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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
塔69 11/1 649–655ページ

自制の価値と必要

「霊の実は…自制…である」― ガラテヤ 5:22,23,新。

1,2 (イ)自制の大切さをどのように言い表わせますか。(ロ)自制について使徒パウロ述べたことばはこのことをどのように裏づけていますか。

クリスチャンにとって自制は必要ですが,このことはどれほど大切ですか。いくら強調しても強調しすぎることがないほど大切です。事実,愛について述べた使徒パウロのことばを次のように言いかえることもできるでしょう。『たといわたしが,人々の言葉や御使たちの言葉を語っても,もし自制がなければ,いっさいは無益である』― コリント前 13:1-3,口語。

2 これは誇張のように思えますか。では使徒パウロの別のことばに注目してください。イエス・キリストの追随者で,パウロほど良いたよりのために熱心を表わし,忍耐した人はいません。それはパウロ自らがコリント後書 11章22-33節で証しているとおりです。ところが,熱心と忍耐そして,そうです,実り豊かな宣教の目ざましい記録を持っていたにもかかわらず,自制の必要についてパウロはこう述べました。「わがからだを打たゝきてこれを服従せしむ。おそらくは他人に宣伝へて自ら棄てらるることあらん」。労苦をきわめ,忍耐をつくしながら,すべてがむなしく終わることほど無残な悲劇はありません。しかしパウロが自制を怠ったなら,おそらくすべてはむなしく終わったでしょう。―コリント前 9:27。

3,4 (イ)自制を定義しなさい。(ロ)どんなたとえで自制を説明できますか。

3 確かに自制はきわめて肝要です。それにしても自制とはどういう意味ですか。自制とは,「自分の衝動,感情あるいは欲望を制すること」,「自分の能力やエネルギー,特に性向および感情を制御する行為あるいは力もしくは習慣」と定義されています。もとよりこのことばは,誘惑あるいは圧力を受け,愚かな,もしくは利己的な仕方で行動する危険がきわめて大きな場合に自らを制するという意味をもっています。

4 自制の価値と必要は自動車のたとえで説明できます。車のエンジンは出力35馬力のものから400馬力のものまであります。しかしこうした出力もさることながら,そうした動力を制御することも出力に劣らず大切です。運転中の車の速度や進行方向を制御できないとすれば,その車になんの価値がありますか。それは死を招く凶器にすぎません。

5 自制が必要な理由を述べなさい。

5 人間は他の動物と異なり,本能だけで支配されているものではなく,神のかたちとさまに似せて創造された倫理的に自由な行為者です。したがってエホバ神の付与されたさまざまな賜物や能力を愛の心から賢明に使うこともでき,かつ悪用することもできるのです。このゆえに自制の問題が生じます。無生の自然の力,たとえば,たつまき,台風,津波,雷光などの力は,さまたげられなければ重大な災害をもたらします。同じように,創造者が人間に付与された,精神や感情また肉体の力も,もし制御しなければ,大きな害をもたらすものとなり得ます。―箴言 25:28。

自制の欠如が招く害

6 自制の欠如が招く悪い結果を幾つかあげなさい。

6 どこを見ても,たとえば自分の周囲を見,あるいは歴史を回顧しても,人間の男女,特に若者が自制を怠って招いた悪い結果に気づきます。新聞あるいはラジオやテレビで報じられる数多くの恐るべき殺人事件は,憎しみや欲求不満を殺人によって晴らそうとする強い衝動を制御しなかった結果です。別居,遺棄,離婚に終わる,いたるところに見られる不幸な夫婦生活はもちろんのこと,性病のまん延,多数の私生子の出生などの原因は自制の欠如にあります。第一次世界大戦中,銃弾で負傷して廃人となった者より,性病のために廃人と化した人間のほうが多かったと言われています。また,現在行なわれているベトナム戦争に関する最近の一報告は,兵士の4分の1以上が性病に感染していると伝えています。アルコール飲料に対する欲求を制し得ない人が陥る泥酔についてはいかがですか。また,運転する人がいらいらしたり,注意をそらしたりする場合など,自制の欠如が原因で起きる自動車事故はどれほどあるでしょう。医学的な研究も明らかにしているとおり,“衝動にかられやすい性格”の人,つまり自制心の乏しい人の無謀な行動による事故が再三起きています。

