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  • あらゆる人がエホバの証人となっている理由
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1974
塔74 1/1 17–20ページ

あらゆる人がエホバの証人となっている理由

今日世界じゅうで,犯罪や暴力や緊張が増加しているため,将来に対する信頼の置ける希望を与えてくれるものの必要を意識している人は少なくありません。そうでない人びとは,『今の生活から得られるだけのものを得て楽しむ』ことが最善だと考えています。彼らは,酒や麻薬によって現実の厳しさから逃避しようとしています。確かに,中には宗教にその答えを求めた人もいました。しかし,彼らはキリスト教世界の諸教会の行ないや教えになんとしばしば落胆させられて来たのでしょう。また,希望を与えてくれるよりすぐれた何物かを熱心に求め,それを見いだした人びともいます。彼らは,どのようにそれを見いだしたのでしょうか。そうした人びとの何人かにそのことを直接話してもらうことにしましょう。

生きる理由

シカゴに住んでいるある婦人の例を考えてみましょう。その婦人は正式な結婚をせずにある男性と20年間もいっしょに生活しており,ふたりの間には子どももいました。自分の運命には何の希望もない,とその婦人は感じていました。当時の状態を彼女はこう語っています。

「わたしはただ死ぬことしか考えませんでした。当時の生活に何の喜びを見いだすこともできませんでした。わたしは,助けが得られると思って,降神術を行なう『俗人祈とう助言家』のもとに行きました。しかし,いっそうの失意を感じただけでした。というのは,3回行っただけでその祈とう助言家は100㌦(約2万6,000円)も請求し,そのうえわたしに不道徳を犯させようとしたのです。わたしはすっかり神経をやられてしまいました。わたしはどうしても必要としていた平和を見いだそうと,大酒を飲み始めました。しかし,それは助けにはなりませんでした。ついにわたしは,見たところ何の価値もない,むなしいこの生活から逃れる唯一の手段は死だけであると結論しました。

「しかし,わたしはまだ生きたいと願っていたようです。生きる理由を見いだそうと必死に試みて,わたしは神に頼りました。神に,わたしを助けてくださいと祈りました。

「数日後に,エホバの証人がわたしの家を訪れました。初めはすぐに追い返してしまいましたが,わたしは彼らをもう一度呼び戻すことにしました。聖書研究が取り決められ,わたしはじきに息子たちといっしょにエホバの証人の集会に出席し始めました」。

この婦人は,2年間にわたる聖書研究をとおして,自分の人生観を変えてしまうようなどんな事がらを学んだのでしょうか。彼女は,エホバ神が人類のために,この世代のうちに地上からすべての悪を取り除き,イエス・キリストによる神の王国をとおして地上の事がらを管理されるという,驚くべき目的を立てておられることを知るようになりました。また,神の是認と祝福を得る人びとに神が求めておられる要求にかなう必要も認識するようになりました。そこで,彼女は20年以上いっしょに生活して来た男の人と結婚しました。また他の点でも,自分の生活を神のみことばである聖書に一致させました。何が起きたかについて,その婦人はこう語っています。「わたしが神に献身し,バプテスマを受けたことをお知らせできるのは喜びです。今や,わたしと息子たちのすべてはともにエホバに仕えています」。

神のことばを完全に受け入れる

自分の通っている教会が聖書に忠実に従っていないことに幻滅を感じている,とだれかが語っているのを耳にしたことがありますか。中にはこうしたことが,神の意志に全く反する生活に彼らを陥れる場合さえありました。アメリカ,テキサス州に住むある男の人は自分の経験をこう語っています。

「結婚してから2年ほど後のことでした。わたしたち夫婦は,どこか適当な教会を見つけ,そこに出席する必要がある,と考えるようになりました。結婚する前にわたしが行っていた教会は,わたしにとって不適当だったので,わたしたちは妻の通っていた教会に行ってみることにしました。しかし,その教会には一度だけしか行きませんでした。ですから,どの教会にも行かなかったのと同然でした。

