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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1972
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クリスチャンの円熟 ― 捕らえどころのない目標?

「クリスチャンの円熟」とはいったいなんですか。あなたはこれをどう定義しますか。あなたはクリスチャンとして円熟していますか。それとも,円熟するために努力しているところですか。

クリスチャンとして円熟するという意味を正しく理解することはほんとうに価値があります。というのは,ひとつには,まちがった理解は失望につながるおそれがあるからです。まちがって理解していると,クリスチャンの円熟とは,近づいたと思うと遠のいて人をじらす,きつね火か,しんきろうのように思えることがあります。しかし,クリスチャンの円熟を遂げることは,そういう捕えどころのない目標ではありません。

またまちがって理解していると,あやまった標準によって他人を評価もしくは判断することになりかねません。そのために他の人たちの美質がわからなかったり,十分に認めることができないということがあるかもしれません。クリスチャンの円熟のまちがった概念は,他人を低めて自分を高める,あるいはある人々をえこひいきするといったまちがいのもととなることがあります。

霊的な意味での子どもから成長する

ふつうの意味では,「円熟した」人とは,子どもの域を脱して成人になった人のことです。肉体の成長は一定の線に達すると安定します。感情の成熟もいくぶん同様の道をたどりますが,多くの場合,肉体の成長より長くかかります。

クリスチャンにも,霊的な意味での子どもから霊的な成人になる,つまりクリスチャンとして円熟するということがあります。ではどうすれば,自分が霊的な成人になったことがわかりますか。

「キリストにある幼児」には,キリスト教の真理の「乳」だけを与える必要があります。そういう「幼児」は,何が真理かについて確固とした信念がありません。ですから,その歩みもよろめきがちで,偽りの教えを唱道する人間の策略や悪知恵に容易に誤導されます。そういう子どもっぽい状態にある人は,「キリストのからだ」であるクリスチャン会衆が成長し,『自ら愛によりて建てられる』ことにあまり貢献できません。(エペソ 4:12-16)そのような人はまだ「肉に属」していて,人をねたんだり,争ったり,宗派心をいだいたりする傾向があるでしょう。そして,「霊に属する者」となるためには,成長してそうしたこの世的なならわしをすてる必要があります。―コリント前 3:1-4。

わたしたちのうちにそういう状態の人が,つまり不安定で,キリスト教の真理について確信がなく,依然として人間に従う傾向があり,霊的な兄弟である人々との一致にはいらず,したがってクリスチャン会衆を建てたり強化したりする愛を養っていない人がいるでしょうか。もしいれば,クリスチャンとして円熟することに努力を傾けねばなりません。また,つぎのことを知っておかねばなりません。つまり,霊的な子どもから霊的な成人への成長は,肉体の成長のように自動的ではないということです。それにはわたしたちが真しな努力を払わねばならず,神またそのみ子と協働し,この両者が備えてくださる,霊的な成熟もしくは完ぺきさに達する手段とも協同しなければなりません。

キリスト教の真理を全面的に受けいれる

したがって,クリスチャンの成人となる霊的な成長過程の主要な点は,キリスト教の真理を全面的に受けいれることにおいての進歩です。1世紀当時のヘブル人のあるクリスチャンは,「神の言の初歩」にとどまって,それより進歩しなかったために,まだ『乳を必要とする』者のような状態にあり,「知力を練習して善悪を弁ふる成人の用ふる」堅い霊の食物を食べる用意がありませんでした。そのためにパウロは,彼らに手紙を書き,「完全に進む」よう彼らを励ましました。彼らはどのように円熟を目ざして進みましたか。もしわたしたちがまだそうしていないとすれば,どうしたらできるでしょうか。

使徒がそれらクリスチャンに示したところによると,彼らは建物の基だけをすえて,それ以上仕事を進めない建築家のようであってはなりませんでした。この場合の「基」は,キリストに関する初歩的な教えです。その基の上に建つ“上部構造”,つまり神の子をとおして啓示された神の目的に関するより進んだ教え,初歩の教理よりも説明のむずかしい教えに向かって前進すべきでした。

その点での進歩は急を要する重要なことでした。なぜなら,永久に停帯していることはできなかったからです。結局,前進するか,あともどりするか,どちらかにしなければなりませんでした。あともどりすることは何を意味したでしょうか。それは背教,つまり真の信仰を捨てることを意味し,しかも滅びをもたらします。―ヘブル 5:11–6:8。

もちろん,それらさらにむずかしい教理の理解における進歩には,それに相当した霊的な見方と,クリスチャンとしての人格の成長が伴わねばなりませんでした。また,頭に知識を貯えるだけでも不十分でした。それら進歩した真理は,「初歩」の教えがすでに生活に影響をおよぼしていたように,やはり生活の上に表われねばなりませんでした。