7,8 (イ)自制の欠如に関しエバとカインはどんな例を残しましたか。(ロ)自制の欠如に関しほかにどんな例が聖書にありますか。

7 聖書には,自制を怠って生じた悪い結果に関する警告的な例が数多くしるされています。エバはその最初の例と言えるでしょう。エバは「その木を見ると,それは食べるに良く,目には美しく……好ましいと思われた」ので,自制するどころか,誘惑に屈し,その実を食べました。(創世 2:16,17; 3:2-6,口語)カインは怒りの感情に支配されてはならないと警告されたにもかかわらず,自制しなかったために,自分の弟を殺し,永遠の命の希望を得そこない,自制の欠如ゆえに殺人を犯した多数の人間の最初の者となりました。―創世 4:5-7。ヨハネ第一 3:12。

8 また,ロトとその家族が,滅びに定められたソドムの町からのがれた時,うしろを振り返ってはならないとの命令に従うにもやはり自制が必要でした。ロトの妻は自制しなかったため自らの滅びを招きました。イエスはこのことをご自分の追随者に対する戒めとして用いられました。(創世 19:17,26。ルカ 17:32)ヤコブは臨終に際し,自制に欠けていた長子ルベンにきびしい非難のことばを述べましたが,ルベンはその父のそばめのひとりから誘惑されるままに行動したようです。そして『水の沸あがるがごとく』父の床を汚しました。(創世 49:3,4)自制心を失ったサウル王は国の危急の時に際し,預言者サムエルが来て犠牲をささげる時まで待つことができず,結果として,イスラエル王国の王位を失いました。(サムエル前 13:8-14)また,エホバに仕えた忠実なしもべたちの中にも,自制しなかったばかりに,あとあとまで悔いを残す悲痛な事態に陥った人がいます。戒めとなるこうした先例のすべては,自制の必要を如実に物語っています!―創世 9:20,21。民数 20:7-13。サムエル後 11:1–12:15。

自制の手本

9,10 自制の最大の手本をわたしたちに示されたのはどなたですか。その手本をどのように示されましたか。

9 一方,神のことば聖書は自制する決意を強める数多くのすぐれた手本を示しています。第一の手本はほかならぬエホバ神ご自身です。エホバ神が自制なさるのですか。そうです,エホバご自身がこう語っておられます。「われ久しく声をいださず黙して己をおさへたり」。(イザヤ 42:14)不忠実なイスラエルは直ちに処罰されて然るべきでしたが,エホバは自らをおさえられたのです。エホバの資質やお目的を知らない人々は,神が悪や苦しみを許しておられるゆえに不平をこぼしますが,次のことを理解していません。つまり神は賢明にも,また愛の心からそうした事柄を許しておられ,そしてこれが神の大いなる自制を物語っているということです。どうしてそう言えますか。

10 エホバ神は自由に行使できる無限の力を持っておられます。そしてそれを,いつでも御心のままに自由自在に行使できます。しかし神はご自分の力を公正で賢明な,かつ愛のある仕方でのみ行使されます。エホバは寛容で,そのみことばにもあるとおり,怒ることの遅いかたです。怒ることに遅いのは,ご自身の義憤を制せられるからではありませんか。(詩 103:8; 145:8。エレミヤ 15:15。ヨエル 2:13。ヨナ 4:2。ナホム 1:3)神はノアの日の邪悪な世代の人々を滅ぼすのに120年待ち,また,紀元前607年,不忠実なイスラエルに対しついにさばきを執行するまで幾世紀も待たれました。(創世 6:3。歴代下 36:15,16)サタンと配下の悪霊およびその手先となった人間は絶えずエホバの正義を犯し,その権威を侮べつし,冒瀆,中傷,反逆をもって神を侮っています。聖書も示すとおり,神は情を持っておられます。ではそうした事柄に憤りを感じてはおられないでしょうか。確かに感じておられます! しかし神は幾千年ものあいだそれを忍んでおられるのです。神はその知恵と愛のゆえに自制しておられます。