「わたしたちは毎日,型にはまった決まりきった生活をしていました。わたしたちには親しい友人はいませんでしたし,付き合っている人たちといえば親族ぐらいのものでした。このことは,わたしたちが懇談しているとほとんど毎回,最後には酒に酔ってしまうという点を除けば格別不都合ではありませんでした。

「わたしは神と聖書の必要を意識しました。しかし同時に,わたしには祈る権利がないとも感じました。というのは,わたしはあらゆる種類の悪いことをしてきたからです。ある人が言ったことば(『たとえ知識を祈り求めるだけでも,神は助けてくださいます』)を思いだしたわたしは,祈ってみることにしました。それは土曜日の夜のことでした。妻と子どもは眠っていました。『愛する神よ,もし神がいるなら,正しい宗教を見いだせるようわたしを助けてください』。

「翌朝わたしは,床から起きると玄関の方へ歩いて行きました。すると,一枚の紙片が風に吹かれて玄関を横切っていくのが窓を通して見えました。その紙がどこから来たのか見当もつきませんでした。というのはその前日に,わたしたちは草を刈り,庭をきれいに掃除しておいたからです。とにかく,わたしは外に出て,それを捨い上げました。それはどこかの教会の招待状のようでした。

「神がわたしの祈りに答えてくださったと考えて,わたしは興奮しました。4時にその教会に行くつもりだ,とわたしは妻に告げました。妻は行きたくありませんでした。しかしわたしは,彼女が行こうが行くまいがわたしは行く,と言えば,妻の思いが変わることを知っていました。そして,妻も行くことになりました。

「3時半に,わたしたちはその教会の駐車場に着きました。そこには『エホバの証人の王国会館』という看板が掛けられていました。わたしは,エホバの証人という名前をそれまで聞いたことがありませんでした。会館に向かって歩いているとき,わたしの頭には別の考えが浮かんできました。つまり,『彼らの名称からすると,おそらく彼らは「聖霊」につかれて,床をごろごろころがり回るような人たちだろう』と考えたのです。そんな人たちとかかわりを持ちたくありませんでした。そこで,わたしたちは車の方に戻り始めました。しかしその時,『もし,これが正しい宗教だったらどうだろう。今帰るなら,もう二度とここには来ないかもしれない』と妻と話し合い,わたしたちは会館の中に入りました」。

会館の中でその夫婦は何を見たでしょうか。また,エホバの証人についてどんな印象を受けたでしょうか。

彼は続けてこう語っています。「わたしたちは簡素で,しかも上品に飾られた部屋に気づきました。席に着くと,わたしたちはあたりを見回し始めました。みんなが互いに話し合い,お互いにほんとうに関心を払い合っているようでした。じきに,彼らはわたしたちのところにやって来て自己紹介をし始めました。わたしは,15分ほどの間いろいろな質問に答えてもらった後に,ここにいる人びとが聖書に関する真理を持っているに違いない,と確信しました。有給の牧師もいなければ寄付盆もないというようなことや,神に関する事がらを人びとに告げるため,実際に家々に出かけて行くこと,また彼らがわたしたちに示した真の関心などがわたしに感銘を与えました。

「ひとりの人が近づいて来て,家庭聖書研究をすることはどうかと勧めてくれました。もちろん,わたしたちはその勧めに応じました」。

世からの分離

すでにご存じのように,キリスト教世界の教会員は政治に関与しています。しかし,『自分を世からしみのない状態に保つ』ようにという聖書の戒めはどうなっているのでしょうか。(ヤコブ 1:27)エホバの証人は,まず第一にキリストによる神の王国に対して忠誠が示されなければならないことを認識しており,世の政治とかかわりを持ちません。真理を捜し求めていた人びとは,このことを知って深い感銘を受けました。

