きしています。

集会は一つの責務

使徒パウロは,クリスチャンの兄弟たちと定期的に会うことを望むのが,私たちにとって当然なわけを次のように述べています。「互に愛し合うことの外は,何人にも借りがあってはならない」。(ローマ 13:8)わたしたちは兄弟たちに愛を負っており,それは返さなければならない負債です。わたしたちは集会において,最もよくそのことをできます。パウロはこの点を強調して次のように述べました。「愛と善行とを励むように互に努め,ある人たちがいつもしているように,集会をやめることはしないで互に励まし,かの日が近づいているのを見て,ますます,そうしようではないか」― ヘブル 10:24,25。

わたしたちは愛のゆえに,できるものならばいつも定期的にクリスチャンの兄弟たちと会うように心がけるべきです。夫婦が何週間も何か月も何年もことさらに会わないでいるとすれば,そこに愛があると言えるでしょうか。キリストの愛は,「わたしはいつもあなたがたと共にいるのである」と言われたことばに示されています。(マタイ 28:20)兄弟たちの集まるところにいたいという願いを起こさせるような愛を,わたしたちも持たなければなりません。

利己的になって自分のことだけを考えるのではなく,他の人の必要とするものを顧みて互いに仕えるべきことを,記念式はわたしたちに思い起こさせます。(マタイ 20:28)もし,キリストが飢え,かわき,旅人であり,病気であり,悩み,獄にいられるのを見たならば,あなたはキリストに仕えないでしょうか。もちろん仕えるでしょう。キリストの兄弟の最も小さい者に仕えるならば,キリストに仕えたことになるのです。キリストは,それがご自分に対してなされたものと見られます。万難を排しても集会に出席すればこそ,他の人々の必要を顧みることができ,「羊」と「やぎ」のいずれかであるかを証明できるのです。―マタイ 25:34-46。

どんな立場におかれているにしても,パウロがいだいたのと同じような,兄弟への思慕,兄弟たちを気づかう心を養わねばなりません。パウロは次のように述べました。「わたしは,あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて,力づけたいからである。それは,あなたがたの中にいて,あなたがたとわたしとのお互の信仰によって,共に励まし合うためにほかならない」。(ローマ 1:11,12)このような気持ちを持つとき,自分のからに閉じこもったり,あるいはあなたの愛を必要としている人々に対して冷淡また無関心になることはありません。クリスチャンにふさわしいこの態度を持つ人は,一つの大きな集いの中で神の栄光を表わす活発な証人に変えられるでしょう。これはすべての人にとって願わしいことです。また神に是認される人はだれでもやがてこのような者にならねばなりません。

ですから集会に出席するのに来年まで待たないでください。来週まで延ばすには及びません。今週ふたたび御国会館においでくださることをお待ちしています。

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