11 イエスはどのような点で自制のすぐれた手本を残されましたか。

11 また疑いなく,神の御子イエス・キリストは人間としての自制の最大の手本を残されました。イエスはその地上における宣教中,ご自分の力,つまり精神力あるいは感情を制し切れなくなったことはなく,また,無分別あるいは無思慮な言動をなさったことは一度もありません。「ののしられてののしらず,苦しめられておびやかさず」としるされています。(ペテロ前 2:23)それには確かに自制が必要でした! それでマタイ伝 27章13,14節はこう述べています。「ここにピラト彼にいふ『聞かぬか,彼らが汝に対していかにおほくの証拠を立つるぞ』されど総督のいたくあやしむまで,ひとことも答へ給ず」。これは尋常なことではありません。しかしエホバの預言者は,イエスがさばきを受けるときに関し,「みづから……口をひらかず」と前もって述べていました。ゆえにイエスは自らを制し,さまざまな偽りの証言が行なわれたにもかかわらずひとことも話されませんでした。ほんとうにイエスはわたしたちの見習うべき,特に支配者の前に立つような重大な事態に際して従うべきすばらしい,そうです,完全な自制の手本を残されました。―イザヤ 53:7。

12-14 ヨセフは自制のどんな手本を残しましたか。ギデオンやサウル王はどうですか。またダニエルとその3人の仲間についてはどうですか。

12 神のことばに再三示されているとおり,わたしたちと同様に不完全で弱い,エホバのしもべたちが残したすぐれた手本も,イエス・キリストに見習うことを励ますものです。ポテパルの妻の執ような求めに悩まされたヨセフは,自制のなんとすぐれた手本を残したのでしょう!(創世 39:7-20)また自制に関する昔の別のすぐれた手本を残したのはさばき人ギデオンです。彼はミデアン人との戦いで勝利を収めたのち,しっと深いエフライムの人々と対面しました。エフライム人は言いがかりをつけてギデオンにけんかを売ろうとしました。ギデオンは,勝利に酔った勢いで容易に怒りを発し,彼らに非難のことばを述べ,それがもとでイスラエル人のあいだに流血の戦いを引き起こすこともあり得たのです。しかしギデオンは自らを制し,彼らに対し巧みに賛辞を提し,事を起こさずに人々を帰らせました。彼は感情ではなく理性に基づいてことばを出しました。―士師 8:1-3。

13 サウル王は前述のとおり,自制の欠如のため後日王位を失いましたが,最初はこのすぐれた資質を表わしました。王位についてまもなくのこと,一部の「よこしまな人々」からさげすまれました。人々は「かの人いかで我らを救はんや」と言って冷笑し,エホバ神ご自身によって自分たちの上に立てられた王を認めたしるしとしての贈り物を王に携えませんでした。サウルはこれに腹をたて,口汚なくののしったり,どなったり,あるいは彼らを処分したりすることもできました。しかし彼は事を荒だてようとはせず,自らを制しました。「サウルは唖のごとくせり」とあります。憤慨したときに黙っているのはなんと賢明なことでしょう!―サムエル前 10:27。

