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  • 神の奴隷になるクリスチャンの得られる真の友
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
塔70 5/1 284–285ページ

神の奴隷になるクリスチャンの得られる真の友

奴隷になることを勧められたなら,あなたはどうなさいますか。わたしは奴隷としてたいへん楽しく生活しています,と言う人がいたなら,あなたはどう思われますか。神のみことば聖書の中に,ある種の奴隷になることが勧められており,そうすることにより純粋な真の友情が得られるのを知って,驚かれますか。

永続する友情は良いことにちがいないが,奴隷になることには承服できない,とお考えになるかもしれません。普通,奴隷と言えば,確かに圧制を連想させるものです。しかし,神のみことばの中で勧められている奴隷は,まったく異なったものです。従属と仕事が要求されはしますが,主人は愛に富むかたであり,かならず益を与えてくださいます。

聖書の詩篇に預言的に表わされている,神の御子イエス・キリストの次の態度を考慮してください。「わたしの神よ,御心を行なうことをわたしは大いに喜んできました。あなたの律法はわたしの内部にあります」。(詩 40:8,新。ヘブル 10:5-7)神の御心を行なったイエスは幸福でした。聖書は,かれが「己を空しうし僕のかたちをとりて人のごとくなれり」と述べています。―ピリピ 2:7。

謙遜にかんするなんとすばらしい模範ではありませんか。イエスは天で栄光と栄誉を享受していたにもかかわらず,すすんで「しもべのかたち」をとられました。それが御父のみこころだったからです。「このゆえに神は彼を高く上げて,これにもろもろの名にまさる名を賜いたり」,と聖書は述べています。(ピリピ 2:9)神への忠実に対するなんという祝福でしょう。

クリスチャンとしての奴隷

イエス・キリストの足跡に付き従おうとする人は,すべて奴隷にならなければなりません。「汝らは価〔イエスのあがないの犠牲〕をもて買はれたる者」であることを,聖書はクリスチャンに思い起こさせます。(コリント前 7:23)初期の弟子たちは,奴隷としての自分の立場を喜んで明らかにしました。ヤコブの手紙の書き出しは,「神および主イエス・キリストの〔奴隷〕ヤコブ」となっています。(ヤコブ 1:1,〔新〕)パウロの手紙の書き出しも同様です。「神の〔奴隷〕またイエス・キリストの使徒パウロ」。(テトス 1:1。ロマ 1:1。ピリピ 1:1〔新〕)天の御父とイエス・キリストの奴隷になることは,これらの人にとって幸福なことだったのです。

今問題となっているのは,奴隷になりたいかどうかということではありません。自分がどう考えるかにはかかわりなく人はみな奴隷である,と聖書は説明しています。「なんぢら知らぬか,己をささげ〔奴隷〕となりて,誰に従うともその〔奴隷〕たることを。あるひは罪の〔奴隷〕となりて死に至り,あるひは従順の〔奴隷〕となりて義にいたる」。(ロマ 6:16〔新〕)したがって問題なのは,どの主人に仕えるか,ということです。

神の奴隷であることの益と,神が反対されるものの奴隷である場合とを比較して考えてみてください。聖書に記録されている一通の手紙は,クリスチャンに向かって次のように語りかけています。「されど今は罪より解放されて神の〔奴隷〕となりたれば,潔きにいたる実を得たり,その極は永遠の生命なり。それ罪の払ふ価は死なり,されど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠の生命なり」。(ロマ 6:22,23〔新〕)ですから,忠実な『神の奴隷』になることによって,永遠の命という確実な約束にあずかることができます。

次の事実を無視することはできません。すなわち,完全に自由な人はひとりもいないということです。自分の良心に従って生きていけば良いと考えている人は,実際には自分の肉欲の奴隷となっているのです。そういう人は,罪の奴隷です。しかし,それを認めようとはしません。

あるとき,戸別訪問をしていたクリスチャン奉仕者に向かって非難をあびせた男の人がいました。「あなたのよりどころは,あなたの使うその聖書ではありませんか。あなたの考えは自分のものではなく,その本からの借りものなのです」。奉仕者は,その人の部屋の壁に並べてある多くの書物に注意を向けながら,その人の考えが,かれが何度も引き合いに出した哲学者たちの考えにほかならないことを,巧みに指摘しました。

奉仕者の指摘したことは事実です。人は皆,自分以外のものの考えを取り入れて,思想と行動を形成します。神とキリストの奴隷として,そのお考えと行動に動かされるクリスチャンは,なんと幸福でしょう。

真の友が得られる

イエス・キリストは,神の奴隷になるクリスチャンがあずかることのできるすばらしい友情について,弟子たちにこう言われました。「汝もし我が命ずる事をおこなわば,我が友なり」,(ヨハネ 15:14)この友情を成立させる条件に注意してください。それは,キリストと御父の命じられた事柄を行なうことです。この事実を見失ってはなりません。次のような例を用いると,この点ははっきりしてきます。

それは海べを子どもといっしょに散歩している父親のようなものです。ふたりはいっしょに遊んだり,笑ったりしています。父親はむすこといっしょに砂丘を登ったり,走り回ったりしながら,ほんとうに仲よく遊んでいます。むすこは父親を見上げて,「おとうさん,ぼく,おとうさんのともだちでしょう」,と尋ねます。父親は,「そうだとも。もちろん,おとうさんの友だちさ」,と答えます。

後になって,父親はむすこに帰る時間になったことを知らせます。むすこはためらいます。「だって,帰りたくないんだもの。ここにいて,もっと遊びたいんだもの」。「だけど,良い子なら,おとうさんの言うことを聞くものだよ」,と父親は注意します。

「でも,おとうさんは,さっき,ぼくたちは友だちだって,いったじゃありませんか」。

「そうだよ」父親はうなずきます。「おとうさんの言うとおりにする間は,友だちどうしなんだよ」。

神とキリストに対するクリスチャンとしてのわたしたちの友情についても,同じことが言えます。わたしたちが神とキリストとのすばらしい関係を保っているのは,その命令に従順であるからです。この友情は,けっして失いたくないものです。しかし,クリスチャンとして神の奴隷になって初めてこの真実の友情が得られるのです。このことを忘れないでください。

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