ニューヨーク州に住むあるエホバの証人は,人びとの家庭を戸別に訪問していたとき,友好的な態度の男の人に会いました。その男の人はこう言いました。「わたしはこれから2つの質問をします。わたしたちの会話が続くか,あるいはあなたがここを去るかはあなたの答えいかんにかかっています。最初の質問はこうです。あなたは聖書のほかに何かを真理として信じていますか」。その証人は,エホバの証人は霊感を受けた真理として聖書だけを信じており,人間の作った伝承や信条を受けいれていないということをその人に得心させました。「最初の質問に対しては正しく答えました。次の質問には恐らく正しく答えられないでしょう。わたしは,政治に全く関係していない宗教を捜しています。あなたは政治にいくらかでも関与していますか」とその男の人は言いました。彼は,エホバの証人があらゆる政治活動から全く離れており,投票さえしないということを知らされてほんとうに驚きました。やがて,この男の人と彼の妻のふたりと聖書研究が始まりました。今では,ふたりともバプテスマを受けたエホバの証人です。

教会の慣行や教えに当惑させられる

現在エホバの証人となっている人の中には,自分たちが以前通っていた教会の教えや慣行に困惑していた人もいます。誠実であったにもかかわらず,彼らは自分のいだいている疑問に満足のいく答えを見いだすことができませんでした。チリに住むある婦人はこう語っています。

「わたしは9歳の時から神に仕えたいと願っていました。そしてローマ・カトリック教徒であったわたしは,司祭や修道女を敬愛していました。22歳のとき,わたしは修道女としての修練を受けるために修道院に入りました。わたしは三位一体の教理に困惑させられました。その教理は奥義であるという説明にも満足できませんでした。しかし,わたしは沈黙,清貧,苦行および純潔に関する最初の誓いを立てました。そのころから,わたしは幻滅感を味わい始めました。わたしは,修道女として神に仕えることは常に喜びと幸せをもたらすはずだ,と考えていました。当時のわたしはなんとまちがっていたのでしょう。聖書は魔術の本で触れてもならないと考えていました。沈黙の誓いを立てたことは祈るだけで,だれとも話ができないという意味であり,食事にはおよそ人間の食べ物とは思えないようなものが出されました。各人が独居房に入って衣服を脱ぎ,体をむちで打つよう求められました。中には,こうした自己懲戒を加えている間に気絶した人もいました。わたしは,神がほんとうにこうした事がらのすべてを求めておられるのだろうか,と疑わずにはいられませんでした。その後,わたしは修道院を去る決意をし,修道院長が留守の間に家に帰りました。

「ある日わたしは,偶像を崇拝することを禁じている,十戒の二番めの戒めについて学びました。像を拝むことは修道院の日課の一部でしたから,わたしはこのことに驚かされました。その結果,聖書を学びたいという強い欲望がわたしのうちに呼び覚されました。わたしは神に,何らかの方法で聖書を手に入れ,だれかにそれを教えてもらいたい,と熱心に祈りました。(その時,わたしは恐れの気持ちから,修道院に帰ることを決意しました。)

「そのすぐ後に,ひとりの男の人がわたしの家にやって来て,『お早ようございます。わたしたちはみなさんに無償の聖書研究を勧めています』と言いました。わたしはことばも出ませんでした。わたしの祈りは答えられたのです!

「聖書研究が始まりました。なんとすばらしい事がらをわたしは学んだのでしょう。わたしは,聖書の勉強をやめられてしまうのではないかという恐れから,自分が修道女になるための勉強をしていたことはしばらくの間だまっていました。しかし,わたしがそのことを証人に明かすと,彼は,そうした大きな束縛からわたしが自由になるのを援助できることに,わたし自身がいだいているのと同じほどの喜びを表わしてくれました。

中には,以前通っていた教会で教えられた事がらのために,エホバの証人に対して偏見を持っていた人もいました。しかし,彼らは自分の教会に失望した結果偏見を捨てて,エホバの証人に耳を傾けました。フィンランドのある婦人から次のような経験が寄せられています。