14 ほかにも多くの人々があげられますが,その中にダニエルと彼の3人の若い友だちがいます。奴隷としてバビロンに連れて行かれた彼らには,皇帝の命令で最上の食べ物と飲み物が供えられました。バビロン人はもとより仲間の奴隷たちの他の者は皆そうした飲食物を喜んで食べましたが,ダニエルとその3人の友は,モーセの律法から見るとき,それらのごちそうが汚れたものだったので食べようとしませんでした。彼らはこうして自制したため,エホバの豊かな祝福を受け,王に仕えていた他の賢人たちのだれよりも賢いことを示しました。そして明らかに彼らはこうした自制のゆえに心を強められ,試練に直面したときには,4人ともしっかりと立ち,誠実さを保つことができました。―ダニエル 1:8-20; 3:16-30; 6:4-28。

飲食に関する自制の必要

15-17 (イ)クリスチャンは自分たちのどんな事実のゆえに自制する義務がありますか。(ロ)飲食に関する自制の必要性を示す事実,理由また聖句を述べなさい。

15 クリスチャンが自制を必要とする強力な理由は数多くありますが,その一つは管理の仕事をゆだねられているということにあります。クリスチャンはエホバ神に献身したゆえに,数々の特権や技術のみならず,自分の時間や資力そして力などの管理をゆだねられています。こうした管理の務めを正しく遂行するには飲食の場合と同様,自制が必要です。自制心に乏しい大酒飲みや大食家は明らかにお金ばかりか時間や体力をも浪費しています。(箴言 23:20,21)しかし,そうした極端を避けてさえいれば自分は飲食の点で正しく自制していると考えるのはまちがいです。自制していないかもしれません。たとえ泥酔しなくても,お酒のために盛んにしゃべったり,あるいは眠くなったりするなら,やはり飲みすぎているのです。同様に,大食とまではゆかなくとも,食事をしてだるくなったり,眠くなったりするなら,それもやはり食べすぎです。それぞれ事情によって異なります。

16 次の助言は飲食に関する自制を暗示しています。「食ふにも飲むにも何事をなすにも,すべて神の栄光をあらはすやうにせよ」。(コリント前 10:31)クリスチャンは,あたかも飲食が人生の最大の喜びであるかのように,食べるために生きているのではありません。確かにそうではありません。クリスチャンは良いたよりのためであれば進んで飲食のことを二の次にすべきでしょう。簡素で,あまり手の込んでいない食物を適度に食べるのはからだにとって最も良いことです。またそのような食事は経済的です。クリスチャンはこのことを軽く見てはなりません。適度の食事をとる習慣は,全時間奉仕を継続できるかどうかを左右することがあるからです。次のような賢明な助言があります。「治める人と共に座して食事するとき,あなたの前にあるものを,よくわきまえ,あなたがもし食をたしなむ者であるならば,あなたののどに刀をあてよ」― 箴言 23:1,2,口語。

17 クリスチャンは御国の事柄とその祝福にあずかるため,食卓に臨んで進んで自制すべきでしょう。たくさんの食事を先にとったため眠けをもよおしているのでは,聖書の講演から多くを学ぶことはできません。わたしたちは「おのが腹を神とな(す)」者,あるいは「己が腹につかへ(る)」奴隷になりたいとは思いません。イエスの次のことばはなんと適切でしょう。「食べすぎ,飲みすぎ,生活のわずらいなどのためにあなたがたの心が鈍るようになり,その日が突然わなのようにあなたがたに臨むことのないよう,自らに注意しなさい」。飲食において自制することは敬虔な信仰の一部です。そしてこれは現在の生活と将来のそれとを問わず,すべてのことに有益です。事実,今日のほとんどすべての悪性の疾病の一因は栄養のとりすぎにあると見ている医学の権威者もいます。―ピリピ 3:19。ロマ 16:18。ルカ 21:34,35,新。テモテ前 4:8。

18 飲食において自制することは,どんな二つの点で,感情を制するのに役だちますか。

18 そのうえ,食卓で自制すると,人間の情を制するのに役だちます。これには二つの面があります。まず,ある事柄で自制すると,他の事柄においても自分を制することができるようになります。ですから,あるりっぱなクリスチャン奉仕者はピーナツが大好物だったので,それをポケットに入れて歩き,ほしくなってもがまんして,自制心を訓練したと語っています。ピーナツを食べたいという気持ちを制することによって,他の事柄でも自制できるようになりました。第二は,食生活に節度を保つ人ほど性欲に悩まされることが少ないという点です。これは自制を必要とする別の分野です。それで,『好色家は強壮になるほど悪に落ちる』とは当を得たことばです。