今日,わたしたちは,霊感による神のみことばを全部持っています。では,その教えを全面的に受けいれ,またそれに一致して生活するよう誠実に努力しているでしょうか。それとも,今日の多くの名ばかりのクリスチャンのように,自分の好きなところだけ選んで信じていますか。そういう人たちは,神の子の弟子であることに関して,自分が守りたいと思うことだけを守り,全面的に従おうとはしません。したがって,多くの教派に分裂しています。わたしたちはそういう状態にありますか。この質問に対する答えは,わたしたちがクリスチャンとして円熟しているかどうかを知る助けになるでしょう。

クリスチャンの円熟は進歩の終点ではない

しかし時がたつにつれて,わたしたちは神のみことばをよりよく理解するようになり,いくつかの『こまかい点』の理解をも含めて,特定の真理の知識を増すのは事実ではないでしょうか。そのとおりです。では,わたしたちはほんとうに円熟しているでしょうか。それとも,それは常にわたしたちの前方にあって,わたしたちは踏み車でも踏んでいるかのように,円熟という目標には決して達しないのでしょうか。そういうわけではありません。では,なぜそうでないかを考えて見ましょう。

聖書が用いている幼児とおとな,または成人(『十分に成長した』[エペソ 4:13]。「円熟」と訳されているギリシア語と同一のギリシア語[テレイオテス]の訳)のたとえを考えてみてください。子どもが成長しておとなになるとき,そのおとなは,男女成人の持つべき知識,経験,分別をすべて備えているでしょうか。そうでないことはいうまでもありません。その人はおとなになっても進歩をつづけます。

円熟したクリスチャンも,知識,愛,信仰その他,神の霊の実である特質すべてにおいて,進歩しつづけなければなりません。では,それによってその人は『さらに円熟した』と言えるでしょうか。

そうは言えません。ひとりの成人が,成人したのち経験を積み,知識を増し加えたからといって,『さらに成人した』とは言いません。それと同じことです。50歳の人は40歳の人より『もっと成人』であるといえますか。また,60歳の人のことを『たいへんな成人』と呼び,70歳の人のことを『すごい成人』と言いますか。そうは言いません。それはこのことばの意味ではないからです。またそれは,「円熟」ということばの意味でもありません。

1世紀においては,知恵を表わし,教え,勧め,戒める資格を持つ円熟したクリスチャンの男子は,会衆内で「年長者」として任命されました。(テモテ前 3:1-7。テトス 1:5-9)ということは,彼らだけが円熟したクリスチャンで,そのように任命されなかった者は『未熟』だったということでしょうか。そうではありません。というのは,その人たちが持っていた特質,つまりそのようにして奉仕する資格を付与させた特質は,すでに円熟したクリスチャンだった彼らに,さらに増し加えられたものだったからです。たとえば,一般の生活において,むすこは成人し,結婚して,自分の家族を持っても,まだ父親や他の年長者に,ある問題について助言や導きを求めることがあります。それは彼らのほうが,経験も知恵も深いことを認めているからです。それと同じく,クリスチャンも,彼ら自身霊的に円熟していても,会衆内の霊的「年長者」から益を受けられるのです。―使行 20:17,28。エペソ 4:11,12。

子どもの,人生における目標が,単におとなになるということ以上のものでなければならないのと同じく,わたしたちもクリスチャンとしての円熟を,望ましい状態であるけれども,それは究極的な目標ではない,と考えなければなりません。わたしたちが長足の進歩をとげ,兄弟たちにすぐれた援助を差し伸べることを可能にし,かつ神の最終的是認を得て永遠の命を得るという,究極の目標にわたしたちを到達させる知恵と忍耐力を養いうるのは,わたしたちが円熟したクリスチャンになったあとのことです。

したがって使徒パウロは,クリスチャンの兄弟たちに,彼らの目標である天への召しという賞をめざして進むように励まし,次のように言いました。「されば我等のうち成人したる者は,みなかくのごとき思を懐くべし,……ただ我等はその至れる所にしたがひて歩むべし」― ピリピ 3:12,14-16。

ですから,正しく考えるなら,円熟は,登れば登るほど際限なく横暴がふえていく,人を落胆させるはしごではなく,非常に役だつ仕事台として見ることができます。

未熟へ逆もどり?

しかし,仮にあるクリスチャンが,ある霊的な問題においてまずい判断を下す,またはキリスト教の原則に合わない行為をするとします。その行為は,会衆から排斥されるほど重大ではないかもしれませんが,それでもある聖書の助言を十分に適用しなかったことを示しています。これは当人が『未熟』であるしるしでしょうか。

必ずしもそうとは言えません。年が若いために,すなわち『新たに改宗した』(テモテ前 3:6)人であるために,未熟なのかもしれません。そして,そのために真理に堅く立っていないのかもしれません。一方,その人は長い間クリスチャンの奉仕をしてきた円熟したクリスチャンかもしれません。その人がどんな人か,円熟しているか未熟かを決めるのは,行為自体の重大性,つまりその大小ではありません。判断のまずさと弱さが子どもの特徴であることは事実です。しかしおとなでも時にはそういうことをする場合があります。あなたは,おとなでありながら,「子どもっぽい」ことをしたり言ったりして,恥ずかしい思いをした経験はありませんか。それでもあなたは,それによって現実に子どもにもどったわけではなく,やはりおとななのです。