「わたしは厳格な宗教教育を受けて育ちました。わたしが若い時分に父は,子どもたちのだれも共産主義者やエホバの証人になりませんように,と祈っていました。将来自分が携わるべき職業を選ぶ必要に迫られたとき,わたしは教会の奉仕者になる決心をしました。そこで,わたしはクリスチャン・フォーク・ハイスクールに行きました。その学校でも,生徒たちはエホバの証人に警戒するよう繰り返し告げられました。エホバの証人は贖いをさえ否定する異端者だと言われていました。

「わたしたちの中から婦人伝道者が求められた時,わたしは進んでそれに応じました。そのためには,さらに教育を受けることが必要でした。もちろん,わたしはできるだけ多くのことを学びたいと願っていましたから,いろいろな事がらについて絶えず質問をしました。しかし,わたしの教師たちはそれを好みませんでした。もっとも,彼らはわたしを親切に扱おうとしてこう言いました。『あなたがこうした事がらについて質問するのはよいことですが,不完全な人間が聖書を完全に理解することは決してできないのです。使徒パウロなどの聖書記述者たちがわたしたちと同じ不完全な人間にすぎないことに,おそらくあなたは気づいておられることでしょう。聖書のすべてが神のことばというわけではありません。そこには人間の考えも含まれています』。

「わたしにとって,神はより遠い,また理解し難い存在となりました。しかし,そうしたことがあったにもかかわらず,6年間の勉強の後,わたしは婦人伝道者としての仕事を始めるべく司教の祝福を受けました。しかし,わたしは幸福ではありませんでした。この仕事を行なっている間に,わたしの個性はめちゃくちゃになり,霊的に行き詰ってしまいました。実際,わたしの目の前で聖書がバリバリ音をたてて破れていくようでした。その後しばらくしてわたしは結婚しました。この結婚は,わたしにとってある意味で救いでした。夫は偏見を持っていませんでしたので,ある時ふたりのエホバの証人を家の中に招じ入れました。夫が望んだため,わたしの家で聖書研究が始まりました。以前に受けた教育のために,わたしはエホバの証人を汚れたサマリア人のようにみなしていました。しかし驚いたことに,わたしは,彼らが聖書全体を神のことばとして受け入れていることにじきに気づきました。わたしが熱心に聖書研究に加わるようになるのに長い時間はかかりませんでした。やがて家族全員が真理を受け入れ,今では喜びのうちにエホバの真の崇拝に携わっています」。

真の愛の証拠を見る

エホバの証人が聖書の述べる事がらを教えている,ということに気づいただけでなく,証人たちが互いに接する仕方に感銘を受けた人も少なくありません。アメリカ,フロリダ州に住むある婦人は,自分の受けた印象をこう語っています。

「わたしはエホバの証人について ― 特にエホバの証人がどれほど愛に満ち,親切であるかということについて聞きました。そこで,わたしは王国会館に行ってみることにしました。わたしは,エホバの証人が行なっている事がら,宣べ伝えている内容,また祈りの仕方などについて何も知りませんでした。

「王国会館に足を踏み入れたわたしは,非常に神経質になっていました。わたしは会館の中の人に話しかけようとして近づいて行きました。そして,周囲を見回してみると,わたしの勤めている薬品雑貨店によく来る婦人がいました。ここにいる人びとの宗教について話し合える人が少なくともひとりいたので,とたんに気が楽になりました。

「集会の後,おそらくみんなは立ち上がって出て行くのだろう,とわたしは考えていました。ところが,彼らはわたしの所にやって来て,わたしの名前や集会はどうだったかというようなことを質問しました。わたしは,わたしがどう感じているかをほんとうに気にかけている人がいることを知りました。彼らがどれほど親切な人びとかを知って,わたしはとてもよい気持ちになりました。彼らはわたしについて ― わたしがどんな人間かについて何も知りませんでした。それでも,彼らはとても親切でした」。

今日,大ぜいの人が,聖書に一致した生活をしようと努めている人びとを捜し求めています。そのようなかたは,できるだけ早い機会にエホバの証人の王国会館を訪れてみてはいかがですか。そこであなたが観察し,また学ぶ事がらは,神および人類の福祉のための神の備えに対するあなたの希望を新たにすることでしょう。

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