異性との関係における自制の必要

19 (イ)自制に対する最大の挑戦と言えるものはなんですか。またこのことを示すどんな事実がありますか。(ロ)これはなぜですか。しかしそれはエホバの愛の表われと言えます。どうしてですか。

19 異性との関係における自制の必要はどちらかといえば,飲食における自制よりも大切で,かつむずかしい事柄であり,また,より重大な結果を伴うものです。それは自制の問題中,最大の挑戦ということもできるでしょう。毎年全世界にわたって文字どおり幾千人もの献身したクリスチャンが,異性に対しクリスチャンとしてふさわしくないふるまいをしたため排斥されています。そしてその理由は,この問題に関する事柄を考えると容易に理解できます。エホバ神は最初の人間夫婦に対し,多くの子供を生んでふえるようにと命ぜられたばかりでなく,互いに求め合う強力な誘引力をふたりに付与されました。それはきわめて強い力であるため,家庭生活に伴うさまざまな重荷を苦にする人が生殖力の行使を断念して,人類家族の自滅を招くようなおそれは決して生じません。これはまた,エホバ神の愛の別の表われでした。なぜなら神は,男女が互いに求め合うとき,ふたりがきわめて大きな喜びを味わえるようにされたからです。こうして,どんな質素な暮らしをしている人でも,また特別の才能あるいは多くの富の有無にかかわりなく,あらゆる人が生活上の最大の祝福の一つを享受できるようにしてくださったのです。―創世 1:26-28; 2:18-24。

20,21 (イ)エホバ神はなぜ性の賜物を律するおきてを定められましたか。(ロ)この点で神の律法を犯す人について,神のこのことばはなんと述べていますか。

20 しかし賢明かつ公正,また合理的なことに創造者はこの賜物に関して制限を設けられました。これは専横どころか,人間自身の益,なかんずく弱い器である女性と,またそうした祝福の結果に生まれる子孫との益をはかってのことでした。この理由で神は淫行や姦淫を禁じられました。人間には飲食が必要です。しかし,そうだからといって飲食物を盗んだり,暴食したり,泥酔したりしてよいというわけではありません。同様に,神の律法や,自分自身あるいは他の人に及ぶ結果を考えず,勝手気ままに性の力を行使してはなりません。ゆえに,考えやことばおよび行為によってこうした性本能を表わす際には自制を行使することが要求されているのです。この理由で神のことばは夫に対しこう戒めています。「汝おのれの水溜より水を飲み おのれの泉より流るる水をのめ」― 箴言 5:15-23。

21 そうです,性本能を呼びさまし,充足させるときの快感はきわめて甘美なものです。ゆえに堕落した人間の心には,そうした快感をほしいままにしようとする強い傾向が宿っています。しかしこの営みは結婚のわくの中で行なわれるのでないかぎり,「淫行,けがれ,好色」など「肉の行為」として聖書で非とされています。こうしたことを行なう人は神の国の祝福から退けられます。それは聖書にこう述べられているとおりです。「聖徒たるにかなふごとく,淫行,もろもろのけがれ,またむさぼりを汝らのうちに称ふることだにすな……すべて淫行のもの,汚れたるもの,むさぼるもの,すなはち偶像を拝む者ども(は)キリストと神との国の世嗣たることを得ざる(なり)」― ガラテヤ 5:19-21。エペソ 5:3,5。