円熟したクリスチャンがまちがった道を歩むのは,神のみことばの勉強を怠ったり,まちがった欲望をいだいて,神とキリストへの献身の念が弱まり,霊的な病気にかかったりしたためかもしれません。おとなでも病気になると,『赤ん坊のように弱く』なることがあります。それでもその人はおとななのです。彼は病気であるために一時,赤ん坊向きの食物である,ミルクその他の柔らかい栄養物を食べる必要があるでしょう。それと同様に,霊的な病気にかかったクリスチャンは,円熟していても,一時のあいだ,他の人が彼を助け,世話をし,霊的な栄養物さえ与えて,霊的な健康と力を回復させる必要があります。―ヘブル 12:5,6,12,13。ヤコブ 5:13-16を比較してください。

もちろん,円熟したそのクリスチャンは,霊的な病気になるどころか,悪に進み,非行者または背教者になるかもしれません。しかし,未熟に逆もどりするわけではありません。熟した(あるいは成熟した)くだものは悪くなると,ふたたびあおく(未熟に)なるわけではありません。それはいたみ,そして腐ります。―ヘブル 6:1-8; 12:15。

円熟したクリスチャンの多様性

それで,「円熟」ということばを,すべてを包含する,大ざっぱで不明瞭な,いわば「がっさい袋」的表現として用いることは避けるのがよいでしょう。また,それは,クリスチャンはどうあるべきかに関して,自分で想像した理想を支持するだけのものであってもなりません。円熟したクリスチャンであればみな,その性格,または霊的な特質の表現においてまったく同じというわけではありません。例として,二つの果樹園のことを考えてみましょう。どちらにも種々の果樹が植わっています。両方とも成熟しています。つまり完全に生長した,果実を結ぶ木があります。しかしひとつの果樹園にはナシの木よりリンゴの木のほうが多く,もうひとつの果樹園にはリンゴよりもナシの木のほうが多いかもしれません。

同様に,円熟したクリスチャンも,神の霊の実を結ぶことに関して,ある面が他の面より強いかもしれません。(ガラテヤ 5:22,23)ある人は知識においてすぐれ,別の人は親切で忍耐強いことが特に目だち,さらに別の人は,問題に対して良い判断と分別を働かすことに特にすぐれ,並はずれて寛大で人をよくもてなし,またすぐれた指導力を持っているかもしれません。(コリント前 7:7; 12:4-11,27-31と比較してください。)しかしこの多様性は未熟のしるしではありません。そのような人々はみな,『成人した』クリスチャンではない,ということを意味しません。「円熟」するといっても,全部のクリスチャンが同じように強く,あるいは同じように才能を持っていなければならない,ということではありません。また円熟したクリスチャンは型にはまっているわけでもありません。それぞれが自分なりに,円熟したクリスチャンとして,『キリストのからだを建てること』に何かの面で寄与するのです。―エペソ 4:15,16。

わたしたちはまた,クリスチャンの円熟ということに関し,この世的な規準に従って,この世の教育や,物事のこの世的な仕方の経験にとぼしく見えるという理由で,ある人を未熟とすることを避けねばなりません。もし1世紀のクリスチャンが,今日のような工業化された管理社会に放りこまれたとしたら,たしかに,未知の不慣れな要素がたくさんあり,少なくとも一時は途方に暮れるでしょう。そのために彼らを未熟なクリスチャンとみなせますか。そうでないことは明らかです。クリスチャンが円熟しているかどうかは,現代の仕事の仕方,または都会生活における知識,経験あるいは能率などによって決められるものではないからです。それは,聖書に述べられている霊的条件によって決まります。それらの条件は,あらゆる場所で,あらゆる人に,そしてあらゆる時代に等しく適用されます。したがって,地理的位置,職業,社会的地位などは決定的要素ではありません。

1世紀のある漁師たちは,神のみ子の円熟した弟子になりましたが,高い教育のある律法学者や宗教指導者たちはおおむね失敗しています。円熟したクリスチャンが用いるのは聖書の原則です。その原則は,都会同様いなかにも適用でき,「進んだ」工業国におけると同様,「遅れた」未開の国にも適用されます。ですから,クリスチャンはだれでも,この世的な規準から見て能力に欠けているからといって,クリスチャンとして円熟することに関して失望する必要はありません,― コリント前 1:26-31; 2:3-6。コリント後 1:12。

それで,もしわたしたちがまだ円熟に達していないなら,それに向かって「進み」ましょう。わたしたちは円熟していますか。では,それを十分に生かして,『雄々しく,かつ強くなり』,未熟な人々を助け,そしてわたしたちを円熟させ,またわたしたちを最後の目標である,神の是認による永遠の命に到達させる同じりっぱな仕事をつづけていきましょう。―コリント前 16:13,14。ガラテヤ 6:1,2。ピリピ 3:15,16。

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