22 異性間の注意深いふるまいに関し,聖書は人間男女にどんな助言を与えていますか。

22 堕落した人には他の者を誘惑することを喜ぶ傾向が見られますから,特にクリスチャン男子は言行に関して注意深く自制し,異性の心にみだらな思いをいだかせないようにすべきです。一方,クリスチャン婦人はよく注意して,「慎みてよろしきにかなふ衣にて己を飾(る)」ようにすべきです。女性にとって男らしさは喜びをもたらします。同様に男性にとって女らしさは喜びを与えます。しかし慎みを欠いた女らしさはみだらな喜びを与えるものです。この点,ミニスカートは慎みのあるものとはとても言えません。マタイ伝 5章28節にしるされているイエスのことばには女性にとって深い意味があります。どうしてですか。なぜなら,クリスチャン婦人は扇情的な装いをしてはならず,男子を誘惑して自分に目をつけさせ,男心を手玉にとってあつかましい楽しみを味わってはならないからです。また,このことばを犯す男子は,自分が罪を犯すだけでなく,相手の情欲を呼びさまし,女性にも罪を犯させることになるでしょう。年配の婦人を「母のごとく……若き女を姉妹のごとくに全き貞潔をもて」取り扱うべきであるとすれば,クリスチャン会衆内の男女双方が各々の分を果たさねばなりません。―テモテ前 2:9; 5:1,2。

他の分野で行使する自制

23,24 クリスチャンは他のどんな分野でも注意深く自制すべきですか。

23 創造者は人間以外の下等動物には自制を行使する義務を課されませんでした。それら動物は生来の本能に従うだけで十分やってゆけます。そして定められた寿命だけ生きて,それぞれに対する神のお目的を果たします。しかし人間は違います。エホバ神は思考力,良心そして意志を人間に付与されました。ところが人間が堕落したためそれらの働きはそこなわれました。したがって不完全な人間は喜びを味わえる事柄ではそれが何であれ,極端に走らないよう絶えず自分を懲らしめなければなりません。ですから,スポーツ,いろいろな趣味その他の娯楽は,もし限度を定め,それを正しい位置にとどめ,またもし適度に楽しむのであれば,なんら悪いものではありません。なんらかの趣味あるいはテレビを見るにしても,健全な娯楽を適度に楽しむのがむずかしいなら,そのわなに陥るよりは,そうした楽しみをきっぱり断つほうが賢明でしょう。―マルコ 9:43-48。

24 日常の世俗の仕事についてさえ同じことが言えます。それはなかなか興味深い,あるいは挑戦に富んだ仕事かもしれません。または高収入その他の益のゆえに報いの多い仕事と思えるかもしれません。そしてこうした事柄のため,自制することを忘れ,無理をして働くようになる場合もあります。そのような人の多くは高血圧や心臓発作で倒れることがあります。それにまた,多くの人は物質的なものを獲得することで自分を制することができません。そのような人はセールスマンの口車に容易に乗せられておろかな買い物をし,負債を作るようになります。

25 自制の価値と必要性に関し,この記事ではどんなことを取り上げましたか。

25 確かに自制の価値と必要性はいくら強調しても強調しすぎることはありません。自制しないかぎりクリスチャンとしてのわたしたちの働きは「おそらく」ことごとくむなしくなってしまうでしょう。自制の欠如のため人類は罪と死への道を歩むことになり,またエホバのしもべたちの多くが堕落し,不幸に陥りました。しかし聖書中の多数の人間が示したとおり,自制することは可能です。とくに飲食や性そして娯楽などの楽しみ,つまり楽しみを味わえる事柄に関して,賢明で忠節かつ正しいことを行なうには,確かに自制が必要です。

[650ページの図版]

自動車のたとえで自制の必要性を説明できる。車はエンジンの出力があっても,進行方向や速度を制御できなければ役にたたない

[651ページの図版]

ノアの洪水は,神が自制なされたことを示す例である。神は当時の邪悪な世代の人々を滅ぼすのに120年間待たれた

[652ページの図版]

ダニエルとその3人の友は,王の食べたごちそうにあずかることを拒んて自制を示した。そうした自制心のゆえにエホバは彼らを祝